(四) 
 

 それから翌日も、定敬は瑞堂の草庵に滞在した。
 殆ど物見遊山の気分である。五山を巡り歩くのに一日では足りぬので、もう一日。天気がゆるせば、海浜へ出るもよし。
 「文庫のほうも御覧になって下さい」と、瑞堂が言うので、其方も見てもう二、三日ゆっくり出来よう。
「東京では滅多と食えない鯛の獲れたての造り、山葵漬けもよかろう」
 朝起きると、そんな事を真っ先に考えた。
「私はしがない宮仕えですので、そうゆるりとも出来かねますが、どうぞ御前様はごゆっくりと」
 藤田はやや不満げに、そう呟くのだったが。
 定敬らが出歩くのに、瑞堂も付き従い、日が暮れて戻ってくると、夕餉の仕度が出来ていた。ふさ女と小女の二人が給仕をした。
 何度も思うが、やはり定敬は「本当は、少しくらい視力が残されているのではなかろうか」と、ふさ女を見てしまうのだった。
 晩酌をしながら、男三人は談義に耽った。尤も、藤田は元が口数の少ない上に、うわばみなので只管酒を飲むに徹するだけだ。
「明日は鎌倉宮へ行かれませんか?」
 瑞堂が提案した。
「ええ。まだ、行ったことはありませんからね」
 と、答えつつ、そんな所へおれを誘うなんて、と定敬は内心思った。
 鎌倉宮とは、大塔宮
(おおとうのみや)・護良親王を祀る御社である。
 後醍醐天皇の第一皇子として生まれた親王は、比叡山に入室して二十歳で天台座主となった。
 そののちの経歴は余りに有名、かつ悲愴である。
 討幕の挙兵にしくじった父皇が配流された代わりに還俗し、護良と名乗って楠木正成らとともに戦に臨む。
 この討幕令旨に各地の武士が義挙し、鎌倉幕府は滅亡。親王はこの功によって、兵部卿、征夷大将軍となった。
 しかし、親王に呼応した筈の足利高氏が反旗を翻し、己が将軍の座を望んだため、親王は遂に追い詰められ、鎌倉は東光寺の土牢に幽閉されてしまった。
 そして、建武二年の七月二十三日、残党を集め鎌倉に入った北条時行に敗れた高氏の弟、直義は逃げる際に家臣に親王暗殺命令を命じ、親王は殺害された。
 明治二年となって、主上は建武中興に尽力した親王の為に、東光寺跡に神社を造らせた。 
 これが、鎌倉宮と呼ばれる。
「いわば、南朝の象徴、そして勤皇方に信奉された親王の社へ、逆賊足利氏の系譜を踏襲する徳川親者のおれが行くとは」
 とはいえ、滑川より東は殆ど歩いていないので、散策してもいいだろう。
「護良親王がおられた土牢も残っておるのですよ。御首級もあったとか」
「まさか」
「言伝えでは、南の方という御側室様が御首を提げて、甲州まで落ち延びたと聞き及びます。都留・盛里の石船神社に残されているようですが」
 瑞堂の説では、そうではない。
「随従の者がおったでしょうが、討手をかわすのが漸う、そんな最中にたとい親王の御首とて、重くて持ち歩けは出来まいと。まして、南の方は身重であられたとも」
「では、御首は土牢の中」
「御社の上手の山に御陵がございますれば、そこに埋葬されておりましょう」
 二人の会話に、藤田は全く乗ってこなかった。
 昨晩、髑髏盃で酒を飲まされた事が余程腹に据えかねているのだな、と定敬は解釈した。
 その上話が興に乗ると、瑞堂はどんどん酒を注いでくる。
 然程に強くもない定敬だが、話術につられるのと、手持ち無沙汰でずいずい盃を空けてゆく。
「誰か本当に御陵の中に御首が葬られているとは、知らないのでしょうか」
「さても、言伝えにて」
 瑞堂は、にやっと河童のように笑った。

 定敬はその晩、軽く酩酊状態で床に就いた。
 闇はあやなし夢の花。色こそ見えね香やはかくるる。
 夢の中の琉璃は、髪をすべらかし、その頭から布を被り、長く後ろに曳いたちはやを付けていた。
 長い腿を伸ばし、定敬の片肩に踵を引っかけるので、その形で動くときつくてかなわない。
 激しく締め込み千鳥に快擦するさまに、琉璃は白い喉をのけぞらせ、息も絶え絶えに。
 そうかと思えばあっさり乗りかかって、赫々
(かっかっ)と燃ゆる金勢(こんせい)をやわやわと握り締め、繊指五本握り放しの間断の果てに舐る。喉の奥で鳴らす。
「己が歓喜仏か、その下の愚人か」
 定敬は朦朧となりながら、股間に蠢く女の髪を掴み、引き剥いだ。
「よせ。お前は誰だ?」
 途端に、頭の中に渦巻いていた澱が鼻孔から息となって抜け出た。
 女は面を上げた。
「ふさ女か」
 定敬は、寝間着の前を掻き合わせた。帯はだらりと緩んでいた。見下ろした女の青褪めた顔が、濡れ光っている。障子を通して、うっすらと月の光が差し込んでいた。
「寝所を間違えたか」
 瑞堂の寝間は廊下の突き当たりにあって、この定敬が泊まっている客室とは離れていた。
 離れの客用寝所なのである。間違う筈があろうか。たとい盲女とて、ふさ女は常人と変わらぬ立居振舞をする。
 まして、老人の肌とまだ三十にならない定敬の肌では、触れればその違いがわかる筈だ。
「いえ」
 と、ふさ女は透るか細い声で答えた。
 瞼を伏せたまま、女は定敬の立ち姿を向いていた。
「三河屋でお会いしたしました時より、先生を……」
 見え透いた嘘を吐くなら、もっとましな口説はないのか、と定敬は思った。股座が冷え切ってしまうだに、背筋すらうそ寒い。仮にも漢学者の女弟子というには、余りに不粋な。
「おれに気惚れしたというのか?それとも、声音惚れか?」
 定敬は、突き放すように訊いた。ふさ女は少し肩を震わせた。大きくはだかった胸元から覗く、白い乳房もそれに倣った。
「先生のお声は素晴らしう、謡に鍛錬され、詩を吟じられたお声。それと、まったく物怖じなさらぬ雄渾なお人柄を感じます。女子なら、誰でも聞き惚れいたしましょう」
「世辞はいい」
 己を舐る女に覚えがないと覚ったのは、単純な理由である。指に胼胝がなかったのだ。
 女武芸者である琉璃の手指には、女の柔手ながら竹刀胼胝があった。
「如何に酒に媚薬だの睡眠薬だの仕込もうが、触覚は正直なものだ」
 ということである。
「とまれ、黙って出て行きなさい。瑞堂先生には言わない」
 定敬が冷たく言い放つと、ふさ女は胸元を合わせつつ、頭を垂れた。
「失礼いたします」
 消え入りそうな小声で、ふさ女は挨拶をして出て行った。
 定敬は寝間にこもった女のむっと立ちこめる匂いを追い出そうと、障子を開け放った。
「どういうつもりだ」
 ふさ女の様な、女弟子と言いつつ半囲いの身で、誰か他に恋しい男が出来たとて、自由になるとも考えられない。まして、此処は瑞堂の隠居邸である。
 夜さり、客人の寝間へ這って来るなど大胆不敵。もしかせんでも、夜這いを命じたのは、他でもない瑞堂本人ではなかろうか。
 何の為か。
 高齢の瑞堂では、交接も不如意の為にふさ女は夜毎悶々として、仇枕をかこつ。
 その遣る瀬無さを思い遣って、老人は若い男を妾にあてがってやろうと考えたのか。
 それにしては剣呑な。何も定敬である必要はない。藤田とて、三十頃のこれから男盛り。否、見てくれの精悍さで言えば、定敬など比ではない。
 尤も世の中には、貴人の種を目当てで妾になろうという者もなくはないが。
「警戒するまでもなかったか」
 ふと莫迦らしく思ったのは、瑞堂に対してであった。
 麻布竜土町で瑞堂に琉璃を会わせた時、老人の目底に何となく好色の澱みを見た気がした。
 その故に、琉璃には鎌倉行きのことは黙って出て来た。
 が、反面、雪白の肌膚にあの河童に似た妙な水気たっぷりの老人の体躯がのしかかる図を思いやってみると、気味悪い程に下腹がぞくぞくした。さながら、妖魅に蹂躙される美女とは、歌麿の笑い絵にあったようではないか。
「いや、埒もない」
 と、定敬は浅ましい妄想を切り捨て、障子を閉めた。
 桔梗山の奥から、ヒューヒョーともの寂しい夜の声が聞こえてきた。この季節に、虎鶫が棲み付いているようである。

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