(四) 恐怖!呪いの水戸納豆・恐怖!呪いの焼き蛤
<前編>
元治元年四月十一日。定敬は何と、京都所司代という大役を仰せつかってしまった。
これも、守護職・松平容保の意向であることは言うまでも無い。容保は上洛中の将軍・家茂にそれとなく、いやはっきりと懇願したのであった。
「定敬がいれば、
病弱な私の補佐をしてもらえると思うのです。ちょっとおっちょこちょいですけど、根は真面目な弟です。ダメでしょうか?」
「よきにはからえ。越中ならよかろう」
家茂は、諾々と承知した。何しろ、家茂は江戸にいた頃から定敬を「何だかいい男」と思っていた数少ない奇特な人の一人である。それを聞いていた、禁裏守衛総督の一橋慶喜、
「ふーん。
童貞なのに」
家茂も容保も絶句した。言ってはならないのに、この男は平気でずけずけと言ってしまう。それが一橋慶喜であった。
とまれ、定敬は弱冠十八歳で京都所司代になった。前代未聞の
童貞所司代である。
定敬を「何だかいい男」と思っている奇特な人の一人である近衛前関白などは、自筆の歌まで贈ってくれた。どうやら定敬は年上殺しのようだ。井伊掃部頭に好かれた容保も同じ血が流れている。
「さすが血は争えないものだな。ジジイキラー」
と、慶喜は白い歯を光らせて言った。
「お年寄りに好かれて何が悪いのだ」
定敬は思わず、慶喜に食って掛かった。
「じいさんには未来はないじゃないか。利用価値がないんだよね」
「一橋どの、それはお言葉が過ぎませぬかな?」
容保がやんわりと応戦した。定敬は二人の頭上を見遣る。容保側の背後霊・お江与と慶喜側の背後霊・春日局が睨み合っていた。くわばらくわばら。
「事実を述べたまでだ。実際、おぬしを可愛がってくれていた掃部頭だって」
慶喜の発言に、容保は項垂れた。桜田門外で勤皇志士の兇刃に斃れたときの大老・井伊掃部頭直弼のことである。万延元年三月三日の出来事であった。
「そうは仰られるが一橋どの、あの事件は水戸藩士のしわざ。水戸家は一橋どののご実家でしたな。幕府と水戸が一触即発になるのを回避出来たのは、兄上のとりなしあったればこそではないでしょうか?」
定敬はいきおい言った。だが、慶喜は涼しげに首を傾げた。
「過ぎたことは過ぎたことだ。それに、あやつらは直接おれには関係無いし、肥後には何とかしてくれなんて誰も言った覚えが無い」
「何ですと。あんた、納豆の食いすぎで頭腐ってんでねえの?」
定敬はむかっ腹を立てた。どうも兄上のこととなると頭に血が上る。だが、こう言う時、腹を立てる方が不利になるものだ。
「むっ。聞き捨てならないその台詞」
慶喜は懐から扇子を取り出した。
「水戸納豆を馬鹿にするとは、つまり天下の副将軍を嘲弄すると同じことでは?」
「てやんでえ。おれは水戸の納豆なんざ食ったことがねえやい」
二人は睨み合った。
「ちょっとまあ、よしなさいって。御前で失礼ではないか」
割って入ったのは、容保であった。家茂の前であることを、定敬も慶喜もすっかり失念していた。家茂は為す術もなく苦笑いしているだけである。
「いや……あの、私は納豆といっても尼御前のぬれ納豆くらいしか食べられない」
家茂は極度の偏食家で、三度の食事の大半が甘味という変わった趣向の将軍なのである。御蔭で定敬も、謁見の折には何かと季節の菓子を持っていくのですっかり詳しくなってしまった。
それはともかく、
「そんなに言うなら越中、近いうち本家本元水戸納豆を送ってやるわ」
慶喜はそう言うと、一足先に退出していった。
「だってよ、兄上。何ですかあのケーハクな男は。頭はいいか知りませんけどね、おれ、あんなのと一緒に京でやってく自信ありませんよ」
「まあまあまあ。落ち着け定敬。一橋どのはああ見えて、悪い男ではない。ただちょっと性格が悪いだけだ」
「それが問題だっての」
宥める容保に、定敬は憤慨して言った。だが、今し方の慶喜と定敬の遣り取りでげっそりしてしまった容保に、これ以上面倒はかけられまい。
こうして松平定敬、十八歳
童貞の京都所司代一日目が始まったのだが、
「もしかして、これがみっちーの言う桑名藩最大の災難なのだろうか?」
と、定敬は暫し不安に苛まれたのであった。
ある晩。定敬はほろ酔い加減で所司代屋敷に戻ってきた。このところ、就任祝いと挨拶回りで毎晩のごとく接待づくめである。酒宴はあまり好きではないし、経費の無駄遣いしているようで気が引けると思いつつ、断れないので行ってしまう。
幸い所司代屋敷は以前の大徳寺と比べて、近いのでつい長居をしてしまうことも多い。
定敬が寝間着に着替えて寝所に戻ると、
[おかえりなさいませ〜]
「わっ」
行灯の脇に女幽霊・菊世が三つ指突いて出迎えた。
「何だ菊世どのか。あんた藩邸のほうにしか出ないんじゃなかったのか?」
定敬が布団の上に膝まづくと、菊世は音も無くにじり寄って来た。
[定敬様の行かれるところなら何処までも。この菊世はついて参ります]
「……あっ、そう」
定敬は柄にもなく照れた。
(何だかえらく好かれちまったみたいだな。幽霊じゃなきゃなー、菊世さんも。美人で巨乳なのに。でも、おれって意外と女殺し?)
菊世は既に死んでいる。おまけに
童貞の思いあがりも甚だしい。
[それに、まだあたしが何を失くしたか思い出してくれてないじゃないの。このい・け・ず]
菊世は定敬の胸元を冷たい指先で突いた。
(わかるわけないじゃないかよ)
と、定敬は思ったが、
「そのうちな、そのうち」
言葉を濁してそそくさと床に潜り込むのであった。
翌日。定敬は小姓に起こされた。しかし、いつもより半刻は早い。
「殿。大変でございます」
「何が?まだ寝かせてよ、眠いんだから」
「とにかく、此方へ。一寸失礼つかまつります」
と、定敬は寝間着のまま小姓二人に腕を掴まれて、廊下を急いだ。家臣らが出入りする西門の玄関まで来ると、何か異様な臭いが漂ってきた。
「うっ。これは!」
土間には何と、巨大な大人一人ほどの藁苞が置かれていた。異臭が発せられているのは、その藁苞からであった。
「一橋様からのお届け物だそうです」
「水戸納豆か!」
その朝から所司代屋敷の膳には総て水戸納豆が付けられた。最初は「美味い美味い」と喜んで食べていた藩士らも、十日間毎日三食納豆を食べても食べても一向に減らないので、次第に飽き飽きしてきた。
定敬が参内すると、慶喜が薄っすらと嫌味な笑みを浮かべて、
「どうだ?水戸納豆は美味いだろう」
「そこそこ」
「そうか。じゃあもっと送ってやるよ」
と、即日また大きな藁苞が届いたのであった。まだ前の分も消化して無いというのにだ。
「あのヤロー。あからさまな嫌がらせだっ。納豆なんてクソ食らえ、庭に埋めといてやれ!」
定敬は癇癪を起こして、小者らに命じた。
その晩である。
定敬の耳元でかさこそという物音が聞こえた。
「うーん。菊世どのか?…ダメだよ、双六はしないよ。チンチロリンもダメ。吉村に叱られる。明日も早いんだから、眠らせてくれってば」
だが、眠い目を擦って起き上がろうとすると、
「わっ!」
定敬の上に覆い被さってきたのは、藁苞を被った女であった。しかも、避けようとすると、何やらネバネバした糸のようなものが絡み付く。まるで納豆のニオイだ。
「うわあー、
ちょっとまったあー!」
そんなこんなで、一晩中女を避けようとすれば糸が纏わりついて、また逃げての繰り返し。女が去って行った夜明けには、定敬はへとへとになって床の上に突っ伏しているのだった。
「如何しました殿ッ?」
服部半蔵が駆け付けた。
「うっ、殿っ。このネバネバは!」
半蔵は、定敬の身体が寝間着もろとも納豆に覆われているのを見てしまった。これではイカ臭くても判らない。「さては殿は昨夜えっちな夢を見ていて、朝起きたら布団がイカ臭くなってしまった。粗相を誤魔化す為に納豆をぶちまけたな」と半蔵は疑った。だが、
「うわーん、半蔵。納豆女がっ」
定敬は『怪奇分監』を紐解いた。
「納豆女」:もとは納豆売りの行商女だったが、売れなくなって首をくくって死んでしまった。その怨念によって納豆女になった。藁苞を被っている。納豆を粗末にした者のところへ化けて出てくるという。手厚く供養してやると、消え去る。
「本当でございますかぁ?」
半蔵はなおも疑う。定敬は、
「嘘だと思うなら、裏庭に埋めた納豆を掘り返してくれ。供養したらよかろう」
主の命令であるので、半蔵は従った。
果たして本願寺の坊主を呼んでしめやかに納豆供養を行うと、その晩は納豆女は現れなかった。
漸く納豆臭さの薄れつつある定敬は、拳を握り締めた。
「やっぱり!ちくしょう慶喜。あんな物の怪をよこしやがって。目には目を、歯には歯を、だ。この仕返しきっとしてやるからな」
何となくそれは逆恨みのような気がしないでもない。だが、藩士の誰も敢えて突っ込もうとしなかった。
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