(十) 鷙鳥は群れず
十一月の声を聞いた途端に、冷え込みが増した。
東山三十六峰から吹く颪の強さ。
高瀬川の流れも身を切るような清冽。しかし、昼になるとぽかぽかと朱鷺色の陽光が差してきた。
「坂本さん、お早いお帰りですな」
陽之助はそう言って、近江屋新助宅を訪ねた。土蔵上には、珍しく坂本一人だった。
「皆、あしが戻って来たちゅうんを知らんきに。ま、黙っておいてもじきに人は集まるだろうが」
それはそれで警戒すべきではなかろうか、と陽之助は思った。何しろ、表向きは土佐の後藤がということになっているが、「大政奉還」の献策を坂本がしたということは周知の事実である。
陽之助の胡乱げな顔付きを見て、坂本は目を細めた。火鉢に手をかざす。
「ええべべ着ちょる。男振りが一層上るの。大坂は引き払ったのか?」
「いえ。行ったり来たりです。これは、その、作之助に頼んでおいたら、べらぼうに高いのをしつらえられてしまいました。お蔭で懐具合が寒くて、夜遊び出来ません」
「へえ。いっそ洋服に短靴にしちゃどうだ」
「目立ちますよ。高下駄でも億劫なのに」
そうは言っても、この男が目立つのは嫌いでないことは、坂本も知っている。己の容貌に自信があるのだ。
一頻り、四方山話が終わると、坂本の口から本題が出た。
「越前じゃが」
「あちらはもう雪景色でしょうな」
「おう。どうやら三岡八郎は、力を貸してくれるちゅうことだ。明日、岩倉村へ出向いて辞令を記して貰うよう、頼むきに」
陽之助について来い、ということなのだ。
「越前は閉門中の男にそんな召状が下るとなると、いい顔はせんでしょう」
三岡八郎は、横井小楠の思想に触発されて、経済調査を行い、財政に窮した藩の建て直しに力を振るった。
その点では、紀州における伊達宗広と同じ貢献をした人物である。
藩主・松平慶永(春嶽)が幕府政事総裁職に就任すると、側用人として長州征伐不支持と薩摩、長州など雄藩との提携を主張。しかし、藩論の支持を得られず蟄居謹慎を命じられたのだった。
三岡は、城下の自宅に居り、役人同座で坂本と面談し、大いに経済などについて語り合ったという。
岩倉具視は坂本に会うと、すぐさま辞令を書き、越前福井藩の京都屋敷へ送った。
洛北・岩倉村からの帰りである。陽之助は訊いた。
「坂本さん」
「何じゃいの」
「いつだったか、社中を解散するとかいう話になりましたね」
「ほうじゃったのう」
海援隊がまだ亀山社中だった頃、資金繰りに困って解散の一歩手前まで追い詰められた。
陽之助は反対した。無論、解散しようが坂本にくっついて行くつもりではあったが。
亀山社中は、会社という以前に政治結社的意味合いを持って構成された団体だ。名もない力もない若者が、一個人で志士活動を展開するには限界がある。
傲岸不遜の自信の塊の様な陽之助でさえ、そう考えていた。
「おんしの色香でお慶から金を借りなんだら、解散しちょったかの」
坂本は、冗談ぽく言った。
「それはともかく――まさか、その時のようにまた海援隊を解散しようなどと、思っておられませんか?」
陽之助は言葉も鋭く突っ込んだ。坂本は、うーんと唸った。
「いずれ、皆が自立出来るようになったら、そうなるかもしれんの。いずれ遠い先にな」
「困ります」
陽之助は、あからさまに怒気を込めて言った。
「おれは一生、坂本さんについて行くつもりですから」
「棺桶には入ってこんでくれや。ありゃ狭過ぎる。男同士で抱き合うちゅうのは見苦しい。おまんは背も高いし嵩張る」
「冗談ではありませんよ」
すると、坂本は立ち止まった。「しかしよ、陽之助」と、改まって呼び掛ける。
「おんしは己一人で生きて行ける男ぞ。たった今からでもな」
それはそうかもしれない。十五の頃からまさに而立して、約十年になんなんとす。
「いつの日か争ひ得ん鵬翼の生ずるを 一挙に雲を排して九天に翔けん」
と詩作して志高く生きてきたつもりである。
「おんしの背中にはもう生えちょる。鷙鳥は群れず、自ら其志を行うを得る」
坂本は嘯いた。
陽之助は、不意に吐胸をつかれた心地になった。
「大体な、こないだ世界の海援隊にするちゅう話をしたばっかりだろう。おんしらをそれに奔走させちょる。まさかほっぽり出しては、解散せんよ」
坂本は笑った。
「ならいいのですが」
陽之助は視線を傾けて、答えた。
「――ところで、加助が言っていた件はどうなった?」
「ああ、一万両の出資ですか。少々難しいですよ」
商談に戻った。
沢屋旅館の主人である加助から、海援隊に仙台藩の産物を一手に引き受けてくれという話が出ていた。まず、物産購入の為に一万両を出して欲しいという申し出なのだ。
「ちゅうことは、作太郎の首尾待ちじゃのう。作め、早う帰って来んかな」
坂本は独りごちるように、言った。
紀州藩から賠償金を受け取れば、直ちに一万両が用意出来る。仙台との商いは今後も有益な結び付きとなるだろう。
しかし、そのことよりも陽之助にとっては、坂本の言った「おんしは今直ぐにでも己一人で生きて行ける男ぞ」という言葉が気に掛かった。
近江屋まで坂本を送り届けた時、
「お気を付け下さい」
陽之助はいつになく真顔で言った。
新選組や見廻組、親藩の兵らは殺気立っている。幕府に対する謀反人と思しき人間を見付ければ、容赦なく斬る。天誅騒ぎの頃に戻ったかのように、洛中では暗殺が横行していた。
「なに。いざとなったら向かいの藩邸に走るきに。おんしこそ、死ぬなや」
あっさりそう言って、戸が閉まった。確かに近江屋の道を隔てた斜向かいに土佐藩邸がある。
今や脱藩を赦され、藩支配の海援隊隊長ゆえに、坂本は守られて然るべき立場にあった。
「坂本さんは、おれを独立の士と評価している。だが、言い換えれば坂本さんにとっては、最早おれは然程必要もなく、おれにとっても坂本さんのみを必要とはしない」
俄然、突放されたような気がした。
嬉しくもあり、一抹の淋しさは感じる。
陽之助は一瞬、踵を返しかけた。もう一度、坂本にその真意を問い詰めようかと思った。
だが。
「いや、おれらしくもない」
やめた。帰って寝酒でも飲もう。身体が芯から冷えている。
坂本から陽之助宛に、改まって「世界の話」などしたい、という文が届いたのは、翌日のことだった。
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