(十三) 世界の海援隊

「新政府に出仕せなんだら、何をするのです、坂本さん?」
「何をそらとぼけた事言うちょるんかの、この男は。わかっちょるくせに」
 坂本は呆れたように言った。
「言うたじゃろう、西郷の目の前で。世界の海援隊じゃ。おんしが言うちょった同盟商法(コンパニーコンメント)をやる」
 それはそうとして、日本各地に支所を作り、世界を相手に駆け巡るという構想は、陽之助の原案を離れ、坂本の手で見事に花開くだろう。
 果たして、それ以上の野心はないのか。
「まずはアメリカに行く」
「勝さんの向こうを張るようですな」
「あれは幕府のお声掛けじゃからな。もっとでっかくやる」
「いずれヨーロッパ全土、アフリカにも」
 陽之助は二十四の若者らしく生き生きとして、言った。
「じゃ。そうして自由に日本が貿易し、商業で栄えて行くには、まずは現行の不平等条約を改正させねばならん。あしらは、外国に日本の事ももっとよく説かねばならん」
 坂本は大きく頷いた。
「ああ、ええのう。大海を渡るようなでかい船はのう。希望が湧くのう」
「三十万両は下らないですよ」
「じゃき。これから商売相手を広げる。利息を積立金にして、船を買う。金儲けは全ておまんの腕にかかっとるぜよ、陸奥大先生」
 坂本のがっしりした腕が、陽之助の肩を叩いた。
「で、な。外国との折衝はあしら海援隊が政府から一手に請負う。今迄、攘夷攘夷となあんも知らんおぼこのような連中が新政府の中心じゃからのう」
「外交のことですか」
「おうさ。おんしは弁舌が立つ。外国から日本へ来る公使もまた、口説が巧い。彼等はディベートなる議論の方法を学ぶそうじゃの。その点、おんしは学びもせんのに口八丁手八丁。強いぜよ。おんしなら、負けはせん。やれ」
 手八丁は余計だな、と思いながら陽之助は口角を上げた。
「岩倉卿に新政府の外交方針について意見書を出す。それは、おんしに任せた」
「坂本さんはせんのですか?」
「あしか?あしは、只大船に乗りたいだけじゃき。ハハ」
 坂本は呵呵と笑った。
「はあ、それにしても打診を取るべきでしょうな。諸外国には、いやまずイギリスに」
「それも、おんしがやれ。あしは、おんし程英語は喋れんきの」
「そうですか。でも立ち会って下さい。おれはパークスはともかく、あのサトウという男は好かぬのです。あいつと話すのはぞっとしない」
 陽之助は、外交通詞でもあるアーネスト・サトウの何処か冷めた青い瞳を思い出した。
 彼等は日本を好み、日本の文化に通じているが、それにはまるで大人が他人の赤子を好むが如く嗜好的かつ利益追求の臭いがした。
「ほう、おんしでも苦手があるか」
「何やら日本人を小莫迦にしているようで。日本は、ああいう己らヨーロッパ人だけがが高貴な人種だと思い込んでいる不遜な外国人と交際はしても、卑屈になる必要は決してありませんよ。ゆえに、条約の改正だけは遂げねばなりません」
「おう、そん意気込みちゃ」

 坂本との思い出は、恋の甘美さに似ている。
 ときに思うて心のゆくままに酔い痴れてみたいが、その虜囚になってはならない。切ない心地に呪縛されて、渦潮に呑まれそうな小舟の如くになる。
 和歌の浦から見た紀伊水道の黒い黒い潮の流れに。
 陽之助は、海を見ながら生きてきた。
 坂本にもその共通点がある。
 紀州を出ては、江戸前の海。秩父颪が吹きぬける賑わいの海。
 兵庫津の翡翠に似た輝く瀬戸内の海。大坂天保山の潮騒。亀山から見下ろす長崎の海。
 土佐の青い海。勇魚躍る水平線、白砂の海岸。
 海に揺られている夢は心地良い。
「……違う、坂本さん。海の向こうには」
 希望はない。
 否、希望の行き着く先には絶望がある。
「蝦夷を墾き、琉球をおさめ、朝鮮を取り、満州を拉し、支那を抑え、印度に臨み以って進取の勢を張るべし」
 これが長州人志士を支える吉田松陰の教えなり。
 洋威に耐え得るには、日本は涵養し強くならねばなるまい。
 強く。
 たとえ絶望を見ることしか出来なくとも。
「陸奥様、かんにん」
 背中のやえが喘いだ。
 昨晩もさんざん抱いたが、布団を上げに来たやえの後姿を見て、朝からよがらせてみたくなった。
 胡坐をかいた長い脚の上にやえを乗せて、生え際に吸い付いた。
「かんにんならん」
「けど」
 他客の用件があるというのは言い訳にならない。陽之助以外の数組の客は既に宿を出ている。源太も外へ遊びに行った。
 やえの着物の八つ口から手を入れて、乳房を荒々しく揉みしだく。首筋に唇を這わせて、
「悪い男なんだよ、おれは。よく知ってるだろ」
「……知らへん」
「これから人を殺しに行くんだぜ。悪くないわけがない」
「嘘つき」
「嘘つきか。まあ、それも当たってるがな」
「ああ……」
「好きだ、やえさん」
「それも嘘」
「まあね。ひとつ借金取りにでも見せ付けてやるか」
 と言って窓の障子を開け顔を出すと、外の男と目が合った。
「作太郎」
 平野屋を訪ねてきた中島作太郎は、青白い顔で陽之助の前に膝を揃えた。
 やえは熱い煎茶を出して、そっと部屋を離れた。首筋に赤い痣が浮き出ているのに、陽之助以外本人も気付かないようだった。
「仇討を決行するって、本当か?」
 妙に畏まった言い方だ。
 中島は坂本の死を帰途、神戸で聞き、急ぎ京へ戻って来た。
 陽之助が酢屋にも沢屋にもいないので、白峰駿馬に訊くと、「知らん」の一点張りである。
「宗七に会って訊いてみたら、どない詰所で揉めて、それ以来来ちょらんとか」
「あやうく、おれまで斬られるところだったからな」
 陽之助は他人事のように笑った。中島は、それには無反応だった。
「ほいで、白峰さんらとは別に仇討をするちゅうて、陸援隊に声をかけちょるんです、と宗七は言うとったが」
 中島の口調には明らかな不審の色が籠もっていた。
「阿呆どもが、新選組の仕業じゃと騒いどるが、伊東らも殺されたし的外れだ」
 坂本と中岡が近江屋で非業の死を遂げた三日後の十一月十八日、御陵衛士・伊東甲子太郎一派も油小路七条で新選組に襲撃され、数名が命を落とした。
 そもそも他組織の内輪争いなど、陽之助にとってはどうでもよかったが、伊東も何者かの思惑の犠牲に潰えたように見える。
 そう。伊東らも誰かの傀儡だったかもしれない。
 それを示すのは、高台寺党つまり御陵衛士一派が屠られた動機と伊東が動いた事由だ。何の為に伊東はわざわざ坂本に忠告に来たか。
「意外にもっと根深いところにあるのだぜ、これは」
 陽之助は得意気に言った。己の師が惨殺されたというのに、不届き極まりない言い草だ。
 とはいえ、坂本の右腕として殆ど離れたこともなかった陽之助が誰よりも傷付いているのは間違いない、と中島は悲しく思う。
 逃げるようにして二階のこの部屋を出て行った、女主やえの顔付きで、それはわかった。
 陽之助は必死に己を殺している。
「――ほなら、誰じゃと踏んでいる?」
 中島は、単刀直入に切り込んだ。
「紀州」
 陽之助の答えは短い。
「紀州藩が新選組なり、見廻組なりを唆して、坂本さんを襲わせたというのか?」
 中島は訝った。
 確かに紀州藩はいろは丸のことで海援隊に恨みがある。八万三千両余もの賠償金を支払うのは、痛い。しかし、それを言うなら大洲藩も踏んだり蹴ったりで、坂本には随分と恨みもある筈だ。国島の係累にやられても、満更おかしくはない。
「坂本さんを消せば、金を払わんでええちゅうことはない。現に、あしは支払の約定を取り付けてきたんじゃき」
 これには説得力がある。
 だが、陽之助はにやにやと不敵な笑みを浮かべたままだった。
「悪いこた言わん、やめておけ。相手が悪い。奴等、新選組に護衛させちょる言うが」
 中島は陽之助に詰め寄った。
「狂犬にわざわざ噛まれに行くこたないぜよ」
「復讐だよ、復讐」
 陽之助は答えた。中島にはその意味が判らなかった。

 果たして十二月七日五ツ。
 しんしんと雪の降りしきる中、仇討は決行された。
 花屋町油小路の旅宿天満屋。
 紀州藩の保守派首魁、三浦休太郎が新選組の斎藤一らと酒宴を開いている最中の斬り込みであった。
 斬り込んだ側の海援隊、陸援隊士らは紀州藩の滞在する本願寺南、興正寺も襲撃した。
 近所の者の談笑に拠ると、大勢の胴間声と雪を蹴る足音が恐ろしかったという。
 なかんずく、「聞いた事もないパンパンいう音がした」という証言で、陽之助は確かにやったのだ、と中島は思った。奇しくもこの日、神戸開港の日であった。

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