あの鐘を鳴らすのはあ・な・た☆

 作・法華様


 老中・板倉勝静は二条城の与えられた部屋で薬湯を啜りながら束の間の休息を楽しんでいた。このところ胃の調子が悪い。眠りも浅くなってきた。この間久しぶりに江戸の自邸へ戻ったら、彼を見て妻がためらいがちに言ったものだ。
 「だんな様、御髪が・・・・・・」
 そういえば最近、髪を結ってくれる小姓の手つきが以前より慎重になったような気がする。思わず額に手を当ててみれば、月代が広くなってきたような気がしてきた。
 それもこれも、この京都へ来てからだった。頭を悩ますことなら両手両足では足りないくらいあった。しかし、そんなことは江戸にいた頃だってあったから今さらである。今現在、彼の毛根を直撃しているのはまったく別の問題だった。
 板倉がほうっと溜息をついていると、鴬張りの廊下からあたかも鶯の大量虐殺でも行っているかのごとき断末魔の悲鳴が近づいてくる。
 (くそっ、わしの毛根の敵その一が現れやがった!)
 板倉は思わず湯飲みを握り締めた。今日自分が当番の日だったことを恨めしく思わずにはいられなかった。

 「たのも〜う!!」
 小姓が襖を開くよりも先に、スパァンと勢いよく襖が開いた。
 (ここは道場か!いや、そんなことより、仮にもわしは幕府の重鎮である老中だぞ?老中への挨拶の第一声がそれか?それなのか?!)
 式台の間に慌しく入りながら板倉は心の中で突っ込んだ。
 「お勤めご苦労でござる、越中守殿。いつもながら元気がありあまっておられるようで、重畳でござる。」
 入り口に仁王立ちする若い大名に、板倉は慇懃に挨拶する。本来なら向こうの方から板倉に挨拶の口上を述べるのが筋である。その若い大名は徳川の御一門で伊勢桑名十一万石の主・松平越中守定敬であった。定敬は板倉の嫌味など小指の先ほども気にしていないようだった。育ちのよさが伺える鷹揚な態度で頷くと、若さゆえの直球を板倉に投げ返してきた。
 「ご老中もお役目ご苦労でござる。最近御髪が薄くなられたようだがお体の具合はよろしいのか?」
 (誰のせいだ、誰の!!)
 板倉は扇子を骨が折れんばかりに握り締めた。頭の中で十数える。幼い頃に母親に教わったことである。「腹が立ったらまず十数えなさい。それでもまだ腹が収まらないようなら、さらに十数えなさい」と。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お気遣い、ありがとうございます。」
 大人な板倉はかろうじて平静を保った。
 「して、今日はいかがされました?」
 「そうそう、あの人は何考えてるんですかねえ?」
 仁王立ちになったかと思ったら、今度は板倉の前にどかっと座り込んだ定敬は茶飲み話でもするかのような気安い調子で話しかけてきた。
 (おいおい、胡坐かよ?わしがこうして正座してるのに、若造のおまえが胡坐なのか?そんなにおまえは偉いのか?ええっ?!)
 板倉は拳をプルプル震わせながら心の中で突っ込んだ。しかし、彼は大人だったので頭の中で数を数えながらぐっと我慢した。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あの人とは、上様のことですか?」
 「そうなんですよ。今朝いきなり呼び出されたんですけど、何の用かは教えてくれないんですよ。なんですかねー。また無理難題言うんじゃないですかねー。」
 (わしはおまえの友達じゃないんだってわかってんのか?なんでそんなに気安いんだよ、おまえは?)
 板倉は溜息をついた。この若者は板倉の知らない生き物だ。そう、誰かが言っていた「新人類」というやつに違いない。話が全然通じない。
 「何のことかは存じませぬが、直接上様にお訊きしたほうがよろしいのではありませぬか?」
 定敬は譜代で尚且つ御一門の家柄である。奥の黒書院で将軍と謁見する権利があるのだ。こんな所でだべっていないでさっさと上様に会いに行ってくれと心から願った。
 「あんまり気が進まないんですよねー。ご老中も一緒に行きませんか?」
 (わしはおまえの親父か?保護者か?)
 「いや、私はここで仕事がございますので。どうぞ、お一人で、お会いになられるがよろしかろうと。」
 「え〜〜」
 定敬は渋々といった顔で腰を上げた。定敬が再び大量の鶯を大量虐殺をしながら遠ざかっていくのを聴きながら、板倉は思わず脇息に突っ伏した。その視線の先にはらりと一筋の黒髪が落ちた。
 (わしの貴重な毛根が――!!)


 さて、式台の間で泣き崩れる板倉をよそに、黒書院は大騒ぎであった。
 小姓の案内を追い越して自ら襖を開けて桜の間に入った定敬は先客の姿を見て驚きの声を上げた。
 「兄上!」
 しかし、答えたのは上段の間にいる奇人、いや貴人であった。
 「越中、遅いではないか!そちより遠い所にいる肥後の方が先に来ているではないか。」
 数ヶ月前、大阪城で薨去された将軍家茂の跡を継いで将軍の座に登った徳川慶喜は、扇子をぴしりと定敬に向けてそうのたまった。
 「あんた、兄上を何時に呼び出したんだ?つーか、兄上まで呼び出して何をやらそうとしてるんです、あんた?」
 「これ、定敬!」
 定敬の実兄で、京都守護職に就任している会津藩主・松平容保が小さく弟を叱責する。仮にも相手は将軍である。たとえどんなに問題行動が多かろうが、性格に難があろうが一応将軍なのである。一見この場には彼らしかいないように見えるが、将軍のいる上段の間には武者隠しがあり腕利きの奥詰衆が刀を持って控えているのだ。あまり率直に本音を言われる命が危ない。
 「安心せい。肥後にとっても朗報だ。」
 慶喜は得意満面に言った。その時点で眉を顰めたのが容保、鼻で笑ったのが定敬であった。
 「今や、我らはこの京都では一心同体、運命共同体であるからして――」
 好きで「一心同体」になったわけでも「運命共同体」になったわけでもない。容保と定敬は溜息をついた。
 「――つまり、以心伝心でなくてはならんのだ。」
 力強く慶喜が言うと、二人は図らずも同時に同じ事を思った。
 ((あんたとだけは、無理だ!!))
 まさしく「以心伝心」である。
 「――というわけで、こんなものを用意してみた。」
 慶喜が手を叩くと、庭に面する障子がすっと開いた。きれいに掃き清められた玉砂利の上に真新しい鐘がでんと置かれていた。
 「――鐘?」
 容保が目を瞬かせて呟く。
 「鐘なんてどうするんです?」
 定敬が眉を潜めて慶喜に訊ねる。
 「鐘と餅はつくものだ。そんなことも知らんのか?」
 「知っとるわ!むしろそれ以外の使い方を考えるほうが難しいだろうが!」
 定敬が間髪いれずに突っ込んでいる隣で、容保が顎に手をやりながらなにやら考え始めた。
 「床の間に飾るか・・・いや、それでは当たり前すぎるな。いっそ漬物石の代わりに・・・内側で火を焚いて表面で鉄板焼きとかはどうだろう・・・・・・」
 「――肥後、真剣に考えるな。」
 ぶつぶつ言い出した容保を慶喜が遮る。
 「実はこの鐘には銘がある。」
 「わざわざそんなものに銘までつけたんですか。」
 「そうだ。聞いて驚け!その名も『どこでも越中くん壱号』だ!!」
 慶喜は立ち上がり、左手を腰に当て右手でびしりと鐘を指差した。
 「あんた喧嘩売ってんのか?!」
 対する定敬も立ち上がって怒鳴り返す。
 「一号ってことは、まだ他にも・・・・・・?」
 容保が眉を顰めて呟く。廊下まで出て鐘をまじまじと眺めた定敬は声を上げた。
 「ああっ!これうちの家紋じゃないですか!」
 「あたりまえだろう、これは『越中くん』なんだから。」
 「なんなんですか、その『越中くん』ってのは?」
 慶喜は再び腰を下ろすと、白扇を開いてはたはたと胸元を扇ぎながら言った。
 「余は忙しい。」
 「――こんなことする暇はあるようですがね。」
 定敬が突っ込む。
 「しかも今の世の中は一寸先は闇である。何が起こるかわからない。そんな緊急のときにこの『越中くん』が活躍するのだ。」
 「はあっ?!」
 「わからんのか?鈍い奴め。要するに、余がそちを呼ぶのにこれを使うということだ。」
 「所司代屋敷は目と鼻の先だろうが!」
 「馬鹿者!そちを呼ぶためにわざわざ使いを出すのにどれだけの面倒があるかわかっておるのか?目と鼻の先だからこそこの手間が腹立たしいのではないか!」
 「あんたの都合かよ!!」
 定敬は思わず上段の間に駆け寄ろうとした。
 「さ、定敬!」
 容保が慌ててその裾を捉えて止める。武者隠しが一瞬細く開いたのが見えたからだ。定敬が勢い余って顔面から倒れこむ。
 「肥後、ぐっじょぶ!」
 慶喜が右手の親指を立てて見せる。
 「あにうえぇ〜」
 情けない顔で振り返った定敬に容保は目線で武者隠しを指し示す。さすがに定敬も神妙な顔になった。
 「さすが将軍家に忠実な会津藩主だ。よって、肥後に褒美を取らす。」
 「ええっ?」
 「見よ、『どこでも越中くん弐号』だ!」
 「「ええっ!!??」」
 すると壱号の隣に同じ大きさの鐘が運ばれてきた。
 「こ、これを私にどうせよと?」
 容保がうろたえて訊ねると、慶喜は何を言ってるんだという顔をした。
 「肥後までそんなことを訊くのか?鐘は撞くものだぞ。まあ、どうしてもというなら漬物石の代わりでも床の間に飾るのでも好きに使ってかまわんが?」
 「いえ、そうじゃなくて。うちも所司代とはわりと近いのですが・・・・・・。」
 「遠慮をするな。そちより近いところにいる余がこれを使う気でいるんだから、そちが使ったところで越中は気にもせんだろう。な、越中?」
 話を振られた定敬は返事に詰まった。慶喜に対しては間髪入れずに断れたのだが、相手が大好きな兄上となるとちょっと断りにくい。
 「――気にするよね?」
 容保が定敬の顔を覗き込むようにして訊ねた。
 「いいえ、とんでもない!大歓迎です、どんとこい!って感じですよ!!」
 思わず定敬は胸を叩いて言った。
 「な?大丈夫だったろう。ということで、ちゃんとこの鐘を撞いたら駆けつけるんだぞ、越中。」
 明らかにこういう結末を読んでいたと見える慶喜の得意満面な笑みに、定敬は思わず拳を握り締めた。
 (くそ〜、やられた!兄上は招餌(おきえ)か・・・・・・)
 道理で準備万端に鐘が用意されていたはずである。

 カン カン カン
 時ならぬ鐘が二条城から打ち鳴らされた。
 「くそっ、あのヤローこんな時間から呼び出しやがって・・・・・・!」
 所司代屋敷で朝食を摂っていた定敬は、思わず箸を膳に叩きつけた。
 「殿、お行儀が悪いですぞ!」
 傍らで本日の予定を読み上げていた家老の沢が定敬をたしなめる。
 「ちくしょう、国から服部を呼んで来い!」
 定敬は立ち上がると小姓に怒鳴った。
 「服部殿を呼びだしてどうなさるのです?」
 「二条城に刺客を送り込む!」
 「と、殿、落ち着かれよ!服部殿だってそんなこと言われても困りますって!」
 「あの宇宙人、あれから毎日のべつ幕なしにカンカンカンカン鐘を鳴らしやがって!しかも、呼び出す内容が救いようのないくだらなさなんだぞ?」
 そう、慶喜が『どこでも越中くん』をお披露目してから今日まですでに五日。毎日のように鐘がなる。大急ぎで駆けつければ慶喜が鼻をほじりながらこういうのだ。
 「越中、虎屋の羊羹を買って来い。」
 「越中、肩を揉め。」
 「越中、余の代わりにその書類に署名せよ。」
 これのどこが緊急の用事なのだろうか。それでも定敬は登城せねばならない。食事をしていようが、風呂に入っていようが、雪隠で力んでいる最中であろうが――である。定敬が二条城の奇人、いや貴人に殺意を覚えても無理はない。
 「証拠さえ残さなければいいんだろ?ヤローを亡き者にしたいと思っている輩はうじゃうじゃいるんだ。まさか俺が殺ったとは誰も思わないって!」
 定敬はもはや理性を失っているとしか思えなかった。いっそ晴れやかに殺人計画を練っている。刺客を送り込むどころか今にも自ら飛び込んで行きそうな勢いである。
 「殿、殿、どうかお気を確かに〜〜!立見、町田、誰かおらぬか?!殿がご乱心だ〜〜!!」
 沢が必死で定敬を後ろから抱きとめた。

 カン カン カン
 時ならぬ鐘が二条城から打ち鳴らされた。
 「ああ、またか・・・・・・」
 老中・板倉勝静はがっくりと肩を落とした。この五日で確実に毛根のいくばくかが息絶えている。
 まもなく越中守が大量の鶯を虐殺しながら押しかけてくるに違いない。いや、越中守は被害者なのだ。多分に同情してやらねばならないのだ。彼の毛根を大量虐殺しているのはむしろこの城の主なのだ。板倉は自らに言い聞かせた。しかし――
 「ちくしょう、あのチビ、将軍じゃなかったら膾に刻んで大阪湾に沈めてやるのに・・・・・・・・・・・!」
 もはや板倉のいる式台の間に挨拶すらしていかない越中守の物騒な独り言を聞くたびに、彼の胃は激しく痛んだ。時々、所司代から二条城に兵が攻め込んでくるのではないかと真剣に心配になることもある。
 「あのクサレ外道が死んだら、次は誰が将軍だったっけ?」
 今日も今日とて越中守は洒落にならない独り言を大声で呟きながら式台の間の前を廊下をぶち抜きかねない勢いで通り過ぎていく。
 「――一度、上様にご注進したほうがよろしいのではありませんか?」
 ちょうど挨拶に来ていた藤堂藩主がおそるおそる板倉に言った。
 「言ったところ気にする上様ではない。」
 きっぱりと板倉は断言した。越中守には誠に気の毒だが、まず間違いなく彼はからかわれている。おそらく上様は日ごろの鬱憤を手近なところで解消しようとしているに違いない。しかし、そんなことは間違っても本人の前ではいえない。松の廊下の二の舞になる。しかもその被害者は将軍ということになる。
 「しかし、あれではあまりに越中守殿がお気の毒というか・・・・・・」
 「気の毒なのはわしも同様だ・・・・・・」
 板倉は確実に広くなった額に手を当てた。

 カン カン カン
 時ならぬ鐘が二条城から打ち鳴らされた。
 「ああ、また上様が定敬を呼んでいる・・・・・・」
 いろいろと心労の多い京都守護職・松平容保は、今日も今日とて病床でその鐘の音を聴いていた。この五日間、毎日幾度となく聞かされた鐘の音である。
 「気の毒なことだ。」
 血を分けた弟の苦労を思うと、容保は泣けてしょうがなかった。聞くところによれば鐘が鳴るたびに定敬は取る物も取りあえず(必要なものは家臣たちが後から持って追いかけていたらしい)、二条城に文字通り駆けつけているらしい。所司代屋敷はいつでも門は大きく開けられ(そう、この物騒な世の中だというのに夜中も門が開いているらしい)、門前は掃き清められ小石一つ落ち葉一枚落ちてない。さらに、所司代屋敷内では時代の最先端をいくバリアフリーが実現して段差という段差を撤廃された。それもこれも、定敬が安全にしかも最速で二条城に駆けつけるためだけの措置である。
 「どうにかして定敬を助けてやれないものだろうか・・・・・・」
 容保が嘆息すると、傍らに控えていた梶原が「え?」と声を上げた。
 「どうした、平馬?」
 「いえ、越中守様を助けるということはつまり、あの鐘を鳴らさないようにすればいいわけですよね?」
 「そうなるな。」
 「いえ、それなら簡単なことだと思いまして。」
 「本当か?」
 「はい。殿がちょっとお出ましになられれば解決することかと存じます。」
 「余が?」
 「はい。」


 カン カン カン
 時ならぬ鐘が二条城から打ち鳴らされた。
 所司代屋敷は白鉢巻に襷がけの家臣たちが、主君の通り道に当たる場所を先駆けて走り障害物を排除する。その後をこちらもまた「もしもし、果し合いでもするんですか?」という白鉢巻に白襷、袴の股立ちを取った定敬が全速力で駆け抜けていく。
 「殿〜、おがんばりになって〜〜!!」
 侍女たちの黄色い声援に手を振る余裕が出てきた七日目の午後であった。この日定敬はすでに一回出動を済ませている。定敬が屋敷の門を飛び出す直前、門前に控えていた二人の小姓が、一方は刀を持ち、もう一方は草履と足袋と肩衣を持って先を走る。二条城側も心得たもので、すぐに登城できるよう番屋の同心たちも他の大名の駕籠や馬などをすばやく脇に寄せるよう指示を飛ばす。
 「越中殿〜、がんばれ〜〜!」
 大名たちや役人たちが定敬に声援を送る。車寄せの前で小姓が汚れた足袋と(定敬はこの時点で裸足である)新しい白足袋を履き替え、その間鉢巻と襷を取り肩衣を着け股立ちを下ろす。その脇からもう一人の小姓が脇差を腰に差す。猿之助もびっくりの早替わりである。柳の間の目付たちがその鮮やかな変身に拍手を送る。定敬はここから大量の鶯を虐殺しながら一気に黒書院まで駆け抜けるのだ。
 「――今度は何の用だ!!」
 桜の間の襖をスパァンと開け放った定敬は、もはや相手が将軍であることを失念しているように思われた。礼儀もへったくれもない。しかし、この場で彼の非礼やら無礼やらを責め立てる者はなかった。なぜなら、九割がた定敬のほうが正しいと誰もが思っていたからだ。
 「ふむ。鐘を鳴らしてから五分と四十五秒。記録を更新したのお、越中。」
 慶喜はフランス公使からもらったという懐中時計を見ながら言った。
 「誰のせいだ、誰の!!」
 定敬は肩で大きく息をつきながら怒鳴り返した。
 「越中、そなたに悲しい知らせがある。」
 「ああっ?!」
 すっかりやさぐれてしまった定敬は、将軍の前に仁王立ちになったままぞんざいに訊き返した。
 「『越中くん』は御役御免になった。」
 「なんですって?」
 慶喜は実に残念そうに事の次第を説明した。
 「じつは、先ごろからご不快の主上が、頻繁に鐘が打ち鳴らされるのをひどく御案じ召されておられるというのだ。余としては主上の御心を安らけくせんがために、断腸の思いで『越中くん』を封印することにしたのだ。」
 要するに、しょっちゅうカンカンと鐘を鳴らされては、火事でも起こったのか政変でも起こったのかと天皇が不安がるので止めてくれと宮中から苦情が来たわけだ。
 「あんたが意味もなく鳴らしすぎるからそうなるんじゃないか!私まで主上に嫌な印象もたれてしまったらどうするんですか!」
 「あ〜、主上には『越中が呼んでもなかなか来ないので』と説明しておいたから、話を合わせておけよ。」
 さらりと慶喜はひどいことを言う。
 「俺のせいかよ?!」
 「用はそれだけじゃ。これからはもっと大名らしく行儀よく登城しろよ?江戸でそんなことしたら切腹の上御家断絶ものだぞ。余が寛大な主君でよかったな、越中。」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 開いた口が塞がらないとはこのことを言うのだろうか、と定敬は思った。慶喜の台詞に怒りを通り越して唖然とした。
 (なんで俺がこいつに注意されなくちゃならんのだ?しかも、何気に感謝を強要されてるぞ、俺)
 「じゃ、帰ってよし。」
 扇で出口を指し示されて、定敬は思わず素直に黒書院を後にしてしまった。納得のいかないまま玄関に向かっていた定敬は、ちょうど式台の間で正気に戻った。
 「なんで俺が、あのちんちくりんに注意されなきゃならんのだあっ?!!」
 定敬は怒りのあまり、くるりと回れ右をして再び黒書院へ戻ろうとした。不幸にもそれを目撃した老中板倉は、慌てて部屋から飛び出すと自ら定敬の腰にタックルをかました。しかし、怒れる定敬は板倉を引きずったままさらに進もうとする。そこへ板倉の小姓たちが加わり、茶坊主たちが前から押しとどめるようにしてようやく定敬を押さえ込んだのだった。
 かくして二条城の『どこでも越中くん壱号』はしばらく鳴りを潜めることになる。これが再び活躍するのは一年ばかり後のことになる。

 「どうやらうまくいったようですね。」
 梶原が言うと、容保は頷いた。
 「御病床にある主上をこのような些事で煩わせるのは不本意であったが、今や上様を抑えることができるのは主上しかおらぬ。まったく畏れ多いことだよ。」
 そう、慶喜に「鐘を鳴らすな」と言うだけのために、容保は参内し孝明天皇に拝謁し詔勅をいただいてきたのだ。こんなことは天皇のお気に入りである容保にしかできない離れ業である。
 「これで越中守様もしばらくはお心安らかに過ごせましょう。」
 「本当に。」
 梶原が退出した後、一人になった容保はふと床の間を振り返った。そこには、もらったもののまさか本気で使うわけにもいかなかった『越中くん弐号』が飾られている。
 「・・・・・・・・・・・・・・」
 実のところ、容保も一度くらい鳴らしてみたいと思わないではなかった。今までは弟の苦労を思えばこそ、我慢してきたのだがいざもうこの鐘が使えなくなるのかと思うと、どうしても叩いてみたくなったのだ。辺りを見回し誰もいないことを確認した容保は、そろそろと鐘に近づくとごくりと喉を鳴らした。おそるおそる脇に置いてある木槌を取った容保は、どきどきしながら右手を振り上げた。


 カーン
 守護職屋敷に妙に気弱な鐘の音が響いた。
 そして約五分後。どすどすという足音が容保の部屋に近づいてきた。

 「あ〜に〜う〜え〜〜!お呼びですかぁ〜〜!!」


fin

所司代TOPへ
本館TOPへ