(一) 

「お、山口じゃねえか」
 一旦行き過ぎた足音が戻ってきてそう言うのを、一(はじめ)は聞いた。大川橋の手前、人の往来が混み始める頃合だった。そのため、最初は誰が呼び掛けたものか訝った。だが、大小を差した中背の若侍が振り返った途端、一はおぼえず小さく舌打ちした。
 夕映えの滑りゆく光の中で、一は少し目を細め、男が引き戻る姿を見た。
 永倉新八である。身なりの正しい肩幅のがっちりした永倉が、人懐こく笑んだ。一の格好を上から下へと眺め、
「なんてぇなりだ」
 と、遠慮なく言った。確かに大小だけは立派に帯びているが、棒縞の着流しの裾を端折り、手拭で頬かむりしている。家中の者あるいは近隣の知人にでも見付かれば、後ろ指差されかねない姿だった。
 しかし、頬かむりしているのによくおれだと判ったものだ、と一はそのことにのみ驚いていた。
「なに、お前さんほど上背のある男はそうはいない。おまけに大小の差し方がちと変わっている。顔を隠そうがわかるさ」
 永倉は屈託なく言った。成る程、一は永倉よりも頭半分ほど長身で、いつも大小を左脇よりもやや真中寄りに携えている。
「永倉さんにはかなわんな」
 と、一はこの五つほど年嵩の男を揶揄半分に持ち上げた。だが、永倉は幕臣の倅とあろう者が袴も着けずに夜盗紛いの出で立ちとはどういう了見だ、と直ぐに詰め寄って来た。たかだか御家人の冷飯食いに幕臣とは大仰な、と一は思う。
「いや、おれの事は気にせんで下さい」
 と言っても、「同門のよしみとあっては捨ておけん。何かやむを得ない事情でもあるのだろう」と食い下がる。
「好きでやっているもので」
 と答えても、「そんなわけは無い。他言はせぬからおれにだけ本当の事を打ち明けろ」と退かない。
 押し問答とはまったくこのことで、にっちもさっちも行かないので一もまいってしまい、ついに真実を打ち明けた。
 これですよ、と壺振りの真似をしてみせる。永倉は、ぽん、と大きく手を打った。
「ああ、博奕か」
「声が大きくありませんか」
 一は露地の角に永倉の体を押し込んだ。
「済まん。しかし 博奕はいかんぞ、 博奕は」
 この男なら言いそうだ。ぎょろりと大きい眼を剥いて一を斜(はす)に睨む。下手な言い訳をしようものなら、小半刻は説教されかねないので、一は唯ただ黙して頷いていた。
「おれもお前の気持ちはわからんでもない。何せこう見えても思い詰めれば後先考えぬ性格でな。つい若気の至から松前屋敷を逐電してしまった」
 聞きもしていない身上話がはじまったところで、一は少し伸びた無精髭を弄ってみたり、そわそわと往来を眺めてみたが、永倉はいっかな気付く徴もない。一時は飯を食うにも困って業物を質に入れようと考えただの、少々はお前のように遊ぶ金欲しさに 博奕に手を出そうと思ったのだ、などと延々と語るので、さしもの一も痺れを切らした。
 手拭を解いて帯にちょいと挟むと、永倉を置いてすたすたと歩き出す。
「おうい、今月のうちには一度は道場に顔を出せよ」
 背をどやしつける永倉の大声に、一は微かに肩をすくめて見せた。

 道場は、市ヶ谷御門前の坂を上り、尾張家の堂々たる屋敷塀を右手に曲がるとまた坂がある、その先にあった。かつて銘々の旗本屋敷が連なっていた一隅に構場する、その号を「試衛館」といった。
 山口一は、そこで初めて永倉新八に会った。
 一は生来口数が少ないほうだが、かといって物怖じもしない。学問は面倒がって真面目にやったためしがないが、剣を握ってはどういうわけか人一倍冴えた。幼少から色白で痩せ肉のくせに背は高く、近所の子供を圧倒するませた腕を見せ付けてきた。腕試ししようと絡んできた少年達を、荒々しいまでの自己流剣で裁き倒す。
「ふん。北辰一刀流目録?真剣勝負で生きるか死ぬかに流派が要るものか」
 そう嘯く一は、江戸中の道場を渡り歩いた。目録や免許は持たない。
 つい半年ほど前、「試衛館」という道場の噂を聞き、入門を願い出た。ほんの軽い剣術修行の気持ちで足を運んだに過ぎない。何しろ、試衛館の天然理心流といえば殆ど無名の田舎剣法、という噂もあったからである。
 しかし、道場主である近藤勇という頬骨の張った男は義気にあふれており、何となく人を惹き付ける鷹揚な雰囲気と教養があった。食客部屋に居付いている連中もそれぞれ異彩を放っていた。武家の子息の集まりは何処となくお互いを窺うようで好きになれないが、試衛館にはその煩わしさがないのが一の気に入った。
 もともと士分であった永倉や、名門千葉道場にいたという山南敬助らも集まっていることを見れば、それはありありと伝わってきた。
 ところが、このところ一は市ヶ谷どころか他の道場を物色する暇さえも無かった。
 飲み屋に寄って一杯引っ掛け、あたりが暗くなったところで九段下に帰った。塀越しに家の中を窺いつつ、一は尻端折を直した。だが、
「何の真似だ、その格好は?」
 詰るような声に振り向くと、兄の廣明が立っていた。書物と思しき風呂敷包を抱えた姿を見るに、学問所からの帰りである。
「兄上、お帰りなさいませ」
 白々しく頭を下げると、廣明は呆れたように眉尻を下げた。
「それでは母上にお叱りを頂戴するだろう。私の後から入りなさい」
 一は兄の進言に従うことにした。前を行く兄は、永倉と同じ程の中背で、やや丸顔に切れ長の目の柔和な面差しである。中高の面長で、端正であるものの何処か荒削りな感じの残る顔立ちの一とは似ていない。廣明は幼少より算術に長けていて、今は本間某という先生の家塾に通っている。とても一と年子だとは思えない落ち着き振りだ。
「ただいま戻りました」
 朗々と張りのある伸びやかな廣明の声で、談笑していた母の満寿(ます)が茶の間から顔を覗かせた。向かいに若い女が座っている。
「御挨拶はどうしました?」
 満寿はさらに咎めるように、続けた。無論、廣明にではない。こっそり兄の後から狼のようについてきた一を目ざとく見付けて言ったのだ。
「母上、ただいま戻りました」
「袴はどうしたのですか?手拭など帯に挟んで不恰好な」
 満寿は唇を歪めて、一を窘めた。若い頃は器量良しと謳われたらしい満寿の口元に、くっきりと中年女の皺が刻まれている。廣明には満寿の面影があった。
「奪われたそうです、喧嘩に巻き込まれて」
 廣明が言った。一は渋々頷いた。が、口を開くと滔滔と弁明が噴出す。
「大川橋のたもとで道場の知人に会いまして。『山口君』と急に言われたものですから、咄嗟に振り返りましたら、こう、やくざ者みたいな人相の悪い男と肩がぶつかって、いちゃもんを付けられたのです。永倉さんときたら、短気な人で、おれを庇ってそのやくざ者に啖呵切ったもんだから……」
 一はでっち上げを喋った。
「おれは面倒臭くなってきたんで、掴まれた袴を脱いで、この際武家のたしなみはやむを得ん、往来で刃傷沙汰はまずかろうと、逃げてきたわけです」
 すると、渋面を作っていた満寿は首を傾げてあっさりと、こう言った。
「嘘仰いな」
「は、母上」
「お前がそうべらべらと方便を言う時は、十中八九嘘に決まっています」
 唖然と顔を見合わせる兄弟をからかうように満寿は言い、一息吐いて茶を啜った。
「廣明。お前も一の悪ふざけに付き合っていてはいけません」
 満寿はきっ、と鋭く廣明の顔を見据え、そうして再び正面の娘の方を向き直ると、にこやかに笑んだ。僅かの隙に般若顔を一体何処に仕舞ったのだ、と一は早業に感心した。
「ねえ、織江さん」
 若い女が廣明と一のほうを振り向いた。お邪魔しております、と静かに頭を下げる織江に向かって、兄弟も頭を下げた。
 織江は丸顔で、やや顎の尖った今風の顔立ちだ。聡明な感じのする美人だが、少々色気が足りないのではないかという印象を一は持っている。年は一より二つ下の十七になるという。
 妙齢の武家の娘が他家に出入りしているというのも、つまり織江は廣明の見合相手であるからに他ならない。
 織江は、くすくすと声を立てて笑ってしまったことを恥じるように、すみません、と可憐な声で詫びた。一は己の不恰好さに、俄に羞恥心が沸き起こるのを覚えた。挨拶もそこそこに踵を返すと、廊下を奥の間へ急いだ。ゆくゆくは嫂(あによめ)になろうという織江には、会った時から何処か引け目を感じる。
 母のお小言は、まだ廣明に向けられているようであった。
 不在がちな父や兄は兎も角、口煩い母にこの上まだ女手が増えると思うと、肩身が狭い。部屋住みの身とはそういうものである。只でさえ、十九にもなってぶらぶらと放蕩息子のように出歩いてばかりで、と満寿には言われ続けている。いずれ養子か仕官の道、と一は言ってみせるものの、本心ではどうでもよかった。世情は徳川三百年だのと夢のように謳うほど暢気ではない。桜田門外で堂々と大老が斬殺され、黒船だのメリケン人だのと夷狄がこぞって押し寄せようとする物騒な世の中なのである。太平も禄もあったものではない。尊皇だ攘夷だとやかましい昨今、仕官の道も一歩間違えばどうなるやわからない。
 すべてはなるようにしかならん、と一は胸中呟いて離れの一室に寝転がった。

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