(十一) いろはにこんぺいと

 男と女がそう馴初めるには、何らかの切欠が要る。
 しかし、昨晩は何の前触れもなかった。
 二階に布団を敷きに来たやえと、外出から戻って来た陽之助が階段のところで鉢合わせた。
「御寝みなさいませ」
 と、愛想笑いでそそくさと降りようとしたやえに向かって、
「ああ、寝るぞ」
 不愛想に答えて、やえの身体を軽々と抱っこした。そのまま客間に入り、襖をきっちり閉めてあとは誰も知らない。
 陽之助が朝目覚めて障子を透かして見ると、外は寒かった。
 いつものように、やえが朝餉の膳を運んで来た。膳を覗き込んで、陽之助はほっとした。
 京風の白味噌の御汁に里芋の煮物、香の物である。
 わびしさに変わり映えしないのが、安心した。
「鯛(ぐじ)でもついてたら、おれは即ち逃げ出すぜ」
 一晩寝たからといって、破格の待遇になるような女は、恐ろしい。
「何を言わはりますのん。此処は三百両どころか、まともに魚代も払えへん貧乏旅籠どす。せやし、構わんと仰ったんは陸奥様のほうではあらしまへんか」
 やえは、にっこり笑った。
「そうだった」
 かといって、汁物を置くやえのうなじには、仄かに赤味が差しているようにも見えた。
 ゆうべ、陽之助のなすがままに帯を解かれるやえは、ぱっちりした双眸をずっと開いていた。
 言葉は発しないが、恰もそれが、
「決してうちは誰とでもこないなるのとちゃいますえ」
 という表情にとれた。
 口にせぬのが尚小憎らしい。軽い悪戯心のつもりだったが、陽之助も男である。余裕ある顔付きながら、早鐘のように胸の鼓動を打たせているやえを、本気で抱いてみたくなったのだ。
「小憎らしいところが可愛い女」
 男などあてにしていない。そのくせ、男なしでは生きていけないのに違いない。
「陸奥様、ええ匂いがしやはる」
 やえはそう言って、陽之助の喉仏に頬をつけた。ピストルの油の匂いが移っているのだろう。
 陽之助は、やえの尖った顎を引き寄せて、はたと思い止まった。普段お構いなしに遊里に出入りしているくせに、急に己が肺病持ちというのを思い出した。
 黙っていると、やえの方が陽之助の唇を吸ってきた。
 陽之助は貪るように舌を使った。
「ええ匂い」
 悪い気はしない。
「……悪い男の匂いがする」
「どっちなんだよ」
 やえはくすくす笑った。
「女にとっては悪い男。けど、ただのええ男にはええ匂いはしいひんの」
「ふうん」
 激しい交接のあとで「そんなにいい匂いだろうか?」と、己の袷を嗅いでみたが、年相応に男臭いだけだった。
「せやかて、なんぼ色男かて臭い人は嫌ですわ」
「床あしらいが拙いのよりもか?」
 陽之助はずけずけと言った。余程か己に自信があるので、言えるのだ。
「ええ。不細工は行灯も消して目ぇ瞑ったらわからしまへん。けど、匂いは目ぇつむってもわかる。まさか、鼻つまんでねんねこ出来しまへんやろ」
 女の理屈はすごい。
 ともすれば、漢籍よりも奥が深い事もある。ゆえに、陽之助は女遊びをやめられない。
 やえには端からそう見られていたのだと思うと、却って照れ臭くなった。

 十三日の夕刻、加納宗七が陽之助を訪ねてきた。
「国許では、奥祐筆の田中善蔵と堀田遜が殺されたそうです」
 紀州藩の改革派連中の筆頭に上げられていた男が、田中である。元々は儒学者であった。改革派として藩士の給与改革に乗り出したが、十二日の登城中、反対派に殺害されたという。
「相変わらずだな」
 と、陽之助は金平糖をかじりながら言った。傍らに荻生徂徠の記した『弁道』が開かれていた。
 加納宗七は紀州藩御用達の材木商有本屋の出で、坂本の知己でもある。
 そうでなければ、海援隊は勿論陽之助との交流もなかった。宗七のほうは、陽之助の父・伊達宗広からの付き合いがあり、海援隊にかかわる以前から陽之助を知っていた。
「御父上にはひとかたならに御厚情を頂戴しました。水野土佐守派が藩内を取り仕切って以後は、我々材木株仲間も窮屈な思いをしております」
 御仕入れの業務も以前ほどはかばかしくなく、紀州の財政も再び逼迫していると言った。
 宗七としては、海援隊という商社を通じて業績を上げたいというのが第一だったが、坂本に会ってみて、その人物に強く惹かれた。懐も深く、商才もある坂本に心酔した。
 そういう意味で、陽之助と宗七は同郷のよしみという結び付き以上に、坂本を敬愛する同志といえた。
「ぼっちゃん」
 と、宗七は陽之助を呼ぶ。
 いやだと言っても、「御奉行様の御子息様を商人の私が呼び捨てに出来ますかいな」と言って聞かないので、陽之助は妥協した。
「ぼっちゃん。それだけじゃないんです。公用方の三浦休太郎が大垣藩と連絡を取り、兵に召集をかけとるようです」
「三浦が」
 陽之助は奥歯で金平糖を噛み砕いた。
「あの男、今長崎におるんと違うのか?」
「八軒屋で聞いた話です。新地の廓で同業が見た言うてます」
「ふうん。船宿の情報なら間違いないか。てことは、作太郎も直に京へ戻ってくるか」
 いろは丸事件解決の交渉人として、坂本の代理に長崎へ戻った中島作太郎のことである。
 上手くいったようだな、と陽之助は思った。
「余裕をかましてやがる、三浦の奴」
 八万両取られて何ともないのなら、もっとふっかけておけばよかったと笑った。
「いろは丸の一件は長崎のみならず、京坂でも江戸でも知れてますからなあ。それだけの痛手を被ってもさすがに御三家は汗一つかかん、という態度を見せたいんでしょう」
 宗七は生真面目に答えた。
「そのうえ、遠近で兵を掻き集めて、何ぞ目算でもあるのか」
「へえ。そこまでは」
「おぬしに考えろたあ言わんよ。時が時だけにな。坂本さんの周りをおかしな犬どもが嗅ぎまわってないか、気をつけてくれ」
「勿論で」
 宗七はそう言って、帰って行った。
 客が帰ると、どたどたと裸足で源太が駆けてきた。
「金平糖ほしい、ぼっちゃん」
 陽之助は俄かにむっと眉を顰めた。源太が見せた掌を見詰めつつ、
「人の話を立ち聞きするのはいかん。行儀悪い奴にやる菓子などない」
 子供相手に大人気ないのである。
「ほな、座って聞いとったしええやろ」
「屁理屈こねやがって」
 と言ってから、陽之助は可笑しくなった。己もこれ以上に憎たらしい子供だったに違いない。否、子供は正直ゆえに憎たらしいが、毒はない。
「いいよ、やるよ」
 陽之助は、金平糖を源太の手に幾粒か載せた。
「高直(こうじき)の物だ。母上にもあげておいで」
 凶事が起こったのは、その二日後である。

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