(四) 恐怖!呪いの水戸納豆・恐怖!呪いの焼き蛤

 <後編>

 さっそく慶喜に報復しようと思い立った定敬であったが、妙案が浮かばない。
「水戸納豆に対抗できるようなネバネバのものはないか?」
 と、家臣らを集めて質問した。
「もずくでしょうな」と、山脇十左衛門。
「あれはずるずるという感じだ。オクラに決まってる」と、吉村権左衛門。
「卵の白身を使うとか」と、公用方の森弥一左衛門。
「そんな高価なもん使ったら、藩の財政がっ」
「とろろでござるか?」
「想像したくないなァ、それは」
「無理にネバネバでなくてもいいのでは?」
 傍から見たら不毛な会議であるが、童貞の殿の為にと誰もが必死であった。実に美しい主従愛。幕末の所司代屋敷でこういうことが真剣にとり行われていたことは、定敬が後年資料を燃してしまった為に残存していない。
「殿。こういうのは如何でしょう?」
 服部半蔵が進み出た。
「昔、父親からこういう話を聞きました……」
(以下、定敬の脳内では主人公が自分に成り代わっている。ヒロインは適当に思い浮かばないので菊世ぐらいしかいないという貧相な想像とみなして頂きたい)

 桑名は木曽川、揖斐川、長良川の三川が合流する水郷であり、東海道の要所として栄えてきた。そして、言わずと知れた「桑名の焼き蛤」で有名な蛤の産地である。
 寛政の頃、蛤漁に携わる茂吉という一人の青年がいた。両親を幼い頃に洪水で亡くしていた。しかも童貞であった。茂吉は他の熟練漁師に比べて漁が下手で、あまり肉厚の蛤が獲れない。その日も他の漁師の半分ほどしか取れないまま帰ろうとしていた。その時、引き揚げようとした網がずっしりと重みを増したので、何事かと思って見てみると、そこには傷付いた大きな蛤が。
「何てでかい蛤だ!こいつは高く売れそうだ」
 と、茂吉は思ったが、蛤は貝柱が傷付いている。
「でも、可哀相だな。ええい、仕方ないが逃がしてやろう」
 茂吉は心優しい青年であった。その晩は何かいい事をしたような気分で帰宅し、床に就いたのであった。
 翌朝、茂吉は目覚めた。すると何やら竈のある方からよい匂いがしてくる。味噌汁の匂いであった。起き出してみると、
「やっ、あんたは」
 台所でうら若い女がせっせと朝餉の支度をしていたのである。女は振り返った。色白の目元の涼しげな、鄙には稀な美しい女であった。
「おはようございます。お一人で朝餉は味気なかろうと思い、無遠慮に入らせていただきました」
 とんでもない、大歓迎である。茂吉は鼻血が出そうになった。早速見ず知らずの女と卓を囲んで食事をした。
「なんて美味い味噌汁だ。だしがきいている」
「お気に召してうれしゅうございます」
「なんの。で、あんたは何でまたおれん処へ?」
「あなた様をお見掛けした時から、お慕いしておりました。私ははまと申します」
 おはまと名乗った女は、その日から茂吉の家に居ついてしまった。おはまは器量よしで働き者で、あっという間に近所の評判になり、半ば公然と茂吉の押しかけ女房になっていた。中でも味噌汁の美味さと床上手。これは他言出来ない素晴らしさだと茂吉は思っていた。
 そんな或る日、
「どうしてお前のつくる味噌汁はそんなにだしがきいて美味いんだい?」
 と、茂吉はおはまに訊いてみた。
「我が家の秘伝でございます。旦那さまでもお教え出来ません」
 おはまはそう言って笑った。茂吉は、どうしても味噌汁の謎が知りたいと思い、朝早く漁に出る振りをしてこっそり家の裏に回り、台所を覗いてみた。
 すると、おはまは土間に大きな盥を置いた。それに囲炉裏で沸かした湯を注ぎ入れると、おはまは着物を脱ぎ出した。
「何で台所で風呂に入るんだろう?しかもあんな熱湯で。風呂は外にあるというのに」
 茂吉はおはまの白い肌が眩しい。眩しくて覗き見するのが憚られた。
 だが。茂吉が再び覗いてみると、おはまの姿は其処に無かった。湯気を立てている盥の中には巨大な蛤があったのである。蛤はやがて、よいだしの香をさせながら、パカーと口を開いた。
「はっ!あの蛤。貝柱に傷がある」
 茂吉は愕然とした。その場にへなへなと座り込むと、突然勝手口の戸が開いた。おはまであった。蛤ではなく、いつもの美しい女房であった。
「そうです、私はあの時あなたに助けて頂いた蛤なのです」
 おはまは悲しそうな目をして言った。
 茂吉は呆然としていた。
「お前は、自分の身を削っておれの為に美味い味噌汁を作ってくれていたのか!」
「でも、もうそれも今日の分でお仕舞いです。蛤女は正体を見られてしまったら、海に戻らねばなりません」
 おはまは茂吉の前に膝まづいた。
「どうしてなんだ!?おれはお前が蛤だって構わない。これから二度と蛤は食べないよ」
「いいえ。ダメなものはダメです。でも、私のお腹には既にあなたの子供が……この子達を産むにも私は海に戻らねばならないのです」
「そんな」
「追わないで下さい。追うとあなたに海の神の罰が下ります。それに、毎月二十日には必ず蛤を食べないでください。禁を犯した者には祟りが訪れるといいます。それでは、お許し下さい、さようならっ」
「ちょっとまったぁ〜!」
 おはまは身重だというのに、茂吉を置き去りにして駆け去った。
「お〜は〜ま〜!」
 茂吉は暫く漁にも出ず、おはまの思い出を繰り返し懐で温めつつ過した。だが数ヶ月後、次第に食べ物も金もなくなってきたので、仕方なく漁に出た。その日は少し時化っていて、「今日はダメだな」と他の漁師もぼやく有様であった。ところが、どういうわけか茂吉の網にはそれまでの倍以上もの数の蛤が掛かったのである。あくる日も、そのあくる日も。
「これはおはまのお蔭に違いない」
 茂吉は覚った。やがて茂吉は蛤の網元になり、御殿が立つほどの身上になったという。それが、今長島にある濱屋の蛤御殿であるとか。

「うわあん、なんていい話なんだ」
「おれの女房にも聞かせてやりたいよ」
 服部の昔話をきき終えた面々は、感動の涕に咽んでいた。
(どいつもこいつもなにを泣いてやがる。これのどこが泣ける話なんだ?確かに床上手な女房はいいかもしれんが蛤だぞ、蛤。蛤に童貞を奪われてどうする?)
 と、定敬は思った。それでも一生童貞のまま朽ち果てるよりはマシだが。『怪奇分監』には、こうあった。
 「蛤女房」:大蛤の化身。かつて漁師の茂吉に助けてもらったお礼に、美しい女子の姿になって現れた。自分の身を熱湯にひたして味噌汁のだしを取るという甲斐甲斐しい蛤。正体を見られると、海に戻らねばならず、追うと海の神の罰が降るという。付き合うにはちょっと重いかも……。
「半蔵、この話の何処が参考になるというのだ?」
「は。懼れながら、蛤女房が去り際に言った『海の神の罰』と『毎月二十日には蛤を食べないでください』という部分ですね」
「その為だけにえらい長い話をしたような。後編の三分の一はお前の話じゃねえか」
「申し訳ありません。しかし、この蛤女房をして一橋殿にめあわせれば、きっと一橋殿は虜になるに違いありません。そして、好奇心旺盛なあの御方のことですから、きっと蛤女房の正体を知りたがる、そこが狙い目です」
「おお!」
 定敬は立ち上がった。
「よし。半蔵、皆の者。急ぎ国許へ早飛脚を走らせ、大蛤を京へ運ばせよ!」
「はは!」
 実にこういうことには結束力の固い主従であった。
 三日後、超高速クール便とともに立見鑑三郎がやってきた。
「殿っ、お久しゅうございます!見て下さいよ、一昨日の朝いちばんに水揚げされたとれとれの……」
 鑑三郎は駆け寄ったが、定敬はすっかり大蛤に気を取られていた。鑑三郎の挨拶も無視して蛤を見た。
「なんかちょっとおれも試してみたいな」と思ったが、そこは我慢してさっそく慶喜の元へ届けさせたのであった。
 翌日。二条城にて。
「越中、今度はいいものを贈ってくれたな」
 慶喜はほくほく顔であった。
「蛤は桑名の名産ですからな」
「ほんによい蛤だ。まだ食しておらんが、珍しいので家中で皆が観察している。しかもあれが届いた晩にの、見知らぬ女性(にょしょう)が、床までやってきてな……」
 慶喜はにんまり笑った。
 定敬も笑った。内心ガッツポーズである。
(よっしゃ、上手くいったぞ)
 あと数日もすれば、きっと慶喜は蛤女房の正体を見たがるに違いない。
 が。慶喜はいっかなそれらしい気配を見せなかった。不審に思った定敬は、それとなく訊ねてみることにした。
「一橋殿。あの蛤はご賞味されましたかな?」
「ああ」
(えっ?)
 あっさり答えられたので、定敬は内心動揺してしまった。
「あまりに大きいので、あらかじめ身を割って七輪に掛けて焼いたのだ。美味であった」
「そ、それだけですか?」
「それだけだ」
 慶喜は二の丸御殿の廊下を歩き出そうとした。そして、腑に落ちない定敬に向かって思い出したかのように振り返った。
「あ。そういえば、蛤を食べた晩に枕元に妙な幽霊のような女が座っていたな。前身血塗れの腕や脚はもがれ掛けて、首まで落ちそうな女だったな。何だか顔付きはこの間忍び込んできた女性に似ておったが。おかしな夢だったのう」
 そう言うと、慶喜は去って行った。その頭上で春日局の背後霊が「オホホホーッ」と高笑いしていた。無論、定敬にしか見えない聞こえない。
「……効き目なしかよっ!」
 定敬は慶喜の姿が見えなくなると、すぐさま地団駄踏んだのであった。
 恐るべし一橋慶喜。ある意味妖怪以上に妖怪じみている男。定敬はまたいつか、いつか再びささやかな復讐をしようと心に誓ったのであった。

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