(十) 残照

 空が茜に染まっていた。
 殷々と響く入相の鐘声は、壬生寺のものである。
 以八郎は考え事をしながら屯所に向かっていた。褒賞金で書物を購いに河原町まで出た帰りである。残暑はまだ露地の間から立ち上っている。
 永倉は近藤らとともに隊士募集の為、江戸へと発った。昨日のことだった。
 戻ってくるまで二ヶ月近くは掛かるらしい。光縁寺を過ぎたところで、以八郎は近付いてくる人影に気付いた。 逆光ゆえに初めは誰とは判らなかった。
 だが、数間のところまで来て、それが斎藤一と判った時、以八郎は立ち止まった。
「済まんが覚悟しろ」
 斎藤は抜刀した。
「だが、あんたも抜いて構わん」
「どういう事ですか」
 と、以八郎は緊張を隠さず声を張った。
「おれの意思ではなく命令だ」
 斎藤は冷ややかに応じたのみである。以八郎は、夕陽が眩しかった。
「近藤局長か、それとも土方さんですか?」
「そいつは言えねえよ」
 以八郎は愕然となった。
 まさかと思った。建白書の件は首魁の永倉ともどもお手打ちで終わったのではなかったのか。それともまだ、天龍寺のことが蒸し返されたのか。
「私を斬ろうというのでしたら冥土の土産に教えて下さい。誰の命令なのですか?私が何を?」
 以八郎は書籍を足元に置き、刀の柄に右手を掛けた。すると、斎藤は少し考えてから、
「理由はあんたが知っているだろう」
 真顔で答えた。
「あんたは会津の人間じゃない」
 以八郎は息を呑んだ。
「本籍を偽ったり、母方のほうを言うことはよくありますよ」
「のみならずだ。あんた長州の間者だ。それだけで新選組では万死に値する」
 斎藤は、きっぱりと言った。
「天龍寺で爺さんを逃がしたからじゃない。とうの昔からあんたが怪しいことは判っていた。うちの監察方は節穴じゃあない。東山の清閑寺で長州の人間と会っていただろう」
 以八郎は返す言葉もない。
 否定も肯定も出来ずに、呆然と聞くしかなかった。
 斎藤の言葉は目前にいる斎藤一という男のものではなく、以八郎の始末を命じた者の言葉であろうと思った。
「何故あんたを楠や御倉のようにすぐに殺さなかったか。……多少の利用価値を見込めたからだ。それもあんたが間者として優秀だからではないぜ。いつか桂と接触する機会を、おれ達は狙っていた」
「いつか?」
 以八郎は覚えず聞き返していた。
「だが、桂はもうとうに京を離れている。いずれ巻き返しに戻って来るだろうがな」
 斎藤は言った。
 以八郎は、目の前が暗闇に包まれたように視界が狭まるのを感じた。このまま意識が遠退くままに斬られても仕方ない、と一瞬思った。
 だが、そういう斎藤こそ何者か。黒谷から出て来たことを以八郎に指摘された時の、あの驚いた顔は尋常ではなかった。
「斎藤さん」
 以八郎は、斎藤の顔を見ようとした。やはり逆光で黒い。
「あなたこそ間者ではないのですか?会津様の」
 すると、
「さあ、どうだろう」
 斎藤はふんと鼻で笑った。
「だとすると、おれにあんたを斬らせようとなさるのは会津中将様ということになる。近藤、土方など及びもつかない。一国の城主様のご命令を無視するわけにはいかぬな」
 斎藤は冗舌であった。
 普段ろくすっぽ幹部同士でも口をきかぬ男だが、やはり永倉同様武士の弁才は持っていたのだ。
「会津様が何ゆえ私のような素浪人あがりを」
「たわけ!」
 と、斎藤は大喝した。
 憤怒の形相は以八郎には見えなかったが、その声は別人の物かと思えた。
「会津藩浪人と謀るとは片腹痛いわ。会津藩士と名乗る者は皆、家老より足軽、徒士に至るまで土津公(はにつこう)の律せられた『家訓』を物心つくより死ぬまで日々諳んじている。容保様がその最たる御方。幕府に一度事あらば、身命を賭して大樹公を護らんと、家臣団の再三の反対をおして京まで参られた。あんたに会津の人間を名乗る資格などない」
 斎藤の恫喝に、以八郎は芯から震えた。
「手前の主義主張も持たず、決まった主取りをしようという志もなく、ただ時流に乗じて長州の人間と誼を通じ、我々を謀って仲間を殺し、己だけがのうのうと生きてきたのではないのか」
 まさしく、斎藤の指摘する通りと言えた。
 口に糊するために寺侍になり、吉田の描く思想に自ら乗じて国事に加わっている気になり、池田屋ではその仲間を殺した。せめてあの時、己も自刃しておけばよかったのだ。
 だが、さらには天龍寺の焼打の時も老人を逃がした言い訳などし、見も知らぬ桂に縋ろうと必死になった。
 ただ「生きたい」と念じていたのではない。
 自分は目の前の何かから「逃げたい」と思っていただけではないのだろうか。
 斎藤は国重を鞘に収めた。そして、一言。
「おれは斬れと言われれば何者であろうと斬る。ただし、斬るに値しないとあらば、仕損じたと報告する」
 以八郎は夕暮に取り残された。
 それから一刻もせぬうちに、八木邸の一室で以八郎の自害し果てた姿が、平隊士によって発見された。
 筵に被われた遺骸が壬生寺まで運ばれて行くのを、斎藤は横目で一瞥しただけであった。
 前川邸の土方の部屋に引き入れられると、斎藤は書き物をしている土方に向かって軽く座礼した。
「やはりか」
「長州の間者でした」
 斎藤は、短く答えた。
 土方は筆の動きを止め、色白の顔を上げた。
 「手間取らせたな」と、振り返る。
「永倉の建白書の件は、青天の霹靂だった。新八のやつが、まさか本気であそこまでやるとは思わなんだ。だが、結果的にはよしとしよう。葛山をいぶり出す事が出来たんだからな」
 土方は苦笑を押し上げた。
「しかし珍しい。お前が端から他人を疑ってかかるなど」
 土方は、斎藤がこっそり夜半に自室を訪ね、葛山が間者ではないかと申し出たことを思い出した。
 まるで、近所の犬が子供でも産んだみたいな言い方で、斎藤はそう告げた。
 斎藤は、やや俯き加減のまま言った。
「いえ、武田殿が訝っていたのです。あれはどう考えても出雲訛のようだが、局長が否定しておられぬのだからそういうことにしておこうと」
 副長助勤の一人、軍学者でもある武田観柳斎は、出雲松江の分藩・母里の出身である。近頃は近藤にべったりだという。
「ふん、武田のお調子者め」
 土方は笑った。行灯の灯りが揺らめいた。
 前川邸を出ると、斎藤は壬生寺の門前まで歩き、そこで立ち止まった。
 境内に入ろうとして、遠く誦経の声が聞こえてきたからである。
 いずれにしても葛山は生かしておけぬ、と斎藤は考えた。
 斎藤が黒谷本陣に出入していることは、近藤や土方に知れてはならない。いや、もしかしたら土方は覚っているやもしれないが。斎藤が松平肥後守容保の直命で新選組の監視役を担っているという事を。
「黙しておれの弱味に付け込むか、利用出来る才覚のある男であれば死なずに済んだものを」
 と、斎藤は以八郎を思った。
 二股膏薬のようなあの調子では、いずれ吹聴されてしまう。そうなれば新選組はおろか、会津藩にまでも危険が及びかねない。
 武士にあるまじき信念のなさ。まさに「士道不覚悟」である。自刃という舞台を残してやったのが、斎藤のせめてもの気心であった。
「あんちゃ、むずせえな(兄さんお気の毒に)。もっと早くに死んでりゃよかったのさ」
 死んでりゃ、と斎藤は口中で繰り返した。
 そして門前で合掌し、深く一礼すると、懐手に大股で歩き出した。これから島原に繰り出す。これが飲まずにやっていられるか。

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