05年クリスマス企画 お題:黒谷の兄上
法華様・作
「危険なアニキ」
戊辰戦争が終わった後、桑名藩の首脳陣はこう考えていた。
「薩長は憎んでも憎み足りないものがあるが、それはさておき我が藩の真の敵は会津じゃないの?」と。
文久三年二月二十五日、黒谷金戒光明時。
「お久しぶりです、兄上。」
桑名藩主松平定敬は、満面の笑みで挨拶した。
「道中恙無く祝着であった。そなたも元気そうでよかった。」
京都守護職である会津藩主松平容保は、貴公子然とした顔に優しげな笑みを浮かべて弟を見た。
「そなたは二条城を警護するのだったな。」
「はい!我が藩は先代から京都警護を仰せつかっておりましたが、私自身が上洛するのは今回が初めてのことですので、兄上がいてくださるのはとても心強いです。」
若干十七歳の定敬は甘えるように兄を見上げた。容保は定敬にとって自慢の兄であった。もちろん、賢侯に名を連ねている上の兄である義恕(よしくみ)も自慢ではあったが、二十以上年が離れていたため親しみを持つには至らなかった。それに引き替え容保は十二歳年上ではあるが、会津に養子に行った後もときどき高須藩邸を訪れ、定敬――この時は?之助と名乗っていたが――のことを構ってくれたものであった。定敬もこの兄とはことさら性が合ったようで、急な桑名藩相続後も親しく行き来していたのであった。
「私もおまえが側にいてくれると心強いよ。」
容保は上座から定敬の所へ下りて来て、その手を握った。定敬が久々に見る兄の面は以前にもましてやつれてしまっているように思えた。
「上様からの強い思し召しと思えばこそ、一藩京洛を墳墓の地とする覚悟で上洛してきたのだが、所司代も奉行所もあてにならぬ。かといって、守護職が奉行所の仕事に関わることは職分を侵すことになるので避けねばならぬ。しかしそれでは、京の治安は守れぬし……」
容保は溜息をついた。着任してから二ヶ月しか経っていないというのに、京都守護職の仕事は前途多難なことは明らかであった。
「でも、一橋殿もいらっしゃるのでしょう?お力になってはいただけないのですか?」
定敬はまだ一橋慶喜と交流がない。今だ世間の評判を聞くのみである。聞くところによれば一橋公はなかなかの人物であるという。実は今回その一橋公と会うことも定敬は楽しみにしていた。
「一橋公ね……」
容保は遠い目で宙を見ていた。
「兄上?」
「あ、いや……。そうだね、おまえもお会いしてみればわかるよ。」
やや屈折した笑みを浮かべる兄のその様子から、どうやら一橋公とは上手くいっていないのかもしれないと定敬は察した。
「ねえ、定敬。」
容保はにっこり笑って定敬の顔を見つめた。
「これからも時々こちらに遊びに来てくれるだろうね?」
「もちろんです!」
大好きな兄に甘えるように言われて、定敬は喜んで請合った。そして二条城から黒谷までは決して近くにも関わらず、定敬は宣言どおりせっせと通ったのであった。
「殿、越中守様にあのように頻繁にお越しいただくのは申し訳ないような気がするのですが。」
容保の側近である神保修理が控え目に申し上げると、容保は優雅に扇を開いて口元を隠しながら独り言のように言った。
「私とて我が身はかわいいのだよ。味方に引きずり込めるなら我が弟だろうと遠慮している場合じゃない。」
「――と言うと?」
「江戸表から聞いた話だが、牧野殿が所司代を辞めたがっているという。」
「えっ?まだ就任されたばかりではありませんですか。」
「そう、羨ましい限りだ。」
容保は大真面目に答えた。この時期の京都に赴任することがどれほど大変なことかは、都から遠く離れた会津の家老たちですらわかっていたのだ。容保だって断れるものなら断りたかった。
「今後、所司代になる方が牧野殿のように着任早々お辞めになるようなことでは、守護職のお役目をまっとうできる自信はない。」
神保は主君の言葉に考え込んだ。たしかに、主君の言う通りである。
「殿、今後は越中守様がいらしたときは、藩士総出でおもてなしいたしましょう!」
神保は真剣な面持ちで言った。
「殿もしっかり、越中守様を篭絡してくださいませ!」
「まかせなさい。」
主従は見つめ合って頷いた。その傍らで、江戸にいたときの可憐な殿はどこへ行ったのだろう…と時の流れの残酷さを感じずにはいられない家老の横山が滂沱の涙を流していた――
「殿、いくら実の兄君とはいえ、そうしばしば黒谷にお出でになるのはいかがなものかと……」
桑名藩邸では在京家老の沢が額に汗を浮かべつつ主君に苦言を呈していた。
「なんで?」
定敬は速攻で訊き返した。
「なんでって……三日に一回、しかもお泊りありですよ?これでは仕事にならないではありませんか。」
定敬は初上洛の時約束したとおり、二条城からせっせと黒谷に通った。三月に一度国許に戻ったが、五月に再上洛して以来、まさしく三日に一回は騎馬で黒谷へ遊びに行っている。まさか主君一人を行かせるわけにはいかないから、当然お供の藩士たちが何人もついていくことになる。それに、遊びにいくとはいえまさか大名家に手ぶらで行かせるわけにもいかないから、お土産代もばかにならない。
「上様はお褒め下さったぞ?兄弟仲良きことはよいことだと。」
沢は思わず頭を抱えそうになった。容保公は将軍家茂のお気に入りでもあった。その弟が兄と仲良くしていると聞いて文句を言うはずがない。
「それに、兄上は私のことをとても頼りにしてくださって……私の顔を見ないと、安心できないのだなんて仰るんだ。」
定敬はそう言ってぽっと顔を赤らめた。この様子では何を言っても無駄であると判断した沢は、がっくりと肩を落として御前を退出した。
「そんなに心配せずともよいのではありませんか?」
定敬の「兄上参り」に毎度お供を命じられている御小姓の立見は、不思議そうに訊ねた。
「その方はわかっておらぬ。このままでは殿は危うい立場に立たされる可能性がある。」
「そうでしょうか?」
別に悪いことをしているわけではない。将軍からも特にお咎めを受けているわけではないし、会津も桑名も生粋の佐幕藩である。両藩が結託していたとしても幕府から睨まれることはないだろう、と立見は思うのだ。
「――今にわかる。」
沢は予言者のように陰鬱な口調で言った。
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