(二) 恐怖!兄上の知らない世界

 <前編>

 京の冬は底冷えがする。凍れるような朝の寒さに目覚めた定敬は、半身を起こすなり溜息を吐いた。
「ああ。昨夜もまた……」
[えっちな夢を見たのね]
 すかさず、女幽霊・菊世が枕元に立った。
「んなわけねえよ。昨夜も家鳴りが激しくてな。ていうか、あんた朝でも出られるのかよ」
[半分だけですけど]
 そう言われて見ると、菊世の腰から下はぼんやりとしていて何も見えなかった。定敬はちょっぴりがっかりだ。
[それで、私が何をなくしたかおわかりになりました?]
「わかるか」
 定敬は投げ遣りな返答をした。私邸に着くなり、その難問を菊世に投げ掛けられて一月半。ほぼ毎晩のように菊世は定敬の寝所に現れたが、満足な回答をしてやった試しが無い。
「淀殿の大事にしていた笄」
[違うわ]
「太閤の精力の元になるイモリの黒焼き」
[太閤様は両生類がお嫌い]
「皿」
[それはお菊さんのほうよ。しかも、なくしたんじゃなくて割った]
「エロ本」
[それはあなたでしょ]
「うわあしまった。思い出した。おれのエロ本ほんとに何処行っちまったんだ!」
 というような不毛な会話が幾度と無く繰り返された。
 定敬は、疑いの眼を菊世に向けて、
「菊世どのは本気で成仏したいのか?おれなんかに聞くより、もっと昔のことを知ってる他の幽霊にでも聞いた方がよかないか?」
 すると、菊世はわっと伏した。
[……ダメなんです。あたしのように一服盛られて死んだ人間は、自ら恨みを持って死んだ霊より劣ると言われて口も聞いてもらえないんですっ]
 霊界にも身分差があると見える。
「よくわかんないけど、気長に待つってのなら協力はするけどね」
[ありがとうございます!定敬様って何て心が広い御方なの!]
「はぁ」
 胸元をぼりぼりと掻いた定敬に、菊世は抱きついた。が、幽霊なので何の感触もなく冷気を感じるだけであった。

 さて。季節は師走になり、既に暮も押し迫った頃。定敬も二条城警固の任務に慣れてきた。
 そして、今日は任務が無い日であるのだが、二条城へ出掛けた。というのも、この二十四日に定敬の異母兄であり、会津藩主・松平容保が京都守護職を拝命して入京していたのである。定敬は、兄弟でいちばん仲のいい容保に会うのが楽しみであった。
 二条城では、来年将軍・家茂の上洛ということで再普請が行われている。消失した本丸御殿を再建し、二の丸御殿を増築する計画なのだが、いかんせん幕府の台所も火の車で、金がないので遅々として進まない。
 定敬が初めて城に入った時、まるで御殿はあばら家のようでもあった。
 車寄に入った途端にもう既に白塗りの老女が座り込んでいる。この当然幽霊である老女が憎たらしい。定敬を見るなり、
[アラ若い男やわ。けど、も一つ冴えへんねぇ]
 と呟いた。
(冴えなくて悪かったな。斬ってやろうか)
と思ったが、既に相手は死んでいる。背中には誰かが袈裟懸けに斬り捨てたと思しき傷跡があった。
 遠侍に入ると柳の間から、誰もいないのに童の声が聞こえるし、納戸の間に立っていると隣の物置からものすごい家鳴りがする。勅使の間では衣冠束帯の男が右往左往していた。
[伝奏はまだか。伝奏はまだであるか]
 ぶつぶつ言っているが、どうやら御所からの伝奏を待っていて何らかの事故で死んだ侍のようであった。顔色が尋常でないが、これは死んでいるからなのか。
 そして、虎の間である一の間、二の間ではたまに襖絵の虎が抜け出して縄張り争いをするという。その翌日、虎の一匹に血の染みのようなものがついていたとかいないとか。
 廊下を過ぎて式台の間であるが、その裏手にある老中の間。三つある間取りは、丑三つ時に出入りすると何時の間にか三つのはずの間が四つに増えているという。
 定敬はまだ大広間までしか入ったことがない。
 正午。定敬は東大手門の前で、容保を迎えた。江戸城に出仕していた時以来、一年ぶりの再会であった。
「兄上!」
「定敬!」
 兄弟は互いに駆け寄った。が……。
 兄に向かって両手を広げた定敬の表情が凍った。
(おわああああっ!)
 声無き叫びが定敬の喉から洩れた。容保の華奢な体には、それを押し潰さんが如く背後霊がひい、ふう、みい……総計十三も取り憑いていたのであった。
「どうした?定敬。人前で恥ずかしいのか?江戸城ではあんなに仲がいい兄弟だと評判だったのに」
 容保はひどく淋しそうな声で訊ねた。顔色さえ青白い。
「いっ、いえそういうわけでは。でも、おれももう十七ですから」
 と意味を成さない言い訳をしてみたものの、定敬は容保を暫く正視出来なかった。何しろ背後霊が一斉にじっと定敬を凝視するのである。なかでも、一際凄絶な形相の豪華な打掛姿の女の目が据わっている。据わっているというか、三白眼というか何処か違う世界でも見ているような強烈な表情だ。
 定敬は、そっと懐から『怪奇分監』を出して、確かめてみた。
 「お江与」:第二代将軍・徳川秀忠の正室。言わずと知れた恐妻で、側室を置くことを許さなかった。が、出来心で秀忠が外に作った子供の存在を知らずに死ぬ。その子が保科正之となり、三代・家光の異母弟として嗣子・家綱の後見役になり、やがて会津藩祖になったことを霊界で知るや、代々会津藩主に取り憑くという、かなり迷惑な幽霊。お江与の呪い十八番は、「必殺子種殺し」。その御蔭で会津藩家には子が出来難い。
(そうか!こいつの所為で先代・容敬おじも敏姫様も……)
 容保の先代で、兄弟二人の伯父にあたる容敬に男子が出来ず、やっと出来た娘の敏姫も容保という養子を迎えたものの、十九歳の若さで亡くなってしまい、今容保には正室がいない。当然、嗣子もいない。
 そう思うと、定敬は俄かに怒りが込み上げてきた。確かに徳川にとってはお江与は無くてはならない存在だったのだが、死んでまで悋気を起こすとは女子は恐ろしい。
「そうかお前も十七か。当然……」
 容保は言葉を濁した。見るからに貴公子で気品溢れた容保の口から「童貞を卒業したのだな」とは聞きにくい。
「兄上、その話はおいといて」
 定敬は誤魔化し誤魔化し容保を城内に案内した。車寄に入ると、老婆の幽霊が座っていた。
[アラまたこっちは初顔。役者はんみたいなごっつええ男やわー]
 老婆は容保を見るなり、相好を崩して立ち上がった。現金なもので、老婆は虎の間までついてきた。容保の後に座っている。
(くそばばあめ。おれはも一つで、兄上はイケメンかよ)
 定敬は睥睨した。
「ところで兄上。何かまたちょっとお痩せになられたような」
「ああ。やっぱり」
 と、容保は溜息を吐いた。
「どうもこのところだるくて。会津にお国入りしてから何となく体調がすぐれぬ日が多くなった気がする。肩凝りや眩暈が治まらぬし、微熱さえ出ることもあるし」
(そりゃそうだろうなァ)
 定敬は容保の顔を凝視しながら頷いた。何しろ十三もの背後霊が憑いているのだ。いかに霊感が強い人間でも、げっそりするに違いない。まして、お江与のような強力無比の霊に憑かれていては。くだんのお江与はぎろりと定敬を睨んだままである。
(ちくしょう、ガン飛ばしやがって腐れ大年増)
 この霊を取り払わねば、いずれ容保も衰弱して危険であろう、と定敬は唾を呑んだ。
「そういうわけで、体調も万全とは言い難く、実は何度も守護職御拝命の件はお断り申し上げたのだが、春嶽侯に詰め寄られてな」
「心中お察しします。しかし兄上、おれが見たところそれはヘンですよ」
「ヘン?」
 容保は怪訝な顔をした。一の間の中には生きている人間は兄弟とそれぞれの小姓のみである。忌憚の無い兄弟の語らいであった。
 定敬は、相変わらずお江与をチラ見しながら言った。
「京都守護職なんて前代未聞の職。所司代の兵力が足りないからといって、確かに諸藩の兵に頼るのはこの御時世不安ですけどね。兄上の他にも適任があったかも、なんて」
「今更ここまで来て、会津では役者不足というのか」
「そうではなくて、あのその……」
 お江与が更にキツイ眼差しで定敬を睨んでいる。
「兄上は何かこう、摩訶不思議な現象とか、幽霊とかお化けとかお化けとかお化けとか見えますか?」
「は?」
 唐突に訊かれて、容保は唖然とした。そして暫し柔和な笑みを浮かべたあと、襟元を優雅に正して、
「定敬」
「はい」
「『論語』にあるであろう。『子は怪力乱神を語らず』と。一国の主たらん者が、そういう一反木綿とかぬらりひょんとか船幽霊とかえくとぷらずむとか信じるわけがない」
 その割には随分と詳しいじゃないか、と定敬は思った。
「しかし兄上。兄上のお身体がすぐれませぬのは霊障なんですよっ!」
 すると、容保は静かに苦笑した。
「……お前疲れているのだね?埒も無いことを言ってこの兄の気を惹こうなんて、可憐な」
「違いますってば。ホラ、兄上の両肩にド派手な打掛の年増幽霊がいますっ。お江与様ですよ、お江与様」
 定敬は指差した。お江与は声もなく、にたにた笑っている。
「それだけじゃないよ、兄上。あと十二人も背後霊がいるんだよ。しかも車寄にいたババアまでついてきてるし!」
「落ち着け定敬。お前夢でも見てるんだ」
「これが落ち着いていられるかっ。こいつらが寄ってたかって兄上に悪さをしてるんですからね。こんなんじゃあ到底、兄上には守護職はまっとう出来ません!」
「そんな」
「兄上を上洛させる運びにさせたのも、こいつらの所為ですっ!」
「ま、まさか!」
 定敬に断言され、容保は大いにショックを受けた。そしてうーん、と唸るとそのままへなへなと横倒れになって気絶してしまったのであった。

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