(二) 燗化けの酒
ちろりの口からしゅん、と白い湯気が立ったか立たないかで、陽之助は火から下ろした。
お燗番の真似事を始めて何年になろうか。尤も然のみならず、炊事もやる。鶏も魚も捌く。
「海軍操練所以来か」
と思い起こしながら猪口に注ぎ、唇を突き出した。ところへ、やえがやって来た。
「手酌なんかあきまへんえ」
慌てて陽之助の手からちろりを奪おうとするも、陽之助はひょいと交わした。
「まあまあ。一人でやるのがおれも気楽でな。女将に気は遣わせられん」
言ってみたが、実際他人任せの煩わしさから逃れたく、他客のいない広間に常滑の丸火鉢を置き、独飲を楽しもうと思ったのである。
結局こうして平野屋に宿泊することにはなったが、その前に商談である。
陽之助は濡れた袴が乾くや否やで、丹後・田辺藩京屋敷へと向かった。前月に田辺藩と契約を結んだ長崎経由の物品販売の件である。
海援隊の商取引として、責任者である陽之助一人で行い、出島のハットマン商会との遣り取りも総て取り仕切った。英語に堪能な陽之助でなければ出来ないことだった。
積荷が無事に届いたということで藩屋敷に呼ばれ、後日海援隊の属する土佐藩に金を届けるという確認に出向いたのだ。その金の多くは、追って長崎へ送らねばならない。
しかるに、袴を着けていかないわけにはいかなかった。
「女将やなんて。そないよろし身分やおませんし……」
やえは苦笑した。
盆に載せてきた古漬けのたくあんを、そっと勧める。
「お口に合いますかどうか、わからしまへんけど」
「気遣いは無用と言っただろう。客は客だが、おれは遠慮が無いぜ。そんなお上品でもありゃせん」
陽之助は気安く言った。
この男にしては珍しく、今晩は気分に高揚がある。
商用とは別に、一昨日から昨日にかけての大仕事が終わった達成感があった。
「京に来たのも何度目か。一家で暮らしたこともある。京の古漬は美味いな」
「そない言うて頂けましたら、うれし」
やえは白い歯を少し見せて笑った。小柄な二十四、五の中年増といったところか。
行灯の下で見ると、昼間見た以上になかなか滅多にない美形とわかった。とりわけ唇の形が艶冶な。
陽之助は、思わず「泊まりたいのだが」と口走ってしまった己を思い出した。
「元々が関西の生まれさ。江戸にいたこともあるが。食い物は関西に限る。漬物も酒も」
女も、と陽之助は猪口に注いだ酒をやえに差し出した。
「うち、お酒は――」
「いける口とみた。女子が飲んではあかんという事は無い」
外国では男女も同席で酒を飲む、と言おうとしたが、それは突飛な話に聞こえるだろうと思ってやめた。
やえは一口飲んでみて、
「おいしい。お酒がこないにおいしい物やて、今迄思わなんだんですけど」
「これは鳥羽の三重
(みえ)酒みたいに上等じゃあない丹波の酒だろうが、美味いよ」
京は酒どころというが、伏見はまだ無名で生産量も少ない。ここ数年で俄かに政治の中心地になって、遊里に人が出入りする分消費量は増えたが、それに追いつかない。
ゆえに大半は周辺地域から入ってくる安酒で、鳥羽あたりの酒蔵で三重に濁酒
(どぶろく)を漉す最上等の清酒などは、庶民の口には殆ど入らないのだ。
「へえ。何処ででけたかわかるんどすか?」
「大体の見当はつくさ。江戸じゃあ伊丹の杉樽の匂いがする酒が好まれるが、あれは香ばっかりで米の味がせん。結局、高い水を飲まされてるようなもんだ」
「こっちのが美味しいんやね」
「それに、燗の仕方に工夫があるんだ。おれは、坂本さんという人に教わった」
陽之助は言った。
「燗化けする酒というのがあるんだよ。冷やだと平凡な味の安酒でもな。恰も田舎の泥臭い蓮根娘が町の水に洗われて料亭のお座敷に上がるような」
「まあ、そないに違うんですか」
「化ける酒を択ぶのも人の才。燗にして不味くなるか美味くなるか、人が人を見極めるのと同じだ」
「ほなら陸奥様は、燗化けするようなお酒を見抜く才がおありになるんですね」
やえは追従でも世辞でもなく、真顔で言った。
陽之助はそう言われて、胸中多少困惑した。
己の思い描いていたのは陽之助自身というよりは、坂本竜馬だったのである。
今や海援隊の隊長として、或いはついこの前には薩摩、長州の同盟を成立せしめた人物こそ、人を見る慧眼のある男。
坂本に見出されたのは、この陸奥陽之助である。
「親父どのは義兄上を坂本さんに預けたかったようだが、実際坂本さんのおめがねにかなったのは、おれの方だった」
という自負がある。
坂本竜馬も、陽之助の気性の激しさと奇才を愛し、ずっと手離さない。
ゆえに、坂本のつてで勝海舟の運営する兵庫の海軍操練所および勝塾に入った。
ところが、ここでの陽之助の評判は頗る悪しく、塾生から嫌われていた。塾の主催者である勝海舟も、陽之助の頭脳のよさは認めるが、その器を好ましくは感じていなかったようだ。
「嘘つき小二郎」
これが陽之助の綽名である。
小二郎は通称で、もとは伊達小二郎宗光といった。最近になって、自ら陸奥陽之助と名乗っているが、坂本は時々小二郎と呼ぶ。
「人を口舌の徒呼ばわりしている奴のほうが莫迦だ。今更、武術や胆力にのみ頼って、次世代を渡ってゆけるものか。あんな単細胞ばかりにかかずらって大事を取られたら、つまらん」
と、陽之助自身は考えていた。
腕力が無いことはない。薩摩出身で巨漢の伊藤祐亨など、陽之助と相撲をとって一度も勝てないくらいだ。
そんな事よりも陽之助にとっては学問が、そして学問から得られる理路が大事だった。
喧嘩になっても、冷然たる理屈で相手をこてんぱんに叩きのめしてしまう陽之助であるので、憎まれたことこの上ない。
武術や度胸でなくして口説で他人を打つ負かそうなどとは「武士の風上にもおけん」ということで、酷く揉めた。
このことで坂本も流石に心配になり、陽之助は越前の横井小楠に託されることとなった。
だが、小楠の失脚により、この話は潰れた。
海援隊の前身である亀山社中に入ってからも、依然として陽之助は周囲の反感を買っている。
いろは丸沈没の時もそうだった。
紀州藩の藩船・明光丸と衝突して、海援隊のいろは丸が沈んだ時、陽之助が紀州出身ということで同志の恨みを一身に集めてしまった。
それもこれも、普段の陽之助の行いが災いしたとしか言いようがない。
「おれを判ってくれているのは、坂本さんだけ」
だが、陽之助にとってはその事実のみで充分であった。
「――いや。燗化けの酒を見る目なぞ、おれにはまだまだ」
「へえ。ほなら、その坂本さんいう御方がお燗しはったら、これよりも美味しなるんやね」
やえは少し酔って、白い頬を染めながら言った。
陽之助は覚えず声を立てて笑っていた。
やえの全く疑いない口ぶりに、毒気を抜かれてしまったのだった。
「面白いね、あんた。おれ本当は四条室町に常宿があるんだが、当分こっちに泊まろうかな」
「あら、お世辞を言わはっても、これ以上何も出ませんよ」
「だろうな」
十月も中ごろとなると、京の夜はしんねりと冷える。
「さて。燗直しは不味いし、さっさと飲んでしまってもう一杯飲るか。女将は遠慮要らん。おれなど放って置いて、坊主を見てやるといい」
やえは頷いて陽之助を残し、奥へと戻って行った。
人気が減ると、俄かに空気が冷える。
若い女の甘やいだ香さえなくなった部屋で、七輪に手をかざし、陽之助は物思いに耽った。
(一)へ
(三)へ