(二)
厠へ行こうとして廊下に出た一は、塀越しに小石が投げ込まれたのを見た。慌てて、また着流しのまま裏口から辻へと抜け出る。露地を一つ右に曲がり、坂に差し掛かる手前に織江の後姿があった。
「如何でしたか?」
縋るような目付きで織江は一を見上げた。小柄でいかにも華奢な織江を見下ろす長身の一に、微妙な顔色が浮かんだ。
「いや。織江どのの仰るような人物は見かけなかった」
一は腹蔵なく答えた。そうですか、と織江は素っ気無く言ったが、桜貝のような小さな唇から溜め息が漏れる。当然だ、と一は思ったがそれは口に出さなかった。
「裏店
(うらだな)のやってる賭場にもぐりこんで、人探しをしようなんてどだい無茶な話だ。賭場もいったい江戸には幾つあるかわからないってのに」と、一は言いたかったが。
廣明の元へ織江との縁談が持舞い込んだのが、確か桜の頃だったので半年近く前になる。何の前触れもなく、やはり出張から戻ってきた父・祐助の持ってきた話で、山口家にとってみればまさに天から降ってきたようなものだった。
というのも、織江は会津藩江戸留守居公儀人、澤崎主馬
(しゅめ)の息女だからである。公儀人といえば少なくとも禄高百五十石は下らない。山口家は御家人とはいえそれまでは明石藩の足軽に過ぎず、祐助の代で株を買った俄侍。所謂「抱入」の扶持米取で、貧乏侍の典型だ。五十俵もあるかどうか。それでも知行はないにせよ、最下級に比べればましな生活である。大藩の藩士から嫁を貰うというのは、まったくもって稀有なことといえた。
縁談を聞いて最も喜んだのが満寿であったのは言うまでもない。
一はといえば、己が部屋住みということもあってか、何となく胡散臭い縁談だという感じを覚えていた。
或る日、織江から、
「御相談があります」
と、築地の厳かな料亭に呼ばれた時、その疑念は一の中で固まった。ただ、ゆくゆく義姉になろうという人の気障りになるのはまずかろう、と不承不承膝をつき合せることにした。
用意された二階の座敷に入ると、織江は四半刻も前からそうしていたかのように、一糸乱れぬ正座で襖が開くのを待っていた。真っ直ぐに一を見据えたまま、軽く頭を下げた。
膳の上に八寸が並べられ、座敷に二人きりで取り残されると、織江の白粉の匂いがいやに強く感じられて、一は咳払いした。
「よろしいのですか?」
と、一は率直に訊いた。
「兄者を抜きにして、おれに相談事などと不都合ではありませんか?」
すると、織江は優雅に孤を描く眉尻を上げて笑った。
「廣明さまにではなく、貴方さまでなければなりません。他言はしないとだけお誓い下さいますか」
問い掛けでも同意を求めるでもなく、強請である、と一は感じた。雄藩の上士の家で育った令嬢らしい気の強さだろうか。品格も物言いもあらためて見ると、此方の肩身が狭くなるほどに絶対的なものがあった。こんな女を嫁に貰うとますます兄上の頭が上がらんだろうな、と思いながらも他人事である。
しかして頼み事にしろ相談事にしろ、厄介事には違いない。座敷に入った時、一瞬おれに気があるのかな、と考えたことは酷い思い違いだと一は深く反省した。
織江は、一が「承知した」と答えるや否や、
「人を探して頂きたいのです」
と、言った。
「治之助という男です。年の頃は六十ばかり、背は私より少し大きいくらいで、恐らく白髪頭でしょう」
「ひどく大雑把な特徴ですな」
一はずけずけと言った。織江は少しむっと厳しく目を吊り上げたが、一の嫌味は無視して流したようだった。
「額の真中に丁度、文銭ほどの丸い凹みがあるのです。何でも赤子の頃近所の悪戯小僧に箒の柄をぶつけられたそうで」
経緯はどうでもいいや、と一は思いつつ折角運ばれてきた酒を飲まない手は無い、と徳利に手を伸ばした。山口家では父・祐助も廣明も下戸なので、飲まない。大っぴらに飲めるのが一の本日唯一の収獲といえた。
「で。何処を探せばいい?めくら滅法に江戸中駆けずり回るのは要領が悪い」
すると、織江は遠くを見るような目付きになった。
「……さあ、心当たりはありません。けれど、治之助は若い頃江戸で中間
(ちゅうげん)をしていたといいます。その頃の仲間をあたっているか、或いは博奕などやっていたという覚えはあります」
それにしても頼りない手掛かりである。
「あと、多少剣術の心得があると聞きました」
「賭場に出入りしていて、ヤットウの心得か。まさか六十で道場破りをしてるとは思えんが」
一は漸く合点が行った。博奕に剣術ときては、廣明に頼み込んだところで無駄である。
だが、話はそれきりで、あとは次々に出された料理を食しつつ他愛もない話を少々交わして、一は九段下に帰った。酒が美味かったことだけは舌が覚えている。
それがひと月ほど前のことだった。
いったい、治之助という老人は何者であるのか。織江とどういう関係があるのか明かされず、兎に角探せと言われてあちこち賭場を梯子したのだが、一向にそれらしい人物を見掛けない。おまけに一自身、別段博奕が好きなわけではない。適度に負けて、適度に元手を取ったところで引き際にすることくらいは心得ていたが、いつ何時仕切っている連中から睨まれないとも限らない。知り合いでも来ていたら、そっちの方が面倒であるし、今晩も莫連みたいな格好を満寿に咎められてしまった。
織江は一の心情を見抜いてかどうか、唇を引き結ぶと、しっかと向き直って言った。
「どうか今一度お探し願えますか」
はぁ、と一は小さく呟いた。見上げる黒い瞳に思えず胸が騒いでしまったことで、虚を突かれた。織江の目付きはひと月前以上に鬼気迫っていた。
「成る程切羽詰っておいでのようだが―そもそも治之助とやらの素性も織江どのとのかかわりも知らんでは、何だかやり難い」
一がそう答えると、織江は柳眉を逆立てた。
「貴方さまには治之助を探して頂くだけでいいのです。余計な詮索はお慎み下さい」
一は鼻白んだ。なんとすさまじいじゃじゃ馬だ。だが、言ったあとで織江はしまったと覚ったらしく、軽く咳き込んで俯いた。
「……兎に角、私にとっては大事な人なのです。会えば貴方さまもおわかりになられましょう」
そんなものかな、と一は思いつつ、結局は織江の再度の頼みを承諾してしまった。提灯が遠ざかっていく様を、ぼんやり眺めつつ一は感慨深かった。
「やはり兄上にはああいう女子は厳し過ぎるのではなかろうか」
余計な御世話である。
時刻は七つ(午後四時)を廻ったばかりだが、小さな道場の裏庭にはまだ昼間の熱気が籠もっていた。一つある汲み上げ井戸の周囲に二、三人の若者が居て、水を使っていた。厳しい稽古をやり遂せたという達成感からか、青年達からは闊達な笑声がよく出ていた。
「久しぶりだなあ。やっと顔を出したか」
近寄ってきたのは、永倉新八だった。諸膚が赤く火照っており、濡れた手拭で端念に胸元を拭いながらだった。一はそそくさと袷の襟元を正しつつ、永倉に会釈した。
「あれはまだやっているのか?」
だしぬけに訊かれ、一は一瞬面食らったが、ああ、と呟いた。「あれ」と言ったのは他人の耳を憚ってのことで、永倉の脇には食客の原田左之助がいた。原田は一を見ると、興味ありげにお茶目な笑顔を作った。この男、永倉と同年代で男振りはいいのに豪胆というか、一言で言えばやんちゃである、宝蔵院流の槍使いで、一はそれゆえに一度も手合わせした事が無い。
「あれって何だよ」
「お前には関係ないぜ、左之」
永倉が遮る。
「いや別におれはあれが好きでやってるわけじゃないんで」
一はそう言い残して裏庭を出た。永倉のお節介はのらりくらりとかわせても、原田のようなやかまし屋が首を突っ込んでくると面倒なので逃げるに限る。要するにこの男達は剣術のこと以外、暇を持て余して仕様がないのだ。
少々遠いが深川古元町に数件賭場があったな、と思い、一はとぼとぼと東へ向かった。
中川の土手を歩いていると、秋の薄紅を差したような鱗雲が美しく、無粋な烏の二、三羽が塒に帰る様にも風情がある。が、似つかわしくない野卑な群声が聞こえてきた。
近所の子供らかと思ったが、それにしては声が太い。最初は通り過ぎようと思ったが、一は誘われるようにして土手を下った。
すすきの群生を掻き分けて、河原へ出た。
数人の男達が犬を追っていた。男は三人、野犬らしき赤犬一匹。
「大小差した奴輩が野良犬一匹に何事だ」と、一は呆れた。見るからに痩せ細った疥癬だらけの赤犬に抜身をひけらかしている。試し斬りをしようというのか。
だが、様相は転じた。
赤犬を追って一人の老人が出てきたのだ。殆ど通風病みのようによろぼう老人は、鬢を乱し、砂利に手を突きながら犬を庇った。その仕草に、一はふと老人の本来の身の軽さを感じた。
「そこをどけ爺さん」
「まさかその小汚い犬はお前の犬ではあるまいな」
甲高い笑声が上がる。どうにもそれが一の気に障った。黙っていた一人の侍が、一の気配に気付いて振り返った。
「何者だ」
一は答えなかった。
「お前が実の飼い主か?それとも爺さんの飼い主か?」
笑声が再びどっと沸いた瞬間、一は柄に手を掛けていた。それが答えだった。
「何処のどいつかは知らんが、やる気か小僧」
三者三様の面つきで、何れにも余裕があった。一と似通った年代と思われるが、食い詰めた浪人衆ではなく身なりがいい。血色も良ければ自身の程も窺い知れる。こいつ等、どこぞの藩士だろうか、と一は思った。一に比べて遥かに上等の袷袴に業物を構えている。
「いや。その犬、おれにも斬らせてくれ」
ほう、と三人が顔を見合わせた。一は犬を覆うようにして背を丸めている老人の前まで歩み出た。と、侍たちの方へ振り返って鯉口を切った。
「その前に犬より鈍そうなおたくらを試し斬りして、刀をならすとするか」
既に抜身になっていた男の刀が振り下ろされる。一ははばき三寸で返した。耳元で風が走る。頬を軽く傾けて二人目の刃を避け、左に出ると軸足を変えて一撃、男の右手の親指付け根をさっくりと裂く。
あっと叫ぶ間に同じ動作を二回繰り返し、これであっさりと勝負がついた。三人の侍は刀を一様に取り落とし、斬られた指の付け根から血を滴らせている。
「貴様、何処の道場の者か知らんが覚えておれ。只では済まさんぞ」
男達は口々に罵りながら土手を駆け上がって行った。これこそ負け犬の何とやら、と一は刀を収めて老人を見た。怯えているではなく、何か奇異なものでも見るような目付きで老人は一を見上げていた。
「案ずるな。年寄りを虐めるほどおれは暇じゃない」
と、一は仏頂面をして言った。老人は首を振る。
「そうではない。あんた見事な腕じゃの」
素人目にもそうとわかるのか、と一は思った。我ながら大した自信だが、振り下ろした一撃で利き手の自由のみ奪うというのは生半可な技ではない。鳥の羽毛が触れたか触れぬかほどの手ごたえしか、使い手は判らないので。
「返り血を浴びるような下手では無粋だ。江戸っ子がすたる」
生意気に一は言った。薄暗くなり行く空の下でもう一度老人の顔をよく見ようとして、一ははっと息を呑んだ。老人の禿げ上がった額の真中に、文銭ほどの丸い凹みがあった。
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