(一) 木屋町の椿事
風に混じって咳
(しわぶき)一つ。
懐紙で口元を押さえると、点々と蘇芳色の薄い染みがついたので、陽之助はそれを見詰めた。
「人生行路の難に似たり――か」
詩作の一節が浮かんだ。
が、「後が続かねえな」と思い、懐紙をくしゃくしゃに丸めて投げ棄てた時、大音声がした。頭上からである。
咄嗟に身を引こうとして顔を上げると、旅籠屋の二階から何やら降ってきた。
「お、お」
陽之助は反射的に降って来た物を両腕で受け止めた。
それが、六七歳の子供だったから何としてもと踏ん張ったのか、全くの無意識か陽之助自身にもわかるまい。
「何だ、近頃の京じゃあ人が降ってくるかい」
陽之助は苦笑した。
が、笑っていられるのも束の間で、下腹の辺りが妙に生温かい。両腕を下ろしてみると、子供は転がるように路地に縮こまって下りた。陽之助の袴の真ん中から、子供のしゃがみ込む地面まで水の染みが続いている。
「あッ。この小便垂れ小僧ッ」
陽之助は怒鳴り付けて子供の襟首を掴み、立たせた。
「拾ってやった恩人にこの仕打ちはなかろう」
すると、子供は半泣きになりながら首を横に振った。
「せやけど、出てしもうたもん。おっちゃん怒らんといてな」
「お、おっちゃん」
馬面ゆえに多少年長に見えるとはいえ、流石にこの年まだ二十四の陽之助は、憮然たる心地になった。
「とまれ、袴がこうではまるでおれが粗相をしたみたいで困る。乾かしたいのだ。家を入れてくれ。囲炉裏端に掛けておきゃ、小半刻で何とかなるだろう」
陽之助が言うと、子供の丸い顔が青褪めた。
「えッ。あかん、それは」
「何ぞ不都合でもあるか?おぬし、命の恩人を小ばかにする気か、男のくせに」
男のくせにと言われて、少年もむっとくるものがあったらしい。だが、
「あかん言うたらあかん」
ははあ、と陽之助は思った。どうで夫婦喧嘩か、たちの悪い客が暴れているのに違いない。
面倒にかかわるのは嫌いだが、それよりも袴無しで歩くのはみっともない。何かあったら右から左へ受け流しておけばいいさ、と考えて陽之助はずかずかと旅籠屋に入って行った。
なかは幽霊宿の如くがらんとしている。帳台の奥も灯が消えたようである。
「もし――」
声を張り上げた途端、どすどすと階段を下りてくる音がした。今にも前へすっ転びそうに赤い蹴出しも、目が潰れそうに白い脛の露わな若い女だった。その後を追って、大男が下りて来る。
それだけで説明を要しない状況が把握出来た。「あかん」の理由はこれか。
「お客様」
女は裾の乱れを直しながら、息を詰めて上がり框に膝を揃えた。
「あ。泊まりたいんだが」
思わず、陽之助は口走った。
「命懸けの呼び込みとは恐れ入ったよ。しかし、子供がびびって小水漏らすような客寄せは感心せんぜ」
陽之助の袴の染みを見て、女将は瞠目した。
「あッ。おおきにすんまへん。申し訳ありませんッ」
若い女将は陽之助を中へ促した。背後の男は二人になっていた。青々と頭を剃り上げた着流しの男と、もう一人は月代を伸ばした百日鬘
(かづら)。いずれも一癖ありそうな面構え。
「ふうん。ほんまに客け?」
「新しい情夫
(まぶ)ちゃうか」
男達が聞こえよがしに囁き合ったのを、女将はきっと睨み据えた。
「この通り、お客様もお見えですよって、お帰り下さい」
「ふん。どないした。一体何処からそないな大きな口がきけよんのや」
丸坊主の男がせせら笑った。
百日鬘のほうは、粘着くような目で陽之助の風体を品定めしていた。
「ふうん」
陽之助の背丈は六尺近いが痩身で、顔立ちは彫りが深くやや浅黒く、眉と目の間が狭い。
中高の、馬でなければ鹿の面に似ているが、これはどっちもだというと験が悪いので、単なる面長だと称している。
または、異人の趣がある美男子ともいえた。
その所為か、黒繻子の紋付羽織に仙台袴という身形のよさが気障に映る。
男二人は耳打ちし合うと、丸坊主が言った。
「……今日のところは勘弁しといたるがな。そこの色男に免じてな。せいぜいようさん宿代払うて貰うたらええがな、ヒッヒッヒ」
引き笑いを残して、男達は暖簾を潜って去って行った。
少年が様子を窺いながらこっそり戻って来るのと入れ替わりに、陽之助は表へ出た。
男達は、まだ警戒しながら此方を見返っている。陽之助は、それに向かって叫んだ。
「げっらうどひあ、ゆうぃるかむいぇすたでい」
「わッ、あいつやっぱ異人の子やで」
男達は慌てて逃げ出した。
「異人で結構。これだから攘夷主義が横行する。ああいう手合いにまともにかかわるだけ、阿呆らしい――ん?」
陽之助の袖をつんつんと引く手があった。少年が陽之助を見上げた。
「何て言うて追い払うたん?」
「英国の言葉だ。"おとといきやがれ"って言ったのさ」
「へえ、何か格好ええな」
「感心している場合じゃないぞ。おぬしには、この袴を洗って乾かす義務が残っている」
少年は陽之助に言われて渋々頷いた。
そういうわけでこの晩、行きがかり上陽之助は木屋町筋の寂れた旅籠・平野屋に泊まることになってしまった。
慶応三年十月十五日のことである。
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