(六)
朝晩更にぐっと冷え込むようになって、この冷え込みが来たらもうひと月もすれば、広尾の紅葉も見頃になるだろうと、界隈では話題に上っていた。
例の助兵衛稲荷はというと、ふっつりと麻布からは姿を消した。
あれ程錦絵広告などでもてはやしていた人々も移り気なもので、作造豆腐の前には行列もなくなった。
ほうっておいても近頃は目新しい事物が入ってくるので、稲荷の騒ぎなどは、今はとうに雲の彼方。
「以前、太郎稲荷というのが流行ったことがあったがね。柳川藩立花家の本家にあったものを、此方の屋敷内へ勧請したものが、麻疹除けに効能があるといって」
定敬は言った。
享和三年に麻疹の大流行があり、子供や老人が多く罹患した。その時、柳川立花家の若様もこれに罹り、病状重かった為に浅草下屋敷内にある太郎稲荷に参詣したところ、霊験によって平癒した。これが江戸じゅうに広まってご利益に預かろうと、太郎稲荷に大挙押し寄せたというのである。
所謂、流行神の一種だ。
それもまた、数年もすると熱が冷めたように波が遠退いていった。最後の流行は慶応三年秋頃だったが、こちらは世の中の動静が不安定になった為、民衆が縋るものを求めた結果だろう。「ええじゃないか」と同じだ。
「そもそも、助平稲荷ではあんまりご利益がなさそうですがね」
と、藤田は苦笑した。
あれから藤田は、何度か助兵衛の件であちこち歩き回ったらしい。
「まったく、御前様の仰せでなければ誰があんな性根の据わらない男の面倒など見るものですか」
と、ぶうつく言いながら、助兵衛のいたという旗本の消息を調べた。
当時の主は既に故人となっていて、子息がこれも八王子のほうまで引っ込んでおり、昔の屋敷はない。
わざわざ田舎の隠居屋敷まで訪ねて行くと、現当主は丁寧に応対してくれた。
「おきんという女中でしたらば、確かにあの後父に随分と叱責されましてね。助兵衛を何処へ逃がしたかと、蔵へ閉じ込め折檻したものです。ですが、きんも決して居所を言いませんでした。このままでは、おきんを死なせてしまう、と母がとりなして漸う事なきを得たのです。おきんは少々の金を持たされて、暇を出されたようでした」
口の堅い女ゆえ、放逐しても決してお家のことは喋らぬだろうと踏んだのか。
「さあ。行方までは聞いておりません。実家は木更津だと聞きましたが」
子息の言に従って、木更津まで訪ねてみた。
「いましたよ、おきんは」
一度網元の某に嫁いで不縁となり、実家に出戻っていた。屋敷奉公の頃に習ったことを近所の子らに教えて細々と暮らしているという。
「助兵衛はどうやら、錦絵になったのも幸い、噂が広まればおきんが生きているなら己に気付くかもしれない、とも考えたようです。が、おきんは知らなかった。木更津までは東京新聞は行きませんからね。旅の土産に新聞を購う人もいるといっても、必ずしも豆腐屋の広告があるとは限らない」
おきんは警視庁伝えに助兵衛の消息を知り、
「そうでしたか。助さんはご無事にお逃げなすったんですねえ。よかった」
細面の年増の可憐な頬に、ほろりと涙が滴った時、さしもの藤田も助兵衛を許してやろうという気になった。
「さりとて、誰も訴え出る者もないのだから、助兵衛は好きにすればいいのだ」
「ええ、ちっと中ッ腹ではありますが、おきんの事を伝えてやりましたよ。今頃、奴め木更津へ向かっておるでしょう」
「一件落着というわけだ。湯豆腐で一杯飲りたいねえ」
美食家の若隠居が言うと、藤田も「全くその通りで」と、大きく頷いた。
そういうわけで、おたつの代わりに琉璃は買物へ出た。
「遅くにごめんなさいね、作造さん。どうしてもお客様が湯豆腐をご所望で」
豆腐屋は忠助が暖簾を下ろすところだった。
「よッ、お師匠さん。残ってますぜ、絹漉しのつるんとしたやつ。近頃じゃまた、ぱっとしねえ豆腐屋に逆戻りで。持ってって頂けると、有り難いんでさ」
作造が、手拭を使いながら出て来た。
「あの三位様は来られなくなったそうね」
「どうやら、お国に戻っちまわれたようですね。捜し人が見付かったとかで」
おたつが此処へ来て、そう喋ったのだろう。如何にも三位様は人間の助兵衛だった、では味気ない。
「それにしても、助兵衛さんは、一度も来た事が無いと言ったけれど。じゃあ、いったいあれは誰だったのかしら……」
琉璃はふと思った。
「けど、お師匠さんにゃ、もっと徳のあるお稲荷様がお通いだそうじゃないですか」
作造はにやにやしながら豆腐を手早く掬い、笊に上げた。
「豊川稲荷様といやあ、正一位。三位様どこじゃあねえ。それに、またまたいい男振りだってねえ。うらやましいねえ、お狐様は美男子に化け放題で」
琉璃は呆気に取られた。
おたつが余計な事まで喋ったのか、はたまた作造が洒落のつもりか。
豆腐を受け取る琉璃に、作造は竹皮の包みまで押し付けた。
「うちの自慢の油揚げ。豊川様にたんとお召し上がって頂いて下さいよ」
帰って包みを開くと、きっちり二十枚油揚げが入っていた。
琉璃は「これをどうやって御前様に食べて頂こう」と、途方に暮れてしまったのだった。
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