(十二) 星墜つ

 雨夜。
 陽之助が駆け足の高下駄で泥濘を蹴って近江屋に到着した時、母屋の周りには既に土佐藩士がまどっていた。海援隊は、まだ誰もいない。
「土蔵ではないのか?」
 陽之助は反射的に訊いた。
「奥二階」
 と、誰かが悲痛な声で指をさすと、大男に担がれた中岡慎太郎が襤褸切れのようになった姿で階下へおろされているのが目に入った。皮一枚残った右腕が、根本から袖ごとぶらぶら揺れている。
「まだ中岡さんは息がある。はよう、はよう運べや」
 藩士らの怒鳴り声がする。
 海援隊の副長格に等しい陽之助が現場に入ると、皆がそっと退いた。陽之助は茫然としていて、傍に加納宗七が来ていることにも気付かなかった。
「ぼっちゃん――あれほど、ぼっちゃんが言うてくれたのに私は」
 宗七は嗚咽した。膝を折り、陽之助の袴にしがみ付く。
 もとより、海援隊士ではない宗七が責めを負う必要はない。
 掛軸に散った飛沫はどす黒い緋色。穴の開いた天井、天袋、行灯、角火鉢、そして坂本の遺骸、と順繰りに目を遣る。
 逃れようのない仕置きである。
 如何に千葉道場で修業を積んだ坂本でも、これでは防ぎ切れなかっただろう。
 角火鉢に向かい合って座る坂本と中岡の姿が浮かぶ。
 下手人は、挨拶もそこそこに初太刀で無情に中岡の後頭部に斬り付けた。もう一人いる。そのもう一人が坂本に斬りかかったようだ。
 陽之助は戦慄した。
 目の前に己の師の亡骸が無慙な姿で横たえられているというのに、冷静に状況判断をしてしまう己の性質にぞっとなった。
 同時に「おれなら」と考えてしまう。
 坂本が、自己を過信していたというのではない。
 防ぎ切れまいとはいえ、ピストルを持っていたら。そして、いつものように土蔵であれば。
 否、何故二階なのに窓を開けて屋根伝いに逃げなかった。
 顔見知りの来客であろうと、心構えはあったに違いない。
 坂本には屡迂闊なところがあって、例の寺田屋の斬り込みでも九死に一生を得ている。
 だが、「油断」という言葉では言い切れない何かが、奥二階の現場に渦巻いているような気がした。
 陽之助は、母屋の外へ出た。
 霧のような雨が、いまだし降り注いでいた。こんな夜は芯から冷える。
「坂本さん」
 不意に気分が悪くなって、吐いた。酒の臭いが逆流した。
「……さ、かもと……さん」
 嗚咽になった。もう吐く物すらない。
 
 通夜が終わって、海援隊の京都支所である酢屋へ行くと、如何にも重苦しい様子で隊士が数人車座になっていた。痺れる程寒い日々が続いていたが、部屋の中には得体の知れぬ怒気が熱となってとぐろを巻いていた。
 恐らく昨夜から、誰一人として惰眠を貪ってはいまい。
 ひとり、陽之助と同じく坂本の事務補佐をしている白峰駿馬が陽之助を顧みた。
「中島は?」
 陽之助が訊ねると、
「神戸におるという報せが来たんで、急ぎ返信を送った。もう此方へ向かっている筈だ」
 白峰は言葉少なに応じたが、それで充分通じた。作太郎が坂本の死に目に遭えなかったのは、不幸か否か。
「中岡さんも亡くなった」
 重傷だった中岡慎太郎を看取ったのは、谷干城だという。谷は、中岡が死際に刺客の侵入してきた状況を語ったと言い、土佐藩の者に報告した。
「刺客に思い当たるところが?」
 陽之助は訊いた。
「新選組だ」
 誰かが低く呟いた。白峰も頷く。
「落として行った蝋鞘の持ち主がわかったのだ。新選組の原田左之助の物とな」
「"こなくそ"ちゅう伊予言葉も、中岡さんが聞いたらしい」
 中岡を疑うつもりはないが、非常時にそこまで聞き分けられる人間がそうそういるだろうか。似た方言は幾らもある。
「如何様安直な。そんな細工など幾らでも出来る」
 陽之助が言うが早いかで、白峰らが全員弾かれたように立ち上がった。
「証言もある。御陵衛士の伊東甲子太郎が、これは原田の物だと言うた」
 ああ、と陽之助は皮肉に唇の端を上げた。
 伊東といえば、幕府組織である新選組にいたくせに、分離独立して先帝の御山陵を守護すると言い出した変節漢。
 そもそもが勤皇であるならば、何故に一旦新選組の傘下となったのか、訳がわからない。
 近頃は薩摩に接近していると聞く。
「君らは、あの手の連中の口説をあっさりと信用するのか」
「信用も何も、嘘言を吐いて奴等が何ぞ得をするのか?」
 と、白峰。
「つい先日も、近江屋を訪れて坂本さんに"新選組が貴方のお命を狙っている"と進言したというのだ」
 甘いな、と陽之助は思った。
 坂本は忠告を聞かなかったのだ。真に受けていれば、土佐藩邸に入っただろう。それをしなかったのは、伊東を信用していなかったからに相違ない。
 そもそも冷静に考えて、新選組が坂本を襲って何になるのか。大政奉還が成立してしまった今更。あとは、薩長と戦うか否かだけの話だ。幾ら何でも、新選組も其処まで阿呆ではない。
 伊東は、思うところあって新選組の仕業にしたいのではなかろうか。
 陽之助にはそう思えた。
「……まさか、新選組の屯所に討ち入ろうなんざ、考えちゃいまいね?」
 陽之助は逆に切り返した。
「それが如何した」
 白峰の声ではない。陽之助は座って俯いていたので、顔は見ていない。
「ふん。わざわ餓狼の巣窟に入って行くとは、余程に勇気のあることだな。おれには真似出来んがな」
「なんちゃ、おんし。言わせておけば」
 陽之助は胸倉を掴まれて、半立ちになった。
「そいは、わしらの師に対する冒涜じゃ。坂本さんの敵討じゃぞ」
「情けないわさ。なんで坂本さんは、こん男を重用しちょったんじゃ」
 その場に居合わせた白峰以外の者全員が、口々に陽之助を詰った。
 近江屋の現場に駆け付けることが出来たのは、陽之助と白峰だけであったので、坂本の死に目に間に合わなかった者は余計に気が荒立っている。
「じゃき、あん時作太郎を押し退けても斬りゆうがよかったちゃ」
「斬れ」
「今すぐ腹を斬れ」
「おんしは、坂本さんを守りきれなんだんじゃ」
 一頻り声が高まったところで、白峰が割って入った。
「陸奥を斬ったところで、坂本さんが生き返るでもなし。無駄だ」
 恰も陽之助を斬る程の値打ちもない、と言いたげな口調だった。
「然様。忠告してやって斬られるほうの身にもなれ」
 と、陽之助はまた余計な一言を付け加えた。白峰は、
「土佐藩からも、時節柄ゆめゆめ軽々しい行動は禁ずる、と釘を刺されている」
 だが、陽之助の軽口にさえかくの如くの過剰反応な隊士らが、果たして耐えられるかどうか。
 白峰は言外に、陽之助の力量では隊士らを抑えることは出来まい、と語っていた。
 陽之助の立場は孤立していた。
「つまらん」
 陽之助は酢屋を出た。
 心が離れた。
 そもそも坂本以外の隊士に対して、中島やごく一部を除く者の他には何の感慨もなかったが。
「ばかめ」
 陽之助は寒空の下、我知らず呟いていた。
「坂本さんはな、斬られる覚悟があったんだ。斬られることも、計算のうちだったんだ」
 大政奉還の大業が成った時から。海援隊士らはあの時、坂本が「あしはこん人の為に報いるぜよ、命懸けても」と言ったのを聞いた筈ではなかったか。
 新官制案を出した時、坂本の名はなかった。はじめ書こうとして、当人が破棄してしまった。
 「世界の話」をしようと陽之助に書簡で語った。全て、坂本自身の今後の展望、つまりは日本の将来の為である。
 しかし、展望はあっても成した事が事ゆえに、己の身に何があってもおかしくはないと坂本は考えていたのだろう。
「誰が坂本さんを斬ったかなぞ、問題じゃあない」
 陽之助が気付いたのも、近江屋の母屋を出てからだったが。遅きに失した己の迂闊さを呪うばかりだ。
 既に陽之助には判っていた。
 坂本を斬った人間が何者であるのか。
 そうでなくては、そうこなくちゃ坂本の見出した陸奥陽之助たり得ない。物事の先々を見、嫌味なほどに悉く真理を見据えようとする男でなければ。

 (十一)へ
 (十三)へ
 

小説目次へ
「とにかく殺す!」目次へ
本館TOPへ