(三)

 鴨川のさざめきが静かに聞こえる。虫の音がしみじみとするものの、日中の暑さが残っていた。刀剣を手入れしている時の斎藤はいつにも増して無口で、しかも一切酒を口にしない。従って、おようは客人と斎藤に茶を淹れて出した。
「どうぞごゆっくり」
 単衣の綸子(りんず)も涼しげに装い艶然と笑むおように、斎藤はうむと生返事だけして、茶にさえ気付かず刀剣を眺めていた。又八は、階下に下がったおようの後ろ髪にでも引かれるように鼻の下を伸ばしていた。
「えろうべっぴんはんでんなぁ。さすがに今をときめく新選組の副長助勤ともなると、お若いのにやりまんなぁ、斎藤先生」
 又八は斎藤の肩を揺すらんばかりに言った。
「しかもええお住いや」
 鴨川畔のこの仮宅は斎藤のものではなく、おようのものである。おようはと言えば、本業は兎も角島原は桔梗屋の芸妓、相生太夫が生業であった。身請けしたわけではないが、故あって度々訪れるのが斎藤だというだけのことである。弁解は面倒なので、又八には好きなように言わせておいた。
 千子村正。
 勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正作の銘が打たれている。派風は美濃鍛法を基礎とするが、様々の流派の影響を受けており、肌の流れた地鉄の組方や白気映り、表裏ともに全く揃った刃文といい、間違い無い。
 茎(なかご)は千子特有のたなご腹であった。
「二代目の物だな」
 斎藤は言った。
「ようお分かりどんな」
 又八は目を丸くした。
「あて推量さ。今時分最も出回っているのは、二代目村正のしかない」
「けど贋物も多うて困ります。ひどいのになると、駄物に自分で村正の銘を打った奴もおますんやわ」
 吉野屋を訪ねて村正を求める者の多くは勤皇家であるという。徳川に禍なす刀剣として知れ渡った村正を是非とも入手し、幕府の者を斬り付けたいという輩に多い。
「わても商売ですよって、差料を如何様にお使いになろうと、その先のことは知りまへん。言うたら商人にとって大事なのは銭(ぜぜ)こにおます」
 と、又八は尤もらしい事を言った。
「とはいえ、幕府に仇するような輩に購われて、もし大事あったればお前の命も只では済むまいと思うが」
 斎藤は、又八を睨んだ。
「へえ。せやからお武家様にはそれぞれ相応しい刀幽霊が憑いておますのや。見合うた刀があれば、それはもうわてらのどうこう言う筋合いやおへん」
「手離したらもう関係ないというのか」
 斎藤は村正を置いた。片頬に皮肉な微笑が浮かんでいた。
「すると、あの言い様では近藤局長に虎徹興里が似つかわしくないという風に聞こえるがな」
「とんでもない。まあ、なんちゅうか、わての本心ではおまへん。わての目が勝手にそう見えた……いうことですわ」
 何が言いたいのかわからないが、近藤が聞いて喜びそうな言葉ではなさそうだ。斎藤は、その話題を打ち切りにした。
「だが、この刀が本当におれに取り憑いていると思うか?」
 すると、又八はえへへと笑った。
「もうあきまへんな。そないな事仰るいうのは、斎藤様がすっかりこいつに魅入られとるからですわ。何も思わなんだら、黙ってわてに突き返さはりますよって。や、その前に村正を一目見たいとは仰いまへんな」
 一本取られたな、と斎藤は思った。またぞろ又八の巧妙な口説に乗っかってしまったという感は否めなかった。
「おれは偏屈でな。徳川にとって不吉なしるしの刀だというが、そう聞くと、そんな迷信など無用だ、村正を佩刀した斎藤一こそ精忠の幕臣なり、と言ってやりたくなるじゃないか」
「やはり思うたとおりのお方どんな」
 又八は言った。どういう意味なのか、斎藤には判らなかった。意地っ張りとでも言いたいのか。
 しかし、「幾らだ」と斎藤が尋ねると、途端に又八は背筋を伸ばした。
「申し上げ難いんですがね」
 又八は兎のような前歯を見せて頭を下げた。五十両という。近藤の興正と同じではないか。いや、銘の価値を考えると悪くは無い値段である。二、三十両の範疇にはならないかと思うのは甘かった。斎藤は、暫し腕組みして考えた。
 池田屋事変の恩賞をもってしても賄えるものではない。もとより備蓄もない素寒貧である。刀にそれ程費やしたら、明日の酒代も困ってしまう。
「まけても四十どんな」
「無理だ」
 斎藤はきっぱり言った。
「目の毒だから、さっさと仕舞ってくれ」
「そうですか。実はこの刀を所望しておられるお方がも一人おられまして」
 又八は嗾けるように言った。それがどうした、と斎藤は温くなった茶を啜った。やはり、酒の方がよかった。
「そのお方は四十なら何とかなりそうや言うてましたが」
「同じ事を局長にでも言えよ」
「あきまへん。近藤様はこないな凶物には興味あらしまへんやろ」
 確かにそうである。近藤には、徳川にとって不吉な刀など論外だ。斎藤は膝を崩して胡坐を掻いた。階下のおようを呼ぶ。
「おれはこれから一杯飲る。親爺臭い顔など見て酒を飲むのは趣向じゃない。帰れ」
 へえ、と又八は何処か心残りを匂わせて立ち上がった。入れ代わりにおようが酒盆を捧げて入って来た。

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