(六) 怪談!傾城幽霊ともえ
<後編>
「き、菊世どの」
上目遣いに襖から半身を覗かせる菊世の姿があった。しかもゴージャスな太夫姿で。
[来ちゃった]
何しに来たんだよ、と定敬は唖然とした。まるで好きな男のアパートにネギのはみ出した買物袋提げて来る女子大生のようではないか。「あたしの自慢のロールキャベツ食べて欲しくて。そのあとあたしも食・べ・て。なーんてイヤッvv」みたいな。何なら裸エプロンで。ネギはロールキャベツには使わないとしても。
というような妄想が定敬の脳内で炸裂していた。
しかし、その姿は半蔵には見えない。
「土方には見えるのか?」
「は。美人であれば生きていようがいまいが、このターミネーター・アイにキャッチ出来ない女子はありません。しかし、越中守様もスミにおけませんなぁ。こんな色っぽい幽霊と」
ウフフ、と土方が笑う。土方という男、力強い味方なのか、単なる面白がりなのかわからない。
[怒らないでよ、定敬様。菊世は心配で心配で]
「はあ」
[だってあなた様の
童貞が他の女子に奪われるなんて、あたし耐えられないっ]
「耐えられないってさァ、でも、おれ菊世さんは嫌いじゃないんだけどね、幽霊とはね、やっぱりね……」
定敬は柄にもなく慌てた。
[あたしが幽霊だからダメなの?それとも二百七十三歳も年上だから?]
「うーん困ったなァ」
「お言葉ですが越中守様。この自称『愛の狩人』土方歳三に言わせれば、愛があれば年の差なんて」
土方がすかさず横槍を入れる。
(いや、愛とかそういう問題じゃないんだけどさ。しかもあんたの辞書に『愛』という字はあるのか?エロ副長)
と思ったが、さしもの定敬も土方は兎も角、菊世に向かってそれは言い難い。そう。このやりたい盛りの
童貞・松平定敬も菊世にだんだんと情がうつってきたようである。
何かとせわしない所司代業務の中で、一人ぼっちの無聊を慰めてくれるのは鑑三郎のゲジマユでも、家老らの中年の魅力でもなく、幽霊の菊世であった。
[定敬様、ほらほらM字開脚〜]
「よせって、今仕事中なんだってば……ぶっ」
などと定敬は一体何枚の書類に鼻血をブチまけたことか。
最早宴会どころか、一同皆このわけのわからない遣り取りに見入っていた。尤も、大半の人間は定敬しか見えていない。
[あたしの為に死んで頂戴と言ったらダメ?]
「それは出来ない!」
定敬はきっぱりと言った。
「おれには京都所司代という大役がある。それに、
病弱な兄上を補佐して、
ケーハクな慶喜とイヤでも仕方なくても折り合って幕府の為に奔走すると誓ったのだ。志半ばで死ぬわけにはいかない」
「……殿っ」
半蔵はうっ、と声を詰まらせて背を向けた。泣いているのである。内心、本当に普段しょーもないシモネタとか、慶喜に些細な悪戯をして報復するとか、そういうことに命を賭けているバカ殿だとちょっと軽んじていたのだが、なんて素晴らしいことを仰る、と半蔵は感動した。
[ああーん。ごめんなさい定敬様。ごめんなさい、菊世が悪うございました]
菊世は突っ伏して泣き出した。
「いっ、いや泣かなくても。まあいずれ人は死ぬんだし、気長に待ってよ」
[その頃定敬様は白髪頭の、悪くすりゃハゲ頭のおじいさんよ。きっとアレも役に立たないわ]
「ぐさ」
定敬は大いにショックを受けた。まだ
童貞を失っても無いうちから不吉なことを言われてしまった。土方は思わずぷっ、と噴出した。
「どうすりゃいいのよ、おれ」
[あたしに任せておけばいいのよ。
童貞さえ失えば、傾城幽霊に襲われなくて済むんだから]
菊世は定敬の羽織を脱がせ、袴の紐を解き、みるみる早業で着衣を奪っていく。あれよあれよと下帯いっちょうにされてしまった。
[定敬様ったら意外に貧弱な上半身]
菊世は遠慮会釈ない。
(おれはこのままどうなっちゃうんでしょう?でもどうにかなるならやさしくしてね……)
「ていうか、
ちょおっとまったあー!こんな衆人環視の中でダメだっ!」
[アラ自信が無いのね。じゃあ奥へ参りましょうv]
「ばっ、ばか!気安くそこに触るなっ」
すっかり菊世のペースにはまってしまった定敬は、引き摺られるようにして大広間を出て行く。
「何なんだ、先程まであんなに殊勝なことを仰っていた殿が何で下帯いっちょうに?この半蔵には理解不能だっ」
半蔵は愕然と肩を落とした。土方が、落胆する半蔵の肩に手を置く。
「まあまあ服部様。
童貞というものはああしてオトナになって行くのです。おれも多摩の頃を思い出すなァ……」
「あんたの話はどうでもいいよ!」
半蔵は投げ遣りに言った。藩主の言葉遣いに影響されてきたようである。
だが。
[ちょいとあんさんがた]
割って入ったのは傾城幽霊の巴太夫ことともえであった。
「傾城幽霊ともえ」:もとは島原の巴太夫。怪力だということから「巴御前」に由来する。童貞のニオイを嗅ぎつけて夜な夜な襲う恐ろしい幽霊。実は松平定猷と恋仲であったが、定猷の病死を知らずに捨てられたと思い、自ら命を絶ってしまった哀れな女性の霊。
「あっ。ともえさん」
定敬は漸く正気に戻った。ともえは憤然として、
[
童貞の匂いを嗅いでやってきたらば、どないな騒ぎですねん。人間と幽霊の痴話ゲンカなんて見てられへんわ。あほくさ。帰らせてもらいまひょ]
「
ちょっとまったあー」
定敬は下帯いっちょうのまま叫んだ。半蔵にはもう藩主の気が触れたようにしか見えなかった。しかし、きっと何かお考えがあってのことに違いない、とひたすら我慢していた。
「勘違いしないでくれ、ともえさん」
定敬は言った。
[そうよ、定敬様の
童貞が欲しかったら、このあたしと勝負してからになさい]
菊世が闘志満々で言った。
「いや、だからそれは違うってば」
[定猷様に秋の扇のように捨てられた女を皆して嘲笑うてるんやろ?]
ともえは恨みのつのった目付きで定敬を睨み付けた。
(やばっ。今度こそとり殺される!)
すると、
「そんなことはない!」
忽然と現れたのは、定猷であった。
[定猷様!]
「ともえ。お前を残して江戸に戻ったあと、私は病を得て療養の甲斐もなく死んでしまった。便りの一つも出さず、遺言も残せず申し訳なかった」
定猷は額づいてともえに謝った。
[そうだったんどすか……うちったら早合点して、てっきり定猷様に捨てられたと思うて、宇治川に身投げしてしまいました]
「何て事を」
[そしたら、死ぬに死ねなくて。どうしても浮いてきてしもて、しかたないんで首くくったんどすけど、それも縄が切れてあかんかったんどす。つぎはそこらを歩いとる浪士に斬って貰おうかとお願いしたら、気味が悪いいうて逃げられて。やけになって茶店でだんごをバカ食いしたら、喉に詰まって死ねたんどす]
「可哀想に、ともえ!」
可哀想というか、それはあんまりな最期ではないか、と定敬は呆れた。
[定猷様!]
[二度と離さないよ]
二人はひしと抱き合った。
[これで成仏出来ます]
ともえはにっこりと笑った。
ともあれ、定敬はほっとした。見ると、菊世はさめざめと泣いている。
[現世でもあの世でも結ばれるなんて、なんて深い愛情なのかしら。……うっ、うっ]
「勝手にやってくれ。おれは帰る、一件落着だ。今回やけにちょっとまった、の大奮発をしてしまったような気がするが」
[ダメよ定敬様。あたしたちも愛を深め合いましょう!]
嬉々として言う菊世から逃げるようにして定敬は着物を着込んだ。
「それは勘弁してよ!」
「じゃあおれが菊世どのと」
しゃしゃり出てきたのは、土方であった。
[イヤよ、あんたなんか。早いだけが取柄じゃない]
「どういう意味だそりゃ」
土方がむっとなった。菊世はフフンと意味ありげな笑みを見せる。こうして島原の夜は更けてゆく。
しかし、不吉な影がまたしても桑名藩および所司代屋敷に迫っていることなど、取り敢えず
童貞を死守した定敬は知らないのであった。
それにしても浮かばれないのは、ともえに
童貞を奪われて死んで行った者たちではないだろうか。
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