(八) 実録!仁義なき幕末

 <前編>

 決済を待つ武家伝奏の書状類。近畿一円からもたらされる訴訟状の数々。市民の投げ文。書類が山積みになった机上を目の前に、松平定敬はしかめっ面をしていた。
「なに。"萌えるゴミは水曜日に出せばいいのでしょうか?近頃回収の大八車が時間通りに来てくれないので出勤に困ります"だぁ。"萌える"でなくて"燃える"だろ。教養の無いヤツめ」
 次の意見書を読むと、
「"所司代様のヘアースタイルはイケてません。とっちゃん坊やみたいに見えて威厳ナッシング。総髪はおやめになったほうがよろしいのでは?"だとう。余計な御世話だつーの」
 定敬は丸めて捨てた。
「"一橋様が羊羹と一緒にうちの娘を召し出せと言ってきて困ります。何とかして下さい"……なんだこりゃ。これは菓子屋の手紙だな。慶喜め、何考えてるんだか」
 それも丸めて捨てた。
「"質問です。所司代様が童貞だという噂を聞いたのですが、それは本当なのでしょうか?まさかまだそのお年で童貞なんてことはないですよね?ぜひとも真相を知りたいのです。善良な一市民"……って、うぜえんだよっ(怒)!!おれが童貞だろうとそうでなかろうと京の治安にゃ関係ねえ!」
 それも引き千切って捨てた。
 だが、幾ら読んでもキリが無い。中には「さみしいの。ゆかり。最近文の一つもくれないな・ん・て」などという、現代で言うと援交サイトのお誘いのような書状まであった。
「あああああああああ〜」
 定敬は三分の一ほどこなしたところでウンザリしてきた。
「もおイヤだ、こんな生活っ!」
 立ち上がって机を蹴飛ばす。
[ダメです、定敬様。お仕事を投げちゃあ]
 いつの間にやら幽霊の菊世が現れている。
「るっせえ。おれはこんなくっだらねえお悩み相談とか苦情処理の為に所司代をやってんじゃねえよ」
[でも市民の為に働くのが所司代様のお仕事でしょ?]
「……フン」
[まだまだ届いてますわ]
 と、菊世が差し出した意見書には、
「同僚が仮病を使って出仕しません。取引先のボスからは”カ○モリはまだ病気なのか。早く出仕させろ"とせっつかれ、困っています。所司代様いかがいたしましょう?お知恵を拝借したいのです」
 と書かれていた。
「こりゃ慶喜じゃないか。慶喜が書いたとしか思えん。明らかに嫌がらせだ!病弱な兄上がしばしば病欠するのをわざわざこんな意見書に書いて寄越すなんて」
[同じものがあと三十通はありますわ]
 定敬は愕然となった。菊世はしどけない姿で、すっかり不貞腐れた定敬に寄り掛かる。
[そうがっかりなさらずに。京の市民はみんな定敬様を頼っておるのですわ。むしろ喜んでいいんじゃありませんの?]
「いや。みんな寄ってたかっておれをバカにしてるんだっ。おれを幾つだと思ってるんだ?まだ二十歳だぞ。世の中の若者はたいがい十三や十四で童貞を失い、女郎屋通いをしたり、仕事でつまんないことがあると酒を飲んだり、芝居を見たり、イヤな学問とかしないでもいいし、剣も槍もやんなくていいし、寝たい時に寝て、風邪を引いたら仕事も簡単に休めて、お気楽なもんじゃないかよっ。それに引換え、おれは童貞を失う暇もなく養子になって、あれよあれよという間に兄上に言いくるめられて所司代になって、しかもヨメはあんなガキんちょだぞ。その兄上は病弱だし、慶喜はイヤミだし、市民には苦情を言われ、過激派浪士には手を焼くし、江戸の幕閣はおれらに嫌がらせするし、朝廷は海千山千の公家ばっかでやり難いし、上から下から外から内からおれは毎日まいにち心も体も休まることなく突き上げられてるんだっ。手離しで喜べるか。おれはもう、こんな生活はイヤだあああっっ!!!!」
 長台詞お疲れ様である。
[さりげなく、最愛の兄上にまでチラとご不満を言われましたわね]
 と、菊世は突っ込む。だが、定敬は聞かなかったことにした。
「黙れ幽霊のくせに。お前が居ついてからというもの、ロクな事がないっ。出てってくれ。それが無理ならおれがここを出て行くっ!」
 無茶苦茶な論理だ。菊世のほうがもともと京に永く住み着いていたのである。しかし、惚れた弱みか菊世は動転した。
[……そんな、定敬様。ひどいわ、行かないで]
「うぜえ。誰が止めようがおれは今日限り所司代を辞める。一人の男として生きるんだ!」
 そういい残して、定敬は脱兎の如く書斎を出た。そのまま着の身着のままで所司代邸を出奔してしまったのであった。
 いいのか第二次征長の途中なのに。

 さて。着の身着のまま出てしまった定敬だったが、誰がどう見たっていいとこのぼんにしか見えない格好である。目立つこと間違いない。
「とりあえず袴を脱いで着流しになるか」
 脱いだ袴は質屋に入れて金を作った。足許を見られたか、一朱にしかならない。
 腹ごしらえしようと屋台でうどんを食おうとする。
「たぬきとかきつねって何なんだ?うどんにケダモノが入ってるのか?それともケダモノの出汁なのか?」
「何を仰いまんのやらお若いの。相当な世間知らずか、それとも十文うどん屋やでアホみたいうのんかいな」
 うどん屋のオヤジに睨まれた。しょうがないので「すうどん」よりは「かれえうどん」がいいかな、と思い「かれえうどん」を頼む。
 しかし、「すうどん」が「素うどん」ではなく「酢うどん」と思い、「かれえ(カレー)うどん」をてっきり「辛えうどん(江戸弁)」だと思い込んでいた教養豊かな定敬は、出て来たうどんの香辛料のどぎつい香りとおぞましげな汁の色彩にぞっとしてしまった。だが、食べてみると案外いけたので満足した。
「おお!外食がこんなに楽しいものだとは♪」
 調子に乗った定敬は、ほうぼうで食べに食べまくった。折角の一朱もあっという間に底をついてしまうのである。
「うーん。旅籠に泊まるにも金がない。啖呵切って出て来た以上は兄上とか他藩の厄介になるのは真っ平御免だしな!島原とか祗園とかで流漣するというのはどうだ、駄目なら体で払えばいいじゃん。何しろ童貞だからな!京都所司代の童貞を奪えるというなら、ただで泊めてくれるかも。こんな価値ある童貞はこの世に他にいまい」
 と思ったが、それでは明らかに居場所が知れてしまう。第一、童貞にそんな価値は無い。
 そもそも所司代をやめると豪語して出て来たのに、そのことを既に忘れているらしい。脳天気な家出である。
 弱った、と道端でくよくよしているうち、とっぷりと日は暮れてしまった。
「おう、そこの若い衆。どや、どんぶりやってかへん?」
 何となく胡散臭い落とし差しの男が、定敬に声を掛けた。
「どんぶり」
 と聞いて、食い物かと思い、定敬はほいほいと男の後をついていった。
 ところが。
 何処となく見たような景色の場所に近付いている。
「なんか御所に近付いてるような気がするが」
 うすうす妙だと思いながら、定敬は男に案内されるままに歩いた。何やら公家の屋敷のようである。
「入った入った」
 促されて入ると、そこは貧乏堂上(公家)の離れであった。江戸時代の御役のないお扶持米公家は貧乏なので内職をするか、町人に賭場を貸して金を稼いでいたのである。
ちょっとまったあー!ここは所司代として取り締まるべきじゃあなかろうか?いや、そんなことしたらおれの正体がバレバレ、ってか)
 しかし、よく考えてみると所司代をやめると飛び出してきたのである。何をしようが何を見ようが知ったこっちゃない。
 考え込むまでもなく、定敬はいつの間にやら畳の上に座らされており、気づくと「丁!」「半!」と叫んでいたのである。
 ビギナーズラックというやつで、とんとん拍子に二十両程勝った頃、「そろそろ帰ってもいいかな」と、盛り上がる賭場をこっそり抜け出す。とりあえず、これで当分はしのげる筈だと思って鼻歌まじりにフンフンと河原町通りを歩いていると、
「おい、おんどれ」
 呼び止められた。さっきの賭場にいた男達である。
「一人勝ち逃げしょうやかて、そうは問屋が卸さへんでぇ」
 とばかりに、定敬は四、五人の男にボコられた。勝った二十両どころか、二刀も紬の小袖も奪われて襦袢だけにされて道端に捨てられる。
「……くそう、色男金と力はなかりけり」
 然のみ色男でもないが。
(ああ、このままおれは萌えるゴミに出されてしまうのか)
 哀れ定敬、二十一歳の晩春。為すすべもなく明け方になり、烏に突付かれ、雀に虚仮にされ、野良犬には小便をかけられる。しかし、水曜日ではないのでゴミ収集人は来ない。悪ガキどもが「やーいお菰(乞食)や」と石を投げるが、立ち上がる気力もなかった。
 尾張徳川家の御連枝、高須松平家出身で御親藩大名にして京都所司代の松平越中守定敬は、一夜にして名も無いお菰さんである。ああ、世の中は無常なり。
 やがて町奉行所の下役人らしい男たちがやってきた。「死体かな?」「死体に決まってる」などと話ながら、定敬の体を担ぎ上げようとした。
「まっておくんなせえ!」
 遮る男の野太い声が下役人を留めた。
「その御方はまだ生きていなさる」
 すると、下役人たちは何におびえたのか、「ひょえ〜」と喚きながら定敬を放り出し、脱兎の如く逃げて行った。
「ど、何処の御方か存じませんが……かたじけな、いやありがとうございます」
 定敬は男の顔を見て、ぎょっとした。蒼白な顔で今にも死にそうなんである。いや、この男こそ死人ではあるまいか。
「屍(しかばね)半死郎と申します」
 否、「鹿羽半四郎」である。半死郎は、定敬を背負って自分の店に運んだ。店の名前は「冥途の飛脚」という一杯飲み屋であった。
「お前さん、言葉からしてお江戸の出身だね。つい故郷が懐かしくなってね」
 半死郎は煙管を咥えつつ、定敬に熱い茶を出した。
「初めて行った賭場で泣かされたんだろう。美人局でなくてまだしもだ。まあ、傷が癒えるまでここで養生しとくんな。死体ばかりで何にもねえけどよ」
 定敬は、うっと涙に咽ぶ。
「京にもこんなにやさしい、仁義に篤い漢(おとこ)がいたなんて!おっ、おれは、おれは定……吉って言います。どうかおれのアニキになってください。一生懸命働きます!」
 黒谷の兄上はどうする。
 根が能天気な定敬は、半死郎の「死体ばかりで何にもねえけどよ」という言葉に全く疑問も持たず、「冥途の飛脚」で働き始めたのであった。

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