(五)
長い対峙に倦んで、ついに斎藤は諦めた。じっとりと腋から首筋から汗ばんで気持ちが悪い。
「抜かん奴を相手にはせん」
と、呟くと国重を鞘に収め、塀から背を離した。男に半身を見せつつ、歩き出す。すると、小走りに突っ掛ける草履の音がした。男は小倉袴の右足を一歩大きく前に踏み出すや、上体を低くし、右膝を立てながら左足を大きく後ろに伸ばし、地面擦れ擦れに左膝を折ったその奇異な構えから抜刀した。
刀身は、円を描くように斬り下げられた。
斎藤も振り向きざまに抜いていた。打ち下ろされる物量を撥ね返すには、みねの半ば程でなければ耐えれられないのだが、ともすると打ちどころによっては真っ二つに折られることさえある。
「折れる」と、瞬時火花が散った時思ったが、それは免れた。運が良いのか斎藤の腕が確かなのか、それは判らない。しかし、生き延びることこそ剣豪の証とするなら、斎藤はその人である。
男は小柄ゆえに弾かれると斎藤に力負けし、後退った。それでも眼差しには殆ど乱れが無かった。
隙を狙って斎藤が突きを入れると、袂にさっくりと入った。胸先を裂いただけであった。斎藤の腕には、まだ居合を受け止めた衝撃が残っていた。
男の二太刀は浅かった。斎藤にしてみれば、赤子の手を捻るような緩慢さに思えた。ところが、灯りに照らされた男の刀身を見て、斎藤ははっと息を呑んだ。
「この刃文、千子村正」
四角張った造といい、又八に見せて貰った二代村正そのものではなかろうか。
男の白皙からは余裕が消え失せていた。居合を封じられると、凡庸の使い手となるのか、それとも斎藤の方が上手なのか。斎藤の一太刀が小男の袂を引き裂いて、腕に血筋を走らせた。斎藤は刀のことにふと気を取られてしまった。男は遁げ出した。追おうと思えば出来たが、しなかった。既に船着場では山崎が待っているだろう。道草を喰っている暇はない。結局、男達の正体は掴めぬまま大坂へと下った。
大坂では思いの外早く、長州勢の噂が広まっていた。
船場辺りでは京を行き来する商人が、いろいろと風聞を立てる。
「一昨晩から、五、六千人という浪士が天龍寺に立て篭もったらしい」という流言飛語もまことしやかに騒がれている。幾ら何でもその頭数は有り得ない。喧伝によって、その気組みで幕府方を圧倒しようという作戦なのかもしれない。
山崎と斎藤は二人して船宿をあたったり、長州と縁のある商家に探りを入れた。一頻り探索したところで、斎藤はふと思い立ち、山崎と離れて八軒屋へ行った。
吉野屋の玄関を潜ると、すぐに又八の顔が現れた。
「斎藤様、わざわざ来とくんなはったんでっか」
「此方へは公用で来たまでだ」
斎藤は、ぶっきらぼうに言った。
「おぬし、あの村正を四十両で売ったか?」
すると、又八は首を横に振った。「とんでもない。まだ手元におます」
見せてみろと言うと、又八はそそくさと奥に引っ込み、暫くして戻ってきた。やはり先日の物と変わりない村正であった。斎藤は、ぽかんとなった。
「同銘のものか」
そうとしか考えられない。又八に伏見での出来事を話すと、「そういう事もおまんのちゃいますか」と、感心したように答えた。
「それとも斎藤様は、村正恋しさに、似た刀を見てそう思うたんちゃいまっしゃろか。贋作も多いよって」
又八は歯を見せて言った。斎藤は唇の端を曲げた。どうにも又八の口説は斎藤に村正への購買欲を掻き立てようとさせているようにしか思えない。そのくせ値切が悪い。馬鹿にしているのだろうか。
「ところで、差し支えなければ所望の人間というのが、どういう素性の者か教えて欲しい」
「それはちょっと困りまんな」
「名を問うているわけではない」
と、斎藤が言うと、又八はちょっと考えた。
「そうでんな。五十過ぎのお侍はんです。西国訛りがあって」
もういい、と斎藤は遮った。西国訛りがあって、そうやすやすと何十両という金を出せるなど、長州の人間としか考えられない。
それにしても、本当におれは村正に取り憑かれているのではないか、と斎藤は思った。
六月二十九日になり、将軍後見職の一橋慶喜より、長州へ退京勧告が出された。慶喜は一度も説得せずに討伐することは、人事を尽くしたことにはならず、また禁闕にて戦端をひらくことは畏れ多いとしての判断であった。まず、目付を伏見の長州藩邸へ派遣して福原越後を奉行所に召喚させ、勅命の内容と武装解除、つまり一旦は兵を退けと告げた。
ところが、会津藩の見解は異なっていた。直ちに政敵を討たねばならぬという気風が高まっており、一橋侯の遣り方は手ぬるいと、藩内では喧々囂々の有様であった。これには容保も弱った。
七月一日、福原越後は慶喜に京都残留を嘆願する書を提出した。慶喜は、表向き即時に却下した。猶予をもって天龍寺の兵を撤退させるようにと言った。
だが、三日になっても長州勢は相変わらず、京に駐留していた。
軍内で意見が分裂しているというのである。つまりは市中に滞在していることを口実に、出て行く気配は微塵も無い。揉めているという素振りの芝居である、と幕府方の誰もが感じていた。
四日、六日と続けざまに三度目の勧告を行った。やはり無しの礫である。
京の幕府方は真っ二つに分かれんという危機にあった。勧告という柔策を用い続ける一橋慶喜には、本当は長州を斥ける意志は無いのではなかろうか。慶喜の実兄は因幡・備前藩主であり、長州寄りでもある。その実兄と内通して、そのような因循の態度をとるのでは、と会津藩では囁かれた。噂は噂としても、容保も慶喜の優柔不断をかこち、尾張の実兄に手紙を送ったほどである。
長州の再三による勧告無視とは、実は幕府方の内部分裂をも狙っていたのではなかろうか。
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