(三) 少年、郷関を出づ
「牛麿ッ、これ牛麿」
義兄・五郎宗興
(むねおき)の声か。続いて、老女の声がした。
「若様、なりません」
違う。これは用人の金切り声だろう。
荒れ狂う陽之助は、まだ数えで十歳だった。義兄が父・宗広より受け継いだ三百石の知行が改易となった。
そうと聞いたか否かで、この時牛麿と呼ばれていた陽之助は立ち上がり、床の間に置かれていた先祖重代の大刀を掴むや、表へ飛び出した。
「今から斬り込みに行く」
と叫ぶ。
「牛麿、やめんか」
宗興が陽之助の体躯を後ろから抱き止め、叱り付けた。
「何故です兄上ッ。なにゆえに知行を召し上げられねばならんのです」
「これ以上言うでない」
義兄の両目に涙が溜まっているのを見て漸く我に返ったものの、それでも陽之助の腹の底が収まる筈もない。
「ちくしょう」
腹立ち紛れに竹刀を振るい、やれ庭木を荒れ放題にしてしまうのを咎められては兄に議論をけしかける。
「父上が何のお咎めを受けるお振舞をなさったというのか。家の床下に池を張り、珍しい金魚を放って涼む贅沢をしただの、宴会で風紀を乱しただのといわれのない風聞を、其れが為に流刑とは、得心がいきません」
陽之助の父、伊達宗広は徳川御三家紀州藩の上士、家禄三百石のいわば中老格であった。
才覚あって、わずか二十一歳で寺社奉行となり、その後諸役を経て四十八歳で勘定奉行となり、家禄は大幅に増加されて八百石となった。
実にこの間、宗広は紀州藩の財政難に対して奇策をふるった。
御仕入れ方という僻地救済の制度を利用して、その土地の産品を全国各地に販売する。産品の宣伝に芸人を使ったり、あっと驚くような趣向を凝らして大流行させたり、熊野三山貸付という金融業も発展させた。
だが、これらの事業の成功に対する同輩等の妬みを買ったとともに、
「武士のくせに何故、商人の真似事までする」
と、苦々しく思う人々も増えてきた。
奢侈と軽薄は御三家の家名にとってよろしくない、とも言われた。それも、老公・舜恭院の贅沢を賄う為であったが、それが仇ともなり宗広失脚の一因となったのである。
時は時。江戸では天保の改革が始まり、粋の時代は終わった。
結局は、宗広の失脚は藩内における権力闘争に敗れた故である。
舜恭院は紀州十代・徳川治宝
(はるとみ)で、そのあとを十三代・慶福
(よしとみ)が継ぐ。
十一、十二代とも養子だが、早逝し、幼い慶福に代わって依然実権は治宝が握っていた。
宗広は、この舜恭院つまり治宝に御小姓として十五の頃から仕えてきた。
舜恭院を取り巻く伊達家、姻戚の渥美家などの上に国家老の山中筑後守があった。
さて一方。
此方を国許の老公を補佐するお国派とすれば、江戸住まいの慶福を擁する御付家老・水野土佐守らの江戸派。
詰まる所は、この両者の対立が伊達家の悲劇の発端である。
水野土佐守は紀州の分領新宮の城主でもあり、後の将軍継嗣問題に際し、井伊直弼と結び慶福を第十四代将軍として擁立することに成功する程の辣腕を持つゆえに、吉田松陰にも"奸才あり"といわれた人物。
かねがね、舜恭院の翼下で権勢を振るう宗広らを快くは思っていなかったのである。
そうして、運命転変の時期はじき訪れた。
嘉永五年(1852)、舜恭院が没し、相次いで山中筑後守が亡くなった。
水野は老公の喪も明け切らぬうちに、宗広そして渥美源五郎を流刑禁固に処した。
宗広の流刑には期限がなかった。
婿養子である五郎宗興が、先祖よりの知行三百石のみを継ぐ事が許された。
だがこの度、それすらも剥奪され、和歌山城下十里払いという沙汰が下されたのである。
「恨むでないぞ、牛麿。これも世の倣い。父上にお命があっただけでも、よしと思わねば」
宗興は陽之助を諭した。
「なれど、理不尽な仕打ち。御家に貢献こそすれ、父上に何の落ち度が」
「御家に御仕えするというのは、こういうことでもあるのだ」
唇を噛み締めつつ言った宗興の胸中、或いは父・宗広のゆくりもない悲憤を推るべくもなく、陽之助はこの時思った。
「これが武士の倣いか。己らの無能を棚に上げ、才覚以って功成し遂げんとする者の足を引き、妬み嫉みに耽溺し、没我のままにのうのうと生きてゆくだけの奴輩ばかり。こんな世界で何が出来よう。武士の世の中などぶッ潰れてしまえばいい」
如何に奇才といえども、十歳の子供が考えることである。
「復讐してやる。誰が何と言っても、紀州家にはいずれ復讐してやるんだ」
と、叫んでいた。
呆れた少年だ。何処で誰が聞き耳立てているかもしれないのに。
しかし、そこが陽之助の生来の面白いところである。狭量な性格のくせに時折大胆極まりないことを言ったりやってのけたりして、他人の度肝を抜く。
「復讐。それしかない」
父譲りの才幹ともいえるが、十歳から一家流離、窮乏を経験し、更に奇矯さを増したというべきかもしれない。
その後、十年を経て幽囚を解かれた宗広は和歌山へ帰り、宗興も微禄を得るが、翌年父子ともに脱藩し、京へ上った。
尊王運動の為である。
政治の中心は、既に京であった。
それに惹かれて、江戸遊学していた陽之助も上京、自得翁と称する父の元へ寄寓することとなった。
坂本竜馬との出会いが、この時文久三年(1863)だった。
陽之助十九歳である。
そもそもは自得翁の噂を聞いて、伊達家を訪れた坂本だったが、陽之助の弁舌を気に入った。
「おれは尊王運動の為に京へ上ったのじゃあありません。復讐の為です」
「紀州家にか?」
坂本も呆れつつ訊き返した。
「いえ、幕府にです。世間ともいうべきでしょうか」
すると、坂本は腹を抱えてげらげらと笑った。図体が大きいので畳も軋るほどだった。
「何が可笑しいんですか?」
陽之助は些か怒気を込めて言った。
「おんちゃんそりゃあ――そりゃあ可笑しいに決まっちょる。おんしはわしが今迄見てきたなかで、いっちゃん賢い男だが、如何せんまだまだちんまいの」
「ちんまい?」
むかっときた。
器量が小さい、と言われているのは直感で判る。人間、己が気にしていることを指摘されると反射的に防戦を張るものである。
だが、坂本はそんな陽之助の反応さえ気に留めない。
「おう。上背の割にのう。おんし、復讐なんざちっとも面白うはないぜよ。折角、そんなええ頭しちょるんじゃき。広え所に出ようや。例えば海じゃのう。海は広いぜよ。おれについて来てみんか?」
「あ、成る程」と、陽之助は啓けた。
こういう切り替えは、驚くほど速い男である。
復讐復讐と思い詰めているうちは、人間広角で物を見られないようだ。
もっと広い場所に出てみてから、何がしか報復の手段を考えても遅くはない。尤もその頃には、復讐にとらわれるどころではなくなっているかもしれないが。
とまれ、陽之助は坂本という船頭を得て、大海に漕ぎ出す一隻の船となったのである。
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