(五)
助兵衛が女中きんとわりない仲になったのは、まだ麻布辺りに長州毛利屋敷があったという頃だから、今より十四、五年ばかり前のことだろう。
その当時の麻布は、今よりも人家も少なく、大名旗本の屋敷以外は草叢の生い茂るような所だった。
御多分に洩れず、助兵衛が中間として入った旗本も、五千石の大身で、丁度毛利屋敷から二、三町南に下屋敷を持っていた。
下屋敷というのは、大名にしろ旗本にしろ、上屋敷が災害に遭った時の為の避難地、病気療養や保養の為の別荘地であるので、郊外の高台に多い。その旗本屋敷がどういう謂れで麻布に下屋敷を持っていたのかはわからないが、とにかく忍び逢うにはうってつけのような鄙びた場所にあったことは確かだった。
きんは姫様付きの女中で、助兵衛より二歳年上であった。姫様は無論、上屋敷の奥に住まっているが、いつしかぶらぶら病というのに罹り、療養の為に一時下屋敷へ移ることになった。
何処のお屋敷でも、使用人同士の色恋には厳しい。
これまでに、数多使用人同士或いは主従の間で間違いが起こり、その故にお家断絶になったかわからない。
この家の主はとりわけ厳格を絵に描いたような男で、
「当家では勿論、他家の屋敷にて賭場を開いたり、博奕に通うことは禁ずる」
世も世として、小身だろうと大身だろうと屋敷の中間部屋が賭場になっているなどは、当たり前のことだった。酒も外で飲んではならず、女郎買いも岡場所ではなく吉原へ何度、という具合に決められていた。
「どうりで手取りが高えわけだ」
助兵衛は納得した。
外で酒を飲んで喧嘩騒ぎ、刃傷沙汰になるのを避け、夜鷹や船饅頭などのいきなり抱かれの安女郎を買って病気になったり、風紀が乱れるのを封じるつもりなのだろう。
女買いを禁ずると、いきおい男色に走ったり、使用人同士でつるむのでよくない。
が。
世の中は理屈どおりにはゆかないもので、下屋敷で厩舎の世話などしていた助兵衛ときんがひょんな事から出来てしまった。
それが主人の耳に入ってしまったのだから、助兵衛は困った。
「――何しろまだ血の気が多い年頃だったもんで、とにかくおきんを手放したくねえ。おきんはおきんで、あんたと一緒でなきゃあ、夜空に星も月も見えないよ、と言うもんで、ついかっとなってしまいやしてね」
助兵衛をきんは、遂に手に手を取って、屋敷を抜け出した。
「とまれ、おれらにゃ頼りもねえ。甲州街道へ出てみよう」
と、内藤新宿へ向かった。だが、追っ手が出ていたのである。
姫様付きの女中が駆け落ちというのは外聞が悪いと考えたのか、見せしめと思ったのか。追っ手は素早く、四半刻もしないうちに追い付いて、二人を囲んだ。暫く、睨み合いが続くも、
「もういけねえ。こうなったら後は……」
助兵衛は急に気弱になって、脇差を抜いた。此処で自害するより他ない、と思ったのである。
すると、きんは脇差を奪い取るや、助兵衛を突き飛ばした。
「あたしはいいから、逃げて助さん」
不意に突っ転ばされた助兵衛が起き上がろうとする僅かな間に、きんは追っ手の男らにわっと取り押さえられた。ややあって、助兵衛をも捕まえようと男が白刃をかざして迫ってきた。
ふと、助兵衛は空手に、其処らにあった祠の榊だの徳利だのを掴んで投げ付けた。
目潰しをしている間に、助兵衛は駆け出した。
「そのまま駆けに駆けて新宿まで。おきんにはすまねえと、鼻水と涙でぐしょぐしょでさァ」
助兵衛は思い出しに泣いた。
「何言ってやがる。泣くぐらいなら、おきんさんを見捨てるやつがあるか」
と、藤田が立ち上がりかけるのを、まあまあと琉璃が宥める。
「その後は見ての通り、というわけか」
「わっし一人ですから、どうにかこうにか生きて来やした。手前で言うのも何ですが、若え頃から一寸役者張りの男前だのと言われてその気になって、田舎芝居の一座にも潜り込んだりいたしやして、つまらねえ小芝居や口上はトウシロに毛が生えた程にゃ出来ます」
「それで三位の狐の芝居も板についていたわけか」
へえ、と助兵衛は頷いた。
「ところが、一時は芝居一座の座長の娘に気に入られ、所帯を持ったんですがえ。どうにもやっぱり、おきんの事が気になってきやして。あんな風にして生き別れたもんで、わっしはずっと心の底でおきんにすまねえと、そればかり」
最早、きんがあの後どうなったかも知れない。己はいわば、きんに命を救われて逃げ延びたものだから、せめて消息を知りたい。それこそ屋敷に連れ戻され、打擲
(ちょうちゃく)ごときで済めばいいが、お堅い主人の事ゆえ、打首にされたかもしれない。思い始めると、さらに気になるのが人情。
「とうとうわっしは一座を抜けて出て来やした。それが一年くれえ前のことで、しがない香具師の真似事などしながら、東京まで戻って来たという次第です」
麻布へやって来た所以はというと、
「あの時此処いらにあったお稲荷さんの供物を壊して、追っ手に投げ付けたもんで、それを思い出しやして。考えてみれば、何と罰当たりな事をしたもんだと気掛かりで様子を見、かたがたお参りに来たんですが」
意外に信心深い。
果たして来て見ると、その稲荷の小祠が何処にあったのかよくわからない。
彼是十四、五年も経っているので、此処らの景色もすっかり変わっている。とにかく目立って大きな祠ではなかったので、虱潰しに探すしかなかった。
それで、最初に入ったのが大橋淳庵宅だったのである。
他人様の敷地に入り込むのはよくないのだが、たまさか昼間裏口の木戸が開いていて、下女が出入りしている。その隙から、庭に存外立派な祠があるのを目にした。
「あれだっただろうか?」と、一寸確かめるつもりで、夜半忍び込んだ。
そこへ出くわしたのが、淳庵の娘およしだった。
「ぬ、盗人」
と叫ぼうとするおよしの口を押さえ込み、祠の下へ連れ込むと、灯明のてらてら揺れる明かりに助兵衛の顔が照らし出された。
およしは思いがけず、美男子の助兵衛にはっと息を呑む。
「お前様、もしかして……」
およしは勘違いした。己を懸想していた陸軍兵の一人が、思い余って夜這いをかけにきたのかと。
「夜這いなどと、とんでもない」
助兵衛は否定しようとした。だが、他人の屋敷に夜さり忍び込むとなると、盗人か夜這いかの何れかしかない。何れも違う、と言っても説明するには十四、五年前の出来事から話さねばなるまい。
さりとて、どうにも色っぱやいが少々おつむの足りなさそうな娘っこに長々と話していると、今度は家の者が皆起き出してくる。
そこで苦肉の策、助兵衛はふと祠を振り返って、
「おぬしにだけは話してやろう。我は最上稲荷の名代である」
と、かました。すると、やはりおつむの温い娘だけに、信じ込んでしまった。
信じ込んで、寝所へ引っ込んでくれるかと期待したのが甘かった。
「三位様とは、そのような高貴のお方を間近で拝見するのは、よしも初めて。どうぞ、お顔をよくお見せに。ささ、こんな所では夜露に濡れますゆえ、中に」
およしに手を引かれて、今更否定も出来ず、助兵衛は家内へと入ったのだった。
「――お恥ずかしい限りですが、もうあとはおよしの手管に取られてしまいやして。うんとやら、すんとやら。腰が抜けるかと思いやした」
と、助兵衛頭を掻く。
「何だあの娘、未通女
(おぼこ)じゃなかったのか。婿候補がいないだのと言っておきながら」
藤田は憤慨した。
「どうで、親に隠れて男に色目を使っておるのだろう。語るに落ちるとはこのこと」
と、定敬。
「しかし、おぬしも怪しからん。およし一人ならまだしも、調子に乗って他の女子にまで手を出すとは」
藤田は、助兵衛をぎっと睨んだ。
それこそ犬に睨まれた野狐のように助兵衛は身を竦めた。
「へえ。仰る通りで。しかし、声を掛けてきたのは専ら女子のほうからなんですよ」
助兵衛がすっかり三位の狐という事になって、日課の如くおよしの所へ向かっていると、夜闇からぬっと白い手が出て来た。
路地の曲がりばな、色っぽい年増が微笑んでいる。
これが畳屋のおさいだった。おさいはにっと唇の端を上げて、
「あたしは知ってるよ。あんたお狐様じゃない、生身の男さ。だって、見ちまったもの。ちょっと前、漢方のお医者さん家の裏の溝板ん中へ油揚げを吐きもどしてただろ。並の人間なら、そうするさ」
確かに大橋邸から出た後、気持ちが悪くなって吐き出したことがあったのは覚えている。
助兵衛は青褪めた。
「あんた、ちょいといい男だからさ、およしみたいな尻っぺたの青い娘なんかより、あたしを抱いておくんな」
おさいは助兵衛の手を取り、大胆に懐の中へ捻じ込むものだから、つきたての餅のような、すっかり男を知った柔肌にほだされ、ついふらふらと。
「まったく以って、優柔不断な奴め」
と、藤田は更に怒る。
「へえ、御尤もでして。羅宇屋の女房は、これは亭主のほうがわっしに手引きをしたんです。うちの女房をよがらせてやって下せえ、わしは最近陰萎気味で、三回に一回しか役に立たんので、あれが不満なのです。と、畳屋を出たところを待ち構えたように」
「くそ、どいつもこいつも」
藤田は己の頭髪を掻き毟る。
「とんだお稲荷様だがな」
定敬が声を立てて笑った。
「急度、作造さんが本当の事を聞いたら卒倒するかもしれませんわ」
琉璃が心配した。
「豆腐屋といえば、助兵衛おぬし、油揚げを吐き戻したくらいなのに、よくも毎日作造の所へ通ったものだな」
定敬の言葉に、助兵衛はえッ、と瞠目した。
「わっしはその、作造の豆腐屋には一度も行ったことはないんですが……」
これには、一同お互いに狐に抓まれたような顔を見合わせたのだった。
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