(四) 
 

 秋の夜長の更けぬれば、山鳥の尾のしだりに似てしんねりと長く、折りしも夜空には煌々とまあるい月が薄絹の雲に見えつ隠れつ、中天を目指して上がり行く。
 麻布竜土町の別所邸に、すっと細長い影が差した。
 やがて影は男の形をして、柴折戸を越え、裏庭から縁側へ。そうして目指す最奥の寝所へ。
 音もなく障子が滑り開くや、晩秋の小寒い夜風がささ、と頬を撫で、琉璃はうっすらと瞼を開いた。
「御前様、こんな夜更けに」
 ぼんやりと男の顔が見えたので、そう呟いた。
「色男と勘違いしてやがるが、まあいい」
 三位の狐はしめたとばかりに布団を引っぺがした。
 「御前様」と聞いて、此処の旦那は恐らく芝愛宕下あたりのお店の隠居くらいに違いない、と踏んだ。さもなければ女主人と女中二人に、こんな広い屋敷は要らない。
 三位は琉璃の寝間着の裾を割った。夜目にも鮮やかな、白い内腿が開いた。
「何だか……今宵は荒れていらっしゃるのね。琉璃、うれしい」
 潤んだ声で言い、琉璃は跳ね起きると、自ら扱
(しごき)を解いて、男に紐を突き出した。
「さ。いつもの様にこれで琉璃を縛って」
「い、いつもの様に?」
 さしもの三位もこれには狼狽した。
 女は幾人抱けども、流石に緊縛の趣味はなかった。
 唐突に縛れと言われても、「御前様」ではないので判りかねる。
 暫し呆然となったが、目前の艶然たる年増の色香には抗い難い。齧り付いたら果汁の滴りそうな白い腿ににじり寄り、三位はしごきを掛けた。
 柔肌に紐が食込むや否やで、隣室の襖が派手に倒れた。
「わっ」
 と案外気の小さい三位の狐は、後ろへ飛び退った。
 己と同じ白装束の男が立っている。小袖に袴の略式だが、神官そのものの姿で、まだ若い。一寸此処らの田舎には似つかわしくない高雅な顔立ちで、三位を見下ろしていた。
「な、何者ぞおぬしは。我を最上稲荷の名代と知っての無礼か」
 すると、男は冷たい目付きで三位を見据えたまま「たわけ者」と言った。奇妙に堂の据わった口調である。
「たわけは何れじゃ。何処の馬の骨とも知れぬ、ひひ爺が金にあかせて囲っている哀れで美しい女子に我が情けをくれてしんぜようと参ったのだ。横恋慕は許さん」
 三位の切った啖呵に、男は忽ち心証を悪くしたらしい。
「言わせておけば。何がひひ爺か――は、とまれ、そこもとが最上の名代なら躬
(み)は赤坂表町の妙厳寺別院より参りたり豊川ぞ」
「あ、あの虎屋の前の」
「虎屋黒川は、本家は京の御所前にある。あれも別院じゃ」
 豊川はふん、と鼻を鳴らした。
「世に三大稲荷と言い、伏見、豊川、最上。わけても伏見どのは女神宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)にて別格、日の本の稲荷の総元締め。東の総元締めと申さば、我が豊川を正一位と為す。なれど、全国津々浦々、日比谷、烏森、妻恋、道灌山……東京にも数多の稲荷ある。稲荷の会合と氏子の便宜よろしく図らんと、関東、奥羽、信越、東海道、西海道、南海道、近畿云々と取締を定め、かつ西国の大締として任命したる最上どのが、かかる愚劣な名代を関東へ差し向けるとは、これ如何」
 立て板に水の如くの弁舌を聞き、三位はぽかんとなった。
「幾ら、無調法な輩が錦旗を押し立て、玉座を担ぐような世の中なれど、他所の管轄へやって来て町内の女子を姦しまくるとは、怪しからん」
 豊川稲荷はなおも続ける。
「実はかねてよりのそこもとの行状を、東京の稲荷組合から申し出があり、まさかと疑いつつもやって来たが、やはりこの次第。躬は捨ておけぬ」
 三位が呆気に取られているうちに、豊川は大刀を引き出した。
「腹を召されよ」
「げっ」
「何を恐れる。失態ある時、進退窮まり己の醜き姿を晒さぬ前に、凛然と腹を切るのが稲荷の倣い。出来ぬ時は打首にして体は臓腑を抜き、塩漬けにして饗す」
「そんな」
「自裁した者には、死人いや死狐に鞭打つような真似はせぬのも、我等の法度。さて、三位どの如何いたす」
 詰め寄られて、三位は泣き出したくなった。姦通の事情は人倫に悖るとはいっても、地獄の沙汰も金次第。狐の掟がこれ程に厳しいとは。
「もっ、申し訳ございませんでした。わっしは最上稲荷の名代などじゃあございません。今は只のフーテンの香具師。前は渡り中間をやっておりました、助兵衛と申します」
「助兵衛とはまた」
「はは」
 と助兵衛は色男も台無しの涙塗れの顔をくしゃくしゃにして、這い蹲った。
「ても神聖なる稲荷神を騙るとは、不届き千万」
 豊川稲荷は大刀の鞘をぬらりと抜いた。
「この正一位の躬が、ひと太刀でそこもとを彼岸に送ってしんぜよう。泣き言はあの世で言うがよい」
「ひえっ」
 すぱっと鞘払いに刃を閃かすや、助兵衛は仰向けに倒れた。白目をひん剥いて、口から泡を吹いているが、息はあった。斬られたと思い、気絶したようだった。
「愚か者め。そこもとの様な卑劣漢など、刀の穢れ。斬るのも惜しいわ」
 と、吐き捨てるように言う豊川稲荷の袴を、つんつんと琉璃の手が引いた。
「もう結構ですよ、御前様」
 うむ、と豊川稲荷こと松平定敬は納刀した。明らかな茶番だったが、うかうかとそれにしてやられた助兵衛は、余程吃驚したのに違いない。
「――それにしても考えたな。やにわに夜這いに掛けた女の方から緊縛せよなどと言われれば、大抵の男は虚を突かれる」
 それでも色気たっぷりの女なら、何とかしてみしょうと取り掛かるところを真打登場となれば、油断だらけになるに違いない。
「この始末は、他言御無用ですわ」
「惜しいな。おれもせいぜい芝居したしで、新聞錦絵にしたい様な成り行きだってのに」
 とばかりに、ぴくりともしない助兵衛が横たわる寝具の脇で、こういう会話がなされた事は当の本人は知る由も無い。
 翌朝、藤田五郎は警視庁からすっ飛んできた。
「こいつが助平稲荷ですか、例の」
 座敷に入るなり、ぐったり項垂れている助兵衛を見て言う。
「助兵衛ですよ」
 と、琉璃がすかさす訂正した。
「どっちでもいいですよ。連続婦女暴行ならびに恐喝でちょん、ていう事で」
 藤田はさっさか逮捕したいようだ。
 これが、御一新前なら太え野郎だとばかりに見るなり助兵衛を叩っ斬っていたかもしれない。鬼をも震わす新選組・三番組長斎藤一が、藤田五郎の前身である。
 すると、白装束のままの定敬が、大人然として言った。
「婦女暴行か否かというのはねえ、この男にとっくりと訊いてみねばわからんよ。なァ、助兵衛」
 蚊の鳴くような声で、助兵衛ははい、と答えた。
「而しておぬし、何の為に麻布までやってきた?」
「へえ」
「へえ、じゃ何とも仕様のない。聞くだけ聞かせてくれまいか。おれは如何にも豊川稲荷じゃあないがね。その昔は従三位中将を称したこともある。名代の三位様と、そう違いあるまい」
 助兵衛はぎょっとした。成る程、この人の自然な威圧感は貴人の持つそれなのか、と察して畏れ入った。
「畏まらずとも話しておくれ。此処にいる巡査のことは気にせずに。こ奴は犬とでも思って。あ、狐は犬が苦手だったか。藤田、おぬしもうちっと隅に寄れ」
 藤田は命ぜられるままに、渋々座敷の隅っこへ移動した。
 助兵衛は、漸く顔を上げて喋り出した。
 昨晩までの堂々たる色男ぶりは何処へやら。うってかわって、しおらしい口調になっていた。
「昨晩も申し上げやした通り、わっしは元しがない中間奉公の身にごぜえます。生国は備中ですが、父親に連れられて江戸へ参りやした」
 と、初めは身上話が続く。
 話し言葉や風習などが近いことから、十四、五で四国町という四国大名の藩邸が多い辺りで中間になり、屋敷を渡っていた。十八になった頃、手取りがよいというので、市ヶ谷の或る旗本屋敷へ移った。
「思えばそれが運のつき、てえやつでしょうか」
 ふと助兵衛は顎を上げ、遠い目をした。


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