(八) 紀州の仇を京で討つ

 紀州藩が海援隊に支払う予定になった総額は、八万三千五百二十六両となった。
 いろは丸本体の賠償額は三万五千両である。
 そして、賠償の話が成立すると同時に、いろは丸の元の所有者であった大洲藩は、代りの船としてイギリス船のセイボルン号を土佐藩からの斡旋で購入している。
 そのセイボルン号を再び借り受けた坂本は、海援隊の船とした。
 ふっかけた四万両は、丸々海援隊の物というわけにはいかない。
 亀山社中が海援隊になるにあたって、土佐藩の庇護下に入った為に、それは土佐藩の金でもある。薩摩の五代才助への謝礼や、土佐藩の取り分を考えれば、半分以下になるだろう。
「まさかに陽之助、おんしの策じゃとは紀州も知らんじゃろう。知らいで狙うてきちょるんなら、因縁だがな」
 中島作太郎は言った。
 御所人形みたいにちんまりと顔の中に寄った目鼻が、更にまとまった。
「紀の字もまるで莫迦じゃない。誰ぞが嗅ぎ付けたとて、おかしくはない。親藩は密偵政治がお得意だ。おれが伊達家の人間だというのもとうに知っていようし、何処の揚屋でいつ飲んだか、どの妓と寝たかぐらい、知るのはお茶の子さいさいだろう」
「ただ、おんしを付狙う程暇かのう」
「四万両とは、ちと過ぎたかな」
「でな。最終調停に当たっての代表人が、紀州は岩橋轍輔という男でな。後ろに三浦休太郎がいる」
 中島は言った。
 事故から半年経って漸く、話し合いに決着がつくのである。
「こっちは誰だ?」
「あしじゃ」
 坂本は中島を単身長崎へ戻らせて、紀州側との交渉にあたらせることにした。大政奉還が成れば、金は要る。その前に紀州から一刻も早くせしめておかねばならない。
「そういうわけじゃき。あしは、明日、明後日にも崎陽(ながさき)へ戻る。おんしの着物のことは、五条御前の丹後屋いう呉服屋に伝えておくきの」
 流石に三浦と陽之助を差し向かいにするのは拙いだろう、と坂本も考えたのらしい。
 三浦休太郎は、水野土佐守の配下である。
 もとは伊予西条藩士の子だが、のち三浦家の養子に入り、例の将軍継嗣問題で家茂を絶大に支持し、腕を見込まれて紀藩に取り立てられている。
 陽之助が和歌山に居た頃は、まだ紀州藩の人間ではなかった。
 秀才の誉れ高い三浦の名を知ったのは、偶然にも江戸である。陽之助が入った安井息軒の『三計塾』に塾頭として三浦が在籍していたことがあるという。
 無論、陽之助が軒に師事した時期は、三浦は既に塾を離れていたが。
 その三浦休太郎を、いろは丸事件の折衝で初めて見た。
「鰈(かれい)に似ている」
 三浦の容貌を、目間(まなかい)が狭く、唇が分厚いのでそう思った。
「しかし、食えば不味そうだ」
 己はカサゴのように刺々しく毒のある男と言われているくせに、陽之助の他者評は容赦無い。
 何より三浦ががちがちの佐幕論者というのが、いけ好かなかった。
 かたや政争に敗れて辛酸を舐めた重役の子、かたや己の才覚が時流に上手く乗り、小藩の一才子で終わらず御三家の重臣に取立てられた男。右と左に分かれて当然である。
 坂本は、陽之助がまだ郷里への遺恨を忘れないのを案じて、とりわけいろは丸の一件に関しては直接紀州側とかかわらぬように配慮している。
「坂本さんは如何様、おれが短慮と思うのか」
 短気は認めるが、思慮のないことはない、と些か不満であるが仕方が無い。

 陽之助は中島を見送ったあと、平野屋の二階でピストルの手入れをしていた。
 分解して掃除をするのだが、なかなか面倒臭い。
 要領を得ない時は図面を見ていたが、今は然程のこともなくぶらぶらと手持ち無沙汰にやっていると、源太がやってきた。
「おう。ピストルが珍しいか」
「うん。おっちゃんはすごいんやな。何でも持っとるのやなァ」
 源太は陽之助が懐紙を広げて置いている回転式拳銃の部品やら、刀掛に掛けた薩摩拵の大刀やらを見比べた。
「一応、刀は然程得手ではないが、たしなみでな」
「人を斬ったことあるんか?」
 陽之助は答えなかった。
 こんな子供に言って何になる。ない、とは言わないが今更人斬って幾らの時代などなくなると思うだに、徒に武勇談など語る必要もない。
「斬られたら死ぬのんか?血ィいっぱい出て死ぬのんか」
「見たことはないのか?まァ、必ず死ぬということもないが、いっそ一刀で死ぬるがましだろうか。あちこち斬られて苦しんで死ぬよりはな」
 陽之助は椿油を銃身のねじ部分に塗りながら、淡々と話した。椿油を潤滑油に使うと、香がよい。懐からよい匂いが漂っているというのは粋なものだ。
 源太は黙って見ていたが、ややあってうっと嗚咽を洩らした。
「どうした。今度は座り小便というのは勘弁してくれよ」
 源太は、陽之助の膝に突っ伏して泣き出した。わあわあと階下に聞こえそうな程の大声である。
「おれが何ぞ言ったか?」
「おとんが……おとんが斬られて死んだんや」
 やえは病死と言っていたが、そうではなかったのだ。
「こないだ上り込んでおぬしを二階から放り投げた奴らか?」
 源太は首を振った。
「ちゃう、みぶろや」
 ああ新選組のことか、と陽之助は覚った。新選組の最初の屯所が洛外の壬生村にあった為、「壬生浪士組」を名乗り、京童は軽蔑と恐れを込めて「壬生浪」と呼んだ。
「はっきりとそうやとは判らんのやて、近所の人は言うけど、あれはみぶろや」
 源太は信じている。
 確かに強固な佐幕思想を持つ彼等は、この数年というもの過激派尊攘浪士を排斥してきたし、京坂の商家に押し借りもしたり、何より無粋な関東風を持ち込んで千年の王城を汚してきたが、町人を斬るということは稀だろう。
 或いは、金欲しさの為に権勢に擦り寄る程度の低い連中なら、幕臣の衣を羽織っていてもそうかもしれないが。
「恐らくはその旧知の男の代りに金を借りたというので、同志を見做されたか」
 成る程、やえが押し黙って怒りを露わにしたのも頷ける。
「――なあ、おっちゃん。ピストルて刀より強いんか?」
 泣きじゃくっていた源太は矢庭に顔を上げ、陽之助の端正な面差しを覗き込んだ。
「弾が当たればな。敵との距離が遠い時や刀が使えん時はものをいう。刀ほどの鍛錬は要らん。おれにも使いこなせるくらいだ」
「ほな、それ貸して」
 莫迦言うな、と陽之助は一喝した。
「おぬしの手では引き金は引けん。この引き金というのを引く力がないと、弾はこの中を通って行かん。そう簡単に出来るか」
 組み立てながら、説明する。
「刀ほどちゃうて、今言うたやんか」
 源太は泣き腫らした両目をごしごし擦って文句を言う。
「ほなおっちゃん、おっちゃんがおれの代りにおとんの仇討ってや」
「仇討?このおれが」
 源太が冗談で言っているのではないのは判り切っているが。
「でけへん事ないやろ。おっちゃんが来てから、あいつら借金取り座敷までよう上ってこんのや。強い筈やおっちゃんは」
 陽之助はそっと障子を開けて外を見た。借金取りの男達は相変わらず平野屋の周りをうろついているものの、中へは入って来ない。陽之助の何やら圭角のある雰囲気に気圧されているようでもあるし、様子見のようでもある。
「まいったな」
 陽之助は愕然とした。

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