(一) 恐怖!呪われた桑名藩
<前編>
文久二年十月二十日。
御年十七歳の若き藩主・松平定敬は、桑名城御殿の書院で読書にふけっていた。
既に亥の刻(午後十時)は過ぎている。藩主の朝は早いというのに、まだ定敬は熱心に黙読を続けていた。しかも明日は、京都警固の任に就くために早朝からの出発である。
書見台に開かれた書物の表紙は『論語集解』であった。が……。
(おお!「思ひ思ひの床入りや、殊に一生長局に、男見る目の珍し、入れぬ先からじくじくと、はづみ切ったるチョメチョメへ」どういうこったよこれ。声に出して読んでみてえ)
声には出さねど、些か興奮気味である。端正なハズの鼻の穴が広がっている。
(「長屋住まいの飢チムチムに、ぽつぽつと火焔の燃え出るを、御用と声かけをしあれば、生まれて覚えぬ御馳走と、夢中になって持ち上げ持ち上げ、天下晴れての転合ひ、茶臼横取入乱れ、互ひに秘曲を尽くし合ふ、陽に入れば陰に開き、上がれば突き突けば上がり……」)
どう見ても『論語集解』などではない。(チョメチョメとかチムチムは、それらしい単語に置き換えてみて下さい)
「うっ」
定敬は股間を押さえた。……いや、頭を押さえた。
「茶臼ってなんだ?」
小声で問わず語り。
(誰か教えてくれ「茶臼」ってのは、あの茶葉を引くアレか?いや、んなわけねえ。誰か教えてくれ!)
声なき声が定敬の脳内を駆け巡る。だが、真面目くさって小半刻、朱子学の書物を読んでると見せ掛けて、実は教科書の間にエロ本を挟む中学生のように、間に挟んだ艶本を読みふけっていたとなると、家臣に面目が立たないのである。
(ダメだおれ。そもそもおれが
童貞で養子にきちまったってのがダメなのよ!)
だから、何時まで経っても艶本で無理からがっつん逸る欲望など抑えねばならんのだ。
ヨメになる予定の初姫はまだ六歳である。六歳の子供に何がわかろう。まして定敬は
童貞なのだから。そして、定敬の性格からして自ら光源氏のような養育を初姫にするなんてことは、有り得ない。
「あー、やってらんね」
定敬は本を閉じると、書院を出た。
「寝る」
と、廊下に控えていた小姓の立見鑑三郎に吐き捨てるように言い、寝所へ向かった。その定敬は、先程まで読んでいた艶本を鑑三郎の前に落としたことに気付かなかった。拾い上げた鑑三郎は、凛々しい濃い眉毛をひくつかせ、
「『長枕褥合戦』ふむう。さすがに殿は文学的なカホリのするのを読んでらっしゃる。おれらなんて『春情花の朧夜』くらいだからな」
と、はなはだ感心したのであった。まあたとえていうなら、『長枕褥合戦』が永井荷風『四畳半襖の下張』で、『春情花の朧夜』が『団地妻蜜のしたたり』くらいのものだろうか。
定敬は悶々としながら眠った。明日から初めての京へ向かうというのに、どうにも「茶臼」が気になってあれこれ考えながら眠った。
そんないたいけな定敬。溜間では上様に何でも「しっつもーん」と言って真っ先に挙手して、可愛がられる機敏な定敬。この十七歳花の
童貞藩主を真夜中に揺り起こす者がいる。
「これ、定敬」
「ううー。あんだよ」と、寝返りを打つ。
「これ、起きなさい」
「へ?そ、その声は兄上っ?」
定敬は枕元でねっとり囁く甘い声にがば、と跳ね起きた。
しかし、兄・松平容保の姿は無かった。当然である。兄は会津にいる筈だった。夢うつつの定敬の目前にいたのは、確かに容保と似た年恰好の若侍であったが。
「猷
(みち)じゃ」
と、若侍は名乗った。
「エッ。先代の定猷公?あんた死んだんじゃなかったの?」
定敬は顔面蒼白になった。定猷公は桑名藩先代の主にして、初姫の父である。定敬は定猷公の逝去によって桑名の養子に入り、家督を継いだのであるから生きているハズが無い。
「死んでおるが」
あっさりした答えが返ってきた。
「死んでいるのにここにおられるということは――」
定敬は定猷の足許を見た。しかし、幽霊であるハズが足がある。
「おっ、おれは夢を見ているだけだ」
「信じないのなら構わん。折角「茶臼」の意味を教えてやろうと思ったのに」
定猷はふっと背を向け、寝所から出て行こうとした。
「ちょっとまったあー!」
定敬は布団から這い出した。
「お願いです。お教えくださいお義父さん!」
「君にお義父さん呼ばわりされる覚えは無い」
「いや、無いっつっても事実そうなんですから。まだナニもしてませんけどね」
「そうだろう。
童貞の君にナニが出来る」
……チッ。定敬は聞こえよがしに舌打ちした。血の気の多い定敬だが「ぶった斬ってやろうか」と思ったものの、相手は幽霊なのでこれ以上死なない。
「では、御隠居様」
「その呼び方気に食わん」
「では何とお呼びすれば?」
「みっちー」
定敬はにんまり笑う定猷の半透明な姿を見て、「やっぱこいつ殺す」と思った。
「で。みみみ、みっちー様」
「何かみみっちい性格のように聞こえないでもないが、まあいい。余がこうして幽霊となってそちの前に現れたのは深い深い事情があってな」
定猷はしかじかの経緯を説明しはじめた。
「そちは明日から京入りであろう?」
「はぁ」
「桑名藩として京の警固を仰せつかったのは、余が初めてでな。後を継いだそちにやって貰わねばならんのだが、それにあたって注意をしておこうと思ってな」
定猷は幼少の砌から霊感の働く子で、オトナになると一層それは強まったという。何でも、桜田門外で兇刃に倒れた井伊掃部頭は、定猷が見るには憑依霊をうんと背中に乗せていて、大獄でまた人を死に追い遣ったもんだからさらに増えて、その重みで刺客に襲われた時駕籠から出られなかったのに違いない、という。
「初めて京に上った時、正直言って震え上がったものだ」
大路を幽霊が歩いているのが見えた。それも生きている人より圧倒的に多く。
「さすが千年の京だと思ったのう。幽霊は応仁の戦の頃の格好をしておるものや、おすべらかし髪の女子もおってのう」
「おってのう、ってみっちー様は幽霊が自然に見えたんですか?」
「様は要らん。みっちーでいい。いつしか見えはじめての。幽霊だけではないぞ、京にはあやかしの類もぎょうさんいてな」
だからそれがどうかしたのか、と定敬は苛付いた。
「とにかく、京の警固を仰せつかるのはラクじゃあない。というわけで、見えざる敵の姿を明らかにしておくのがよかろうと思い、老婆心ながらやって来た。安心しろ、これで君の霊感も覚醒したよ」
定猷はそう言って、定敬の肩をぽんと叩いた。正確には幽霊の手なので音は出なかったが。
「へっ?」
「ここに『怪奇分監』なる書物を参考に置いてってあげよう。じゃね。あっきー」
「ちょ、ちょっとまったあー。「茶臼」の意味はどうなんよ?」
定猷はそそくさと去って行った。定敬は慌てて立ち上がるも、既に定猷の姿は煙とともに掻き消えてしまっていた。
「ど畜生。すかぽんたん。何が霊感だ、覚醒だぁ?あっきーってのは何だ?これは夢だ夢に違いない。あほくさ」
定敬は若殿にあるまじき悪口を垂れながら、そうしてまた眠りに就いたのだった。
翌朝。
目覚めた定敬は、立見を呼んだ。
「只今参りました」
と、蹲踞する立見を見て、定敬は吃驚した。
(まっ、眉毛がさらに太くなって!動いてるし!エッ?どうゆうこと?)
定敬は息が掛かるほど鑑三郎の顔に近付いた。鑑三郎のげじ眉は、左右ともに動いていた。と思いきや、それは毛虫が乗っかっていたのである。
「うげっ」
鑑三郎は瞠目した。立った今迄芳しい梔子のような香のするお顔を畏れ多くもお近付けになった殿が、海老反りになって鑑三郎から飛び退いたのであるから。
「殿、如何なされましたか?それがしの顔に何か?」
「鑑三郎、そちの眉毛に毛虫がっ」
すると、鑑三郎は顔を朱に染めて、自分の両眉を押さえた。。「こっこれは異なことを殿。それがしの眉は自前でございます!」
定敬は疑惑の目を向けた。
(だって眉毛が動いてるじゃないか)
おそるおそる手を伸ばし、定敬は鑑三郎の眉毛をむんずと抓んだ。
「いででっ。とっ、殿ーっ、御勘弁くださいましっ」
「え?」
定敬は毛虫を掴んだつもりが、それは幻のようにすり抜けてしまった。
(まさか!まさか毛虫の幽霊?)
定敬は枕元に駆け寄り、『怪奇分監』をさぐった。果たして定猷の残していった書物は、其処にあった。そして、該当の項目を探し当てると、
「妖怪ゲジマユ」:昔悪戯っ子に焼き殺された毛虫の幽霊がその子の子孫に憑依する。憑かれているかどうかは、子供の眉の太さでわかる。大人の人差し指一本分くらいのゲジマユならまず間違いない。芸能人でいうと石原良純、よゐこの濱口。
鑑三郎の眉毛の上に奇しくも乗っかって蠢いているのは、毛虫の妖鬼であった。
(やだよ。おれ、マヂで霊が見えてる。ちくしょう余計なことしてくれやがって先代!)
ややあって、鑑三郎の悲鳴を聞きつけてやってきた藩士達が顔を覗かせた。
「如何なされました、殿っ!」
「うっ」
定敬は一斉に押し寄せた面々を見て、唖然となった。例えば家老の山脇十左衛門の肩には毛むくじゃらの手首が。同じく家老の吉村権左衛門の頭には水子霊が乗っかっている。大目付・松浦秀八の背中には老婆の霊が縋っている。
(こいつらとんでもねー!)
「いっいや、何でもない。鑑三郎の眉毛があまりにフサフサしておったので、筆に出来ぬかなーと」
定敬は、『怪奇分監』を後手に隠しながら言った。
「ひ、ひどうございます殿っ。本日から京へ参られる殿とは暫しのお別れですのに、それがしの気にしている眉のことをそんな風に弄びたいなどと思っておられたのですかあー」
鑑三郎は号泣した。すると、一同は怪しい視線を主に送ったのだった。
(やはり殿が
童貞であらせられるのは、鑑三郎に気がおありだから?)
(いや殿は鑑三郎なんかゲジマユより、服部半蔵の方がお好みのようだ)
(そんな!中年の魅力で我々が何とかしたいものだ)
何とかして欲しくない。
「とりあえず何でもないっ。退け!退けといったら退け。もう、年寄りは朝が早くて困るんだから」
定敬が追い払うので、しゅんとなって家老と大目付は戻って行った。
(さて。どうすりゃいい。見えることを言ったところでしゃあない)
またしても悶々としながら、定敬は着替えに入った。嬉々として手伝う鑑三郎の眉がまだうぞうぞ動いているのは、やや見慣れてきたような気がする。否、気がするだけなのかもしれなかった。
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