(二)
雨音が聞こえてくる。春のぬるい驟雨が白木蓮の花弁を穿つように、降り注いだ。
蛇の目傘をすぼめなければ踏み込めない軒端の迫った路地の奥にも、雨は見事に落ちて来るものだ。
定敬は、この日は洋装ではなく、気に入りの深縹(はなだ)縞地の米沢紬を洒落っぽくぴっちりと着こなし、客間に座った。
彼が指定した麻布竜土町(りゅうどちょう)の一軒家に、熊谷瑞堂は丁度午後三時に訪ねて来た。
「お一人ですか」
定敬は意外に思い、つと口にした。てっきり、あの女弟子が付き添っていると思っていたのだ。
「ええ。ふさ女は少し風邪気味とやらで、鎌倉の草堂におります」
「ほ、鎌倉に」
定敬は瑞堂に笑んだ。
女弟子の名はふさ女というらしい。定敬には、少し残念だった。
是非、ふさ女に盲人の行う筆を見せて貰いたかったのだ。自身の屋敷を知られたくないというのと同時に、定敬が愛妾宅を面会の場に択んだのは、その理由もあった。
彼の側室は、当人が好んで一人住まいをしている。
大奥づとめの経歴もあり、和歌も書もあまつさえ剣術でも師範代となるような女丈夫なので、一人気儘に子弟に教え事をしている。
その故に、教場ともなっている此処に瑞堂とふさ女を呼ぶのが相応しいと、定敬は考えたのだった。
「私ももう老いるのみでして。本宅は麹町に残しておりますが、ここ暫くは鎌倉へ足を運んで風雅三昧です」
「なかなかお羨ましい限りですな。私なんぞは、俗世に未練が多過ぎて、とてもとても」
定敬は苦笑した。
「まだまだ、お若うていらっしゃるから。私が先生のお年の頃は、家のことなど忘れきって東奔西走の忘八野郎でございましたよ。酒と色に溺れて、この顔色はさながら酒焼けの名残です」
襖が開いて、萌黄地に胡蝶の袷の琉璃が入って来た。
茶器の音を立てぬ様、すらりと高い腰を折って袂を押さえながら、両人の前に高坏を置き、その上に茶卓ごとそっと湯呑を滑らせる。
丹波立杭(たちぐい)の直作で、桃山時代のものだが、瑞堂がそれと気付いたかどうか。
琉璃の洗練された所作に、瑞堂は見入っていたからだ。
「千代田城西の丸に招じられたか、と思いましたよ。艶麗と称するに相応しい御方様ですな」
瑞堂の言葉を聞いたか聞かなかったかのようにして、定敬は煎茶を飲んだ。
事実、琉璃は定敬の掌中珠玉と言えた。
だが、それをおくびに出すのは厭らしい。
白磁の様な肌膚(はだえ)にうっすらと輝いて見える頬の産毛。白魚よりも柔らかく艶めく手指。武芸で鍛えた伸びやかな肢体は、布(きぬ)越しにも肉(しし)置き豊かで、ふるい付きたくなるような後姿。
瑞堂のような一見干からびた老人にさえ、琉璃の見せる眼差しの奥行き深さは、胸を衝かれるものがあったのだろう。
「いや。もしかしたらこの男、存外老けても枯れてもおらんのかもしれん」
定敬は何食わぬ面付きで、障子の向こうに薄れ行く女の影を追いつつ、考えた。
歓喜仏を欲しがるくらいだ、男の欲求は充分あるに違いない。
「御中臈様であられましたか?」
まだ話題が琉璃のことに及んでいたのに、定敬は束の間気付かず、「ああ、いえ」と間を置いて答えた。
将軍のお手が付こうが付くまいが、御中臈と呼ばれる身分の女性ともなると、元はやはりそれなりの旗本の娘ということになろう。
瑞堂は、琉璃の立居振舞にそう感じたのだろう。
しかしまた、この漢学者とて、柳営の奥の事実など知る由もない。一旦、御中臈となったら一生奉公で、将軍がみまかったとて、家臣に女をくれてやることなど、殆ど有り得べからざる習慣なのである。
例外はあった。
幕府そのものがなくなってしまえば、奥女中の身の振り方は、それこそ前職に縛められることもない。中には今や吉原に籍を置く女中も少なくなかった。
「どうせ、おれもその様にして、仇し女(あだしめ)を手に入れたくちだと思われているだろうな」
定敬は、瑞堂の口ぶりからそう思い至った。
琉璃はまた、一風毛色の変わった経歴を持つ。将軍或いは御台所直属の用人であったという点においては、大奥の女中と同様であるが。
「まあ、好きに想像させておこう」
あまり喋ると此方の正体がばれてしまう。
「入手経路は申せませんな。しかし、彼の女を所望されても、それはこの歓喜仏の様にお譲り致すわけには参りませんよ」
定敬はそっと桐箱を差し出しながら、やんわりと諭した。
「色々と秘密の経路をお持ちなのですな、晴山先生は」
「まあ、それはとまれ。女子を物扱いの様に、とあれにきつく叱咤されそうなので、これ以上は言えません。さながら歓喜天の如く、こわごわ扱っておりますよ。あれでも剣術の名人ですのでね」
と、定敬が軽口を言うと、瑞堂は声もなく笑った。
その姿が、ますます河童のようである。
やがて、雨音の中、乙女の清らかな声がのびのびと響いて来た。
稽古間で御歌の練習が始まったようである。
それを境に、定敬と瑞堂は古玩について一時語り合った。
麻布竜土町のこの家には、骨董が少なくない。湯呑の丹波立杭もそうだが、床の間の軸は服部南郭の書である。一輪挿しは、何気無く八重山吹を差しているが、掌中に収まるほどの赤茶色の漆に彩られた花瓶で、南宋の物ではないか、などと話は尽きぬ。
「あれは、珍しい紫褐色漆瓶ですよ。南宋初期でしょうな」
「となると、南京ですか。内は黒漆で、一見九谷のように見えますがね」
「奥ゆかしい物です」
定敬は、瑞堂の博識ぶりに舌を巻いた。
「鎌倉の庵には、今退屈しのぎに酒盃など集めております。以前は、古本を漁っており、書物庫まで作りました。楓山(ふうざん)文庫には程遠いのですが、桔梗山文庫と名付けまして」
楓山文庫とは、千代田城内の紅葉山にあった東照神君以来の書物蔵のことである。定敬らは、単に「御文庫」と呼んでいたが。
「酒盃と申しますと」
「されば、織部は勿論、可(べく)盃、武蔵野と海内の物から、びいどろ、瑪瑙、犀角、金盃、緑玉、景徳鎮、なんでもござれです。御方様のお名の杯もございますよ」
琉璃杯か、と定敬は思い描いた。唐の西方からもたらされる高杯である。
「一度、お出で下さいませ。金銅仏の御礼と申しますと僭越ですが、見て頂いてお気に召されますれば」
望む物を定敬にくれる、というのである。
定敬は然程飲める口ではない。晩酌に一合もあれば、気分が良く眠れる程度の酒好きなので、言うほど盃に興味はなかった。
だが、出歩くことが好きなので、これは口実としてはいいかもしれない、と考えた。
「是非、御方様もご一緒に」
「まあな。翌月くらいになは」
と、軽い口約束をして、その日は瑞堂を見送った。
晩、琉璃の腰を抱いた定敬は、尻からゆさゆさと当て取った。
「御前様のお顔が見たい」
と、ふいに琉璃が珍しく言うので、花筏の格好になって褥に座るも、琉璃は謎めいた微笑を浮かべつつ、唇も吸って来ない。
やがて、二丁だての相舐りの果てに徒らに動きながら、乱れ牡丹、きぬかつぎと何やらわけもわからず、これはならじ。
琉璃は暗闇の中で耳まで朱に染めて、むしゃぶりついた。
「……もう、だめ」
と言いながら、反り観音になる琉璃のくびれた胴を撫でながら、定敬は空いた手を掴まれたか己が持って行ったが早いかで、香開(こうがい)をさすり、雛尖(ひなさき)を弄った。
洞庭の月のとろけるが如くとろとろと浮き舟になっている、そこを合わせたまま、そのこころは、
「みどりなる松にかかれる藤なれど おのが頃とぞ花は咲きける」
とは、さすがに冷泉流御歌の師匠である。
が、それも束の間。
「ああ、いや。どうして」
半泣きのようによがる琉璃を立たせて、片脚を抱えた定敬の、二人の交合は勝楽金剛仏に似て。貫入する雄勁がきゅうきゅうと牡丹を散らす。
「どうして、その様にまがまがしいまでに天悦を貪るか」
定敬は胸中の冷めた何処かで、己の言葉が殷々と谺(こだま)するのを聞いた。
それはまた、忽然と寝所の中にやって来た。
あの二つの奇態な視線が静寂を縫って、定敬を見下ろしているのだ。
いや、定敬だけを見ているのではないのかもしれないが。
「誰だか知らんが、覗き見たくば見るがいい」
ゆえに、巻揚櫛のすっかり解けた琉璃の黒髪がおどろに乱れる程に、定敬はまくばい続けた。
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