(九) 直訴

 黒谷こと金戒光明寺は、京都守護職を掌る会津藩の本陣である。
 八月も終わろうとする日の午後、残暑の洛中から外れたこの地を訪ったのは、先日『狐火』で会合した六名の者であった。
 塔頭のうちの蓮池院の庫裏に案内されためいめいは、下座に坐ってその時を待った。
 上座に置かれた錦の座布団と脇息は、やがて現れるだろう松平容保の存在を示していた。
 永倉の広い背中を見詰めながら、以八郎は胸中で嘆息を吐いた。
「畏れ多い。何でこんなところまで来てしまったのだろう」
 『狐火』で語られた永倉の話には感じるところがあった。
 しかし、現実に永倉が会津様に言上して近藤の増長振りを諭して頂こうと言ったのには面食らった。
 だが、
「これで効無き時は、やむを得ぬ。潮時だ。我々も出て行く頃だ。もし近藤さんが考えを改めるというのなら、此方も了解してこのまま新選組を盛り立てて行こうと思う」
 以八郎は成る程、と思った。
 交渉決裂の時は、新選組を出て行く口実となる。渡りに舟ではないか。
 永倉の行動は義侠心から出たものかもしれないが、以八郎はこれを利用する他は無いと考えた。
 それをあてにして、以八郎は嬉々として応じた。
「それはよい提案です。私が談判状を書きまする」
 そして、更に周囲を見回してから永倉に耳打ちした。
「ところで斎藤さんの事なのですが」
 以八郎は、斎藤が近藤の間者ではあるまいかと言った。
 すると、永倉は呵々大笑した。
「そんなわけはない。斎藤君もおれの意見には賛じてくれている。大体、あの男に間者のような器用な真似が出来ると思うか?」
 そう言い切られてしまうと、以八郎は反駁の余地を失ってしまった。
 だが、以八郎は己のような人間でも間者は間者なのだとも言えず、結局この日を迎えてしまった。
 以八郎は永倉の左に座している斎藤の後姿を凝視した。その斎藤が身じろぎ、以八郎は思わず視線を逸らせた。
 間も無く小姓を従えた松平容保が上座に通った。六人はほぼ同時に、深々と畳に額づく。
「面を上げよ」
 凛とした声に許され、以八郎は松平容保の姿を見た。
 畏敬の念を抱くと同時に、会津肥後守の発する気品に圧倒された。
 容保は、あらためて池田屋討入そして禁門の変の新選組の働きを労い、その上で永倉の直上した建白書を広げ、事の次第を問うた。
 前口上を述べた永倉は、
「さりながら、肥後守様おじきじきの御裁量を頂戴するのはまことに不躾の極みと知りつつ、申し上げまする」
 と、先日一同で話したような内容を、殊更に虚飾はせず流々と語る。
 容保は静かに聞いていたが、「そのほう達の申すところ、実に尤もである」と、あっさりと答えた。
 ところが、容保の次の言葉は、誰もが絶句せざるを得ないものであった。
「とはいえ、新選組はいったい近藤をはじめ、そのほう達が話し合うて結成した集まりである、と余は聞いておる。結成以来ともに志を同じうしてきた永倉、そのほう達が脱退したとあっては新選組そのものの存続は危うい。然るにそれも、新選組を預る余の不徳の致すところとなろうな」
 これには弁士、永倉もまるで矢を射られた水鳥のように固くなってしまった。
 新選組の瓦解を招けば当然、御預である会津藩の信用も落ち、尊攘派の誹りを受け、つけ入られるに相違ない。
 のみならず、朝幕ともに容保の器量を疑いかねない。
「いえ肥後守様。これなる一同、御前様に不明の誹りを擦り付ける不届きを申し上げるに参じたつもりはございません」
 永倉は、どっと汗を顔面一帯に噴いていた。
「うむ。然らば今一度とくと勘考致せよ。すぐにも近藤を呼び寄せ、膝つき合せて気心を通わせてはどうか。近藤が以後、言動を革むると誓うたならば、そのほう達も許してやっては如何であろうか」
 提案通り、すぐにも近藤が呼び出された。
 以八郎は、再び容保に会見するまでの一刻余、この交渉が決裂してくれることを祈った。
 だが、容保に説諭され、六人に改めて対面した近藤の言は、以八郎に失意を抱かせた。
「各々がたの御意見まことに胸に堪える諫言とし、以後肝に銘じておこうとここに誓う所存にござる。拙者、武辺者にて色々至らぬことも多く申し訳ない」
 以八郎は、近藤が頭を下げる姿に面食らった。
「なれど今一度、浪士組を結成した頃に立ち戻り、会津様、公方様そして我国の為に命を賭して御奉公したき所存、各々がたもともに力を合わせんことを宜しくお願いいたしまする」
 そこまで言われると、さしもの永倉も「近藤さん、頭を上げて下さい」と言わざるを得ない。
 以八郎は消沈した。和解が成立してしまったからである。
 もう、その後の対応などどうでもよくなってしまった。一件が手打ちになったあと、六名と近藤に御膳が振舞われた。
 永倉などすっかり上機嫌になり、近藤とさしつさされつ酒盃を交わしている。
「いったい午(ひる)までの出来事は何だったのであろう」
 と、以八郎はやり場の無い憤りを抱えてしまった。
 結局、永倉は近藤に頭を下げて欲しかっただけなのか。新選組のあるべき姿を深慮しているような格好をして、やはり己の勝手に動いているに過ぎぬと思った。
「ところで肥後守様」
 永倉が唐突に言った。
「ここに会津出身の者がおります」
 以八郎を指して言った。
 以八郎は、狼狽した。容保に招じられ、膝行して朱盃を頂く。
「会津と申しましても、父の代よりの浪人でございまする」
 以八郎はまともに面も上げられぬまま、答えた。
 容保は眉を上げて、柔和な声で言う。
「葛山と申したな。そのほうはあまり訛っておらんのう」
「は。物心つきました頃には諸国を父に従い、浪々としておりましたので」
「余は江戸に生まれ十六まで過したゆえ、お国入りの際、譜代家臣の雑談が何を言うておるのかまるで判らなかったものだ」
 くだけた調子で言い、容保は以八郎を下がらせた。
 末席に戻った以八郎は、首筋に汗が伝うのを感じた。ふと斎藤の方を見遣ると、やはり黙々と盃を傾けるのみであった。

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