(一) 恐怖!呪われた桑名藩
<後編>
三日後の洛外。大名行列が続いている。蹴上の坂道を下り行くと、田畑に続いて大きな街並みが広がっている。だが、その唐の都を模した碁盤の目状の美しい街に明らかに雲とは違う異様な空気が渦巻いているのを、定敬は馬上から見た。さすがに千年の都。ただ事ではない妖気である。
亀山城も鈴鹿の山越えもとんでもなかったが、まだ其方がマシかもしれない。
(せっかくの京がこれかよ!初めてなのにぃ〜)
と、定敬は余計な霊能力をつけてくれた定猷をさらに恨んだ。
ふと振り返ると、服部半蔵と目が合った。
「もしや半蔵、おぬし……」
「は」
白皙怜悧な半蔵の顔が傾いた。さっと駆け寄り、定敬を見上げる。
「殿もお見えにございますか?」
「うむ」
「先程から黒谷へ続く道におる巨乳娘」
「はぁ?」
がっくし。だが言われてみれば、年頃の娘が立っていた。しかし何故着物の上から巨乳だとわかるのか。
「心眼にてござります」
「そうか。では異様な気配もわかるのか?」
定敬はせっつく様に訊いた。少しでも霊感がある方が頼もしい。何しろロートル連中ときたら、童心がないのか物の怪や幽霊の存在に無頓着で、お蔭でこの三日間も定敬はげっそりしたのだ。
「見えませぬが、触れられます」
成る程、と定敬は唸った。初代服部半蔵からの一子相伝の術か何かなのか。
「そして、この半蔵。娘の顔を見ただけで巨乳か否かもわかるのです!」
「すっげえー!」
そうして、定敬と半蔵主従は都に入るなり京娘の乳比べをあてっこしながら道々楽しく過したのだったが……。
桑名藩屋敷は洛外もいいとこ、鷹ヶ峰と大徳寺西方にあった。
「寺と田畑だけしかない。しかも、南には舟岡山とはな」
舟岡山といえば、平安時代の中期以降は、此処から蓮台野一帯にかけては葬送の地であったという。保元の乱で破れた源為義らが処刑されたのも舟岡山の麓であった。定敬は明らかに物の怪に取り巻かれた小高い岡を見遣って、愕然とした。
(確かに此処は京の北からの入口で要衝なんだが、よりにもよって何でまたこんな最も霊の多そうなところへ?)
しかし、やはり誰の目にも忌々しい異形のものは見えていないらしかった。
さて。私邸に入ってみると、早速出た。中庭や廊下に浮遊霊が行き交っているわ、厩には首なし馬の霊がいるわ。上菓子を納めにやってきた奉公人が饅頭をなくしたとかで、泡を食っていた。が、それも屋敷にうろついている成仏できない地縛霊が出来心から盗んだのを見てしまった定敬であった。
すったもんだが終わって、定敬は漸く私室に入る事ができたが、それも束の間であった。
『怪奇分監』を懐から出し、そして『長枕褥合戦』の続きを読もうとしてさらに探ったところ……。
「ないっ!」
定敬は焦った。
(どこで落としたんだろ。まさかここまで来る道中ってことはないだろうなァ?)
もしそうなら、大変だ。定敬の脳裡に恐ろしい未来予想図がスパークした。
(仮にも桑名の殿様が落っことした本が艶本だったなんてサイアクじゃねーか!あらぬ噂を立てられるに決まってる!「やーね、松平越中守って京にナニしにきたのかしら」「越中守だけにH(えっち)ゅう〜」「スケベ大名が通った後は草も生えねえな」とかナントカ言われるに決まってる!おれまだイタイケな
童貞なのに!)
「
童貞なのに!」
覚えず声にした途端、ふっ、と行灯の灯りが消えた。
「えっ」
振り返った定敬の背後に、女の影があった。長い黒髪を結わずに垂らしたままの、赤い襦袢姿であった。
「おわああああ!」
定敬は飛び退った。
「きさま、もうおれがスケベ大名だと聞きつけてきたのかぁ!」
すると、女は黒髪に半分被われた顔を傾けた。
[あたし……きれい?]
「へっ?」
定敬は座り込んだ。
「き、きれいも何も、そんなんじゃわかりっこない。顔を上げてくれ」
[偉そうな口の聞き方ね。
童貞のくせに。あなた何様?]
ちくしょう余計な事聞いてやがったな、と定敬は思ったが堪えた。
「殿様」
[あっ……そう]
「とにかく、きれいかどうかは誰が決めるもんでもない。でもって、人にものを訊ねるなら、そっちから名乗れよ」
すると、女はしぶしぶ頷いた。黒髪を手で振り払う。と、青白いが美しく整った目鼻立ちの妙齢の女の顔が現れた。触れなば落ちん藤の花の風情である。
[あたしは菊世。男に捨てられてあの世に行けないのぉ〜〜〜〜」
女の口から血がぼたぼたと滴り落ちた。
「うわ。よっ、汚さないでくれよっ。おれまだこの屋敷に来たばっかりなんだから」
[ごめんなさい……殿様]
「殿様はかたっ苦しいから定敬でいいけどさ。ところで菊世どのは、その、おれが落っことしたこういう形の本のこと知らない?」
すると、菊世は首を横に振った。知らないのなら仕方が無い。
定敬は、片手にしていたさり気無く『怪奇分監』を引いてみた。
「女幽霊・菊世」:天正十六年六月六日没。享年十九歳。京都聚楽第に勤めていた女官。太閤秀吉のお手がついたが、秀吉の大事にしていた○○をなくしたことで叱責を受け、責任を取って自害。というのは表向きで実は淀君の計略で、○○を無くしたことにされ、一服盛られて死亡。哀れに思った前田利家の妻・まつによって大徳寺に葬られたが、恨み骨髄につのって成仏できない。毒の所為で顔が爛れ苦しんだので、会う人に必ず「あたしきれい?」と訊くのが口癖。超美人でナイスバディ。
(やっぱ処女じゃねーのか)
「なかなか壮絶な人生だったんだねぇ、菊世どのは」
定敬は言った。
[ええまあ……でも、もう二百七十三年も前のことなので、何をなくして死んだのかわからないのです。思い出せたら成仏出来そうなのですけど]
菊世は定敬の前に座り込んだ。
[定敬様。思い出すのを手伝っていただけませんでしょうか?]
「んなこと言われても。おれ生まれてもないんだけどね」
[ね。……お願い]
菊世は赤い襦袢の裾を開いた。
「うっ。それはM字開脚!?」
そこには、その先には見てはならない、触れてはならない、
童貞の知らない世界が……。
ガラッ。
「失礼仕ります殿ッ!何事でありましょうか?先程殿のご悲鳴が聞こえたような」
矢庭にお約束のように襖を開けて入ってきたのは、山脇十左衛門であった。山脇が足許を見ると、畳の上に突っ伏した定敬の姿があるのみだった。
「殿ッ」
顔を上げた定敬の鼻の穴からだらだらと血が流れていた。
「……いや、何でもないぞ十左。何でも」
定敬は這うようにして立ち上がった。息が荒い。既に菊世の姿は陰も形もなかった。
「お顔の色が悪うございます」
「旅疲れだ。ホラ、修学旅行の翌日も鼻血出したじゃん、おれ」
「そうでございますな」
山脇は納得して、ふと封書を定敬に差し出した。
「何だこれは?」
「は。先代様からのご遺言でございます。もし、定敬様が上京なさったらその時お渡しするようにとお預しておりました」
そう言う山脇の肩には相変わらず不審な手が乗っかっていた。その手が定敬に向かって、ピースサインを送ってくる。
(くそ。どいつもこいつもおれをバカにしやがって)
と思いつつ、定敬は封書を開いてみた。すると、定猷の筆跡で、
「開かずの間にて今夜丑の刻に待つ」
とあった。今夜っていつのことを想定して書いたんだろう、と定敬は訝ったが、最早そんなことくらいでは驚くに値しないのであった。
果たして丑三つ刻。定敬は開かずの間と呼ばれる屋敷の艮の方角にある一室に向かった。
屋敷が普請されてから数十年と、使われておらず、また開けられることのなかった部屋である。
「どうやって開けるのさ」
と、引き戸を引いたらあにはからんや。案外あっさりと開いた。
「あれれれ」
定敬はつんのめるようにして開かずの間へ入った。
「よう来た」
「その声は先代様」
定敬が顔を上げると、紛れも無い妖気を纏った白装束の定猷の姿が其処にあった。
「みっちーだよ」
「その呼び方はあまりにお軽いんで、どうかと思います」
定敬は忌憚ない意見を述べた。定猷はむっとした。
「黙れ
童貞。女幽霊ごときに惑わされているようではまだまだ青い」
「
童貞だから惑わされるんですよ」
定敬は開き直った。
「ところでこの部屋は何なんですか?」
見回すと、兵器庫のようでもあり只の書庫のようでもあり、ガラクタが多数置いてある一見変哲も無い八畳間である。
「ここは我が屋敷の要での。結界の一つなのだ」
屋敷を新築する際、霊感の強い定猷が封印し、京の霊界の北の護りとしたという。この結界なくしては、御所はたちどころに物の怪に占拠されてしまう、と定猷は説明した。
「でも、我が藩だけがこういう特殊なものを持つ必要が何処にあるんです?他の親藩だって御家門だって京には常駐してるのに」
「大有りだ」
定猷はぎろりと目を剥いた。
「いいか、あっきー。今や幕府には未曾有の大危機が迫っておるのだ。黒船しかり、ロシア船しかり、大老暗殺しかり、天誅組の暗躍しかり。総ては京ひいては日本に集く邪悪なものの仕業ぞ」
それはどうかなー、と定敬は小声で言った。
「具体的にはそれって何なのよ」
すると、定猷は腕組をして暫し考えた。
「……わからん」
「いい加減な」
「余にもわからぬほど兇悪なのだ。ていうか、わかれば世話ないよ。だからあんたに頼んでんだろ」
と、定猷は逆ギレした。
「そんなァ。見たくも無いものを見てしまうようにされて、迷惑なんだよこっちは」
「ええい。そんなも何も、これからずんずん禍はやってくる。それに須らく宜しく対応出来るのがそちなのだ」
とんだ見込まれ方である。
「兎に角、今後怪異があったらばこの部屋を訪れるように。じゃね」
定猷はそう捨て台詞を残すと、煙のごとく消え去ってしまった。
「てめっ。また「茶臼」の意味を言ってくんなかったじゃねーかよ、おいっ!」
定敬は地団駄踏んだ。
だが、部屋はひんやりとした只の物置に戻っていた。
「ああ〜どうなるのよ、おれ」
松平定敬十七歳。いたいけな
童貞藩主の苦悩の日々が始まったのであった。
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