あとがき
 
 風雲乱れる幕末の京都で活躍した新選組。
 その新選組に唯一、自ら斬り込みをかけた男がいる。
 陸奥陽之助宗光。
 のちの明治政府第二次伊藤内閣における外務大臣となる男。
 志士の間で幾度か新選組の屯所に襲撃をかける計画はあったが、いずれも未遂に終わっている。実際にやってしまったのはこの男だけなのである。
 "眠れる獅子"中国に戦争をしかけた最初の男も、陸奥なのである。

 陸奥宗光のことは、明治帝国主義時代という時代を含めて、少なからぬ人々によって、足尾銅山鉱毒事件、日清戦争における朝鮮出兵、三国干渉など論駁が為されてきた。
 しかし、坂本竜馬の妻おりょうの懐旧談にせよ、後世の作家の筆にせよ、陸奥宗光に好意的な書き方は少ない。
 殊更に戦後史観がそうさせるものなのか、メディアの扱いがそうさせるのかはわからない。
 しかし私は、良かれ悪しかれ自他ともに「ひたむきな生き方」をここまで愛した人は稀だと思う。
 何が、陸奥の闘争心を駆り立てたのか。自分なりに考えたほんの一握りのことが、この物語になった。

 ここに興味深いエピソードがある。
 「いろは丸事件」において結果的に七万両を海援隊にせしめられた紀州藩は、鳥羽伏見の戦いで敗残兵を受け入れ、あまつさえ江戸に送り返したりと周旋している。当然のこととして行った。
 しかし、このことで後に「朝敵の手助けをした」と新政府に問題視され、東征軍の参加人数の少なさを補う為に十五万両の献金をするよう迫られた。
 だが、それまでの経緯の如く十五万両の大金など出せる筈がない。とりあえず三万両を出して、ある人物に新政府へのとりなしを要請するのだ。
 それが、陸奥陽之助である。
 当初、陸奥は「自分は土佐の海援隊にいたので土佐藩士だ。紀州には恨みこそあれ、恩義を感じはしない。頼みに応じることは出来ない」とはねつけた。当然だろう。
 しかし、結局再三の懇願に応じて岩倉具視の元へ「兵五千と献納の猶予」を頼みに行き、これが受け入れられた。
 元海援隊というブランド力だけではない、陸奥の稀なる才能を買われてのことだが、とまれ紀州藩は助かった。取られた七万両の倍以上もの金を陸奥一人の力で手に入れたようなものである。
 「復讐」など何処へ行った、という話だ。
 が。
 これは、陸奥が恨みを忘れたというだけでなく、「ここで紀州に恩を売っておけば、やがて藩閥政治となるだろう新政府に食い込んで行くには、地盤を持つのは武器となる」と判断したからに違いない。薩摩、長州は大藩だが、紀州の規模はそれに匹敵する。出身でもない土佐二十三万石にだけ頼るのは、あやういのだ。
 恐らく、そういう計算もはたらく男だったのだろう。
 しかし、それよりも陸奥にとって大事なのは、「目の前につきつけられた不都合な事実について打開策を持ち、問題をクリアしていく」ことではなかったか。
 能力ある人間は、好きと嫌い、親愛と憎悪に無関係に対策を講じるのが好きで、それが己の使命だと思っているきらいがある。陸奥にもそうした一面があったのではないか。
 その後の人生を鑑みれば、そういう気がする。

 また、明治四年〜六年の神奈川県令時代、各街ごとの交番をまわって居眠りするものがあれば厳しく叱り、精勤している者があれば牛鍋を取り寄せて会食をしたりもしたという。陸奥宗光が人の如何にひたむきで勤勉なる姿を愛したか、というのが垣間見られる話だろう。
 或いはその反面というか当時の豪侠のならいか、若い頃は遊び好きだった。江戸では安井息軒の元で学んだが、吉原通いが過ぎて破門されたともいう。
 明治の初めは花柳界にも派手に出入りしており、

 末は袂を絞ると知らで 濡れてみたさの夏の雨

 案じる心のうちから出たか 思うところに通う雲

 などという歌を作っている。漢詩の巧さもさることながら、粋な都都逸も出来る万能さ。遊びにも「ひたむき」だったようだ。

 最後に。
 勝海舟が『氷川清話』の中の人物評で、唯一挽歌を詠んだ対象であるというのが、印象的だ。

 愚かなる女もたけきもののふもついにくさむす屍なりけり

 桐の葉の一葉散りにし夕べより落つるこの葉の数をますらん

 この歌の解説は『陸奥宗光(下巻)』(岡崎久彦著)にくわしいが、勝にとって陽之助は「たけきもののふ」だったのだろうか。己の門下に入ったことのある人間ゆえの感傷というよりも、どことなく勝流の皮肉も合わせて感じるが。
 勝海舟の残した『氷川清話』の人物評では、陸奥に好意的ではない。「嘘つき小二郎」という評価が残ったのも勝の懐旧談からである。
 勝は日清戦争を「不義の戦」といい、否定的だった。
 海軍操練所を始めたばかりの勝の信念においては、アジアの国同志は友好関係を結ぶことが第一だった。清国にしろ朝鮮にしろ。
 その真裏側に位置するのが「征韓論」であり、朝鮮民権を踏みにじるような王宮占拠事件であり、欧米列強を意識しすぎるゆえの清国との戦争である。
 日清戦争は、いわば当時の内閣総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光のイニシアチヴではじまった戦争である。かつての教え子が、まるで反対のことを行うのを苦々しく思ったことは確かだろう。
 しかし、陸奥は己の信念を貫く為には、戦も辞さない。
 そもそも何も持たざるところから出てきた人間ほど、退路を必要としないといっていいだろう。
 伊藤博文もしかり。彼は井上や高杉らのような上士ではなく、何もないところから始めた男だ。
 あたかもそれは、「維新の志魂」そのもののようである。
 勝は目指すところは全く違えど、陸奥宗光の中に、維新のもののふを見ていたのだろうか。
 じっさい恨みつらみなどよりも、常に前だけ見てひたむきに進むもののふ。
 事の善悪は問わない。
 前へ。中央へ。
 何に突き動かされるか?都会生まれの江戸っ子の洒脱さを忘れない勝には、理解し難いものだったろう。理解し難いが、何か名状し難い哀惜の念を生むには違いない。
 歴史にもしもはないが、
「もし陸奥宗光が紀州に生まれず、江戸に生まれていたら、彼の人生はまったく変わっていたであろうし、日清戦争もなかったかもしれない」
 という気がする。
 鄙(というと語弊があるかもしれませんが、首都から離れたという意味で)に生まれた人間には共通の想いがあるだろう。薩摩や長州は、江戸からはるかに遠い。現代人の感覚を忘れて、考えてみるべきだ。この距離感というものは、歴史の上で欠くべからざる必要な身体感覚そして思想に結び付く。21世紀のいまだにそうである。
 一地方に生まれた人間が大局を見ようとする時、端的にいえば立身出世しようとする時、つねに他己を意識せねばならない。
 首府に対しての地方。欧米列強に対しての日本。
 中央に生まれなかった陸奥自身の経験と、日本の世界における位置がリンクした、その共鳴がアジア覇権を生んだといえなくもないのではないか。
 
 とまれ、勝海舟が残したこの挽歌を読むに、あるいは都市と地方の格差が叫ばれるこの時代なればこそ、陸奥の孤高の魂を顧みる人のもっと多かるべし、と思う。


 【参考文献・資料・小説など】
 
 『陸奥宗光(上下)』 岡崎久彦/PHP研究所(1990年)
 『相思空しく −陸奥宗光の妻亮子』 大路和子(2006年)

 『陸奥宗光 −その光と影』 和歌山市立博物館(1997年)
 『龍馬の金策日記』 竹下倫一/祥伝社親書(2006年)
 『龍馬の手紙』 宮地佐一郎/講談社学術文庫(2003年)
 『龍馬暗殺の謎』 木村幸比古/PHP研究所(2007)
 『闇の竜馬』 中津文彦/光文社文庫(1995年)
 『竜馬暗殺の真犯人は誰か』 木村幸比古/新人物往来社
 『坂本竜馬日記』 菊地明・山村竜也/新人物往来社

 『竜馬伝説を追え』 中村彰彦/学陽文庫(2000年)
 『あやつられた竜馬 明治維新と英国諜報部そしてフリーメイソン』 加治将一/祥伝社(2006年)
 『一外交官の見た明治維新(上下)』 アーネスト・サトウ 坂田精一訳/岩波文庫(1960年)
 『幕末政治と倒幕運動』 家近良樹 吉川弘文館(平成七年)
 『氷川清話』 勝部真長編/角川文庫(1972年)
 『明治の海舟とアジア』 松浦玲/岩波書店(1987年)
 『龍馬の翔けた時代』 京都国立博物館(2005年)
 『新訂 蹇蹇録』 陸奥宗光/中塚明校注/ワイド版岩波文庫 (2005年)
 『京都時代MAP 幕末・維新篇』 光村推古書院(平成十五年)
 『日本史総合年表』 吉川弘文館
 ほか


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