(三)
「ところがその老人『わしは治之助などという名前ではない』と言うのです」
一は居酒屋の暗い部屋に落ち着くと、織江にそう告げた。
早い時刻で、町人等の座る土間には誰もおらず、座敷のほうにも他に一組いるだけだった。まだ行灯に火が入っていない。格子から入る日の光が傾きかけていた。
若い娘のあまり出入りするような店ではないのだが、内緒話には都合が良い。それと、織江に対するささやかな意趣返しの気持ちもあった。存外、織江は肝が据わっているとみえて、黙って付いて来たが。
「でも確かに額の凹みはあるのでしょう?」
「はい。ですが徳蔵と名乗っています」
織江には覚えのない名前のようだった。一はくい、と一杯冷酒を呷ってから顔を上げた。
「一度会ってみますか?」
織江は神妙に、はい、と頷いた。居酒屋を出て、織江とつかず離れずの距離を保ったまま、一は歩き出した。
「そうは言ってみたものの、あの偏屈じじいが会ってくれるだろうか」
ふと思う。徳蔵と名乗った老人は、中川の畔に粗末な掘立小屋を立てて住んでいた。一はやはり額の凹みが気になって、暫く徳蔵の様子を窺っていた。徳蔵は河原の一隅で焚火をし、残飯らしき寄せ集めの飯を赤犬に与えていた。先刻来、ずっと後をついてきた一を最初は鬱陶しそうに睥睨していたが、やがて夕餉の支度をしながら言った。
「物乞いの暮らしがそんなに珍しいか?」
「いや」
と、一は答えた。「おれもいずれ似たようなものさ」
徳蔵は、けっ、と唾を吐く。
「あんたが浪人だかお尋ね者だか部屋住みだか知らんが、士
(さむらい)はさむらいじゃ。腐っても武士なのじゃよ」
「武家に何ぞ恨みでも?」
一は赤犬の横にしゃがみ込んだ。徳蔵は口欠けの徳利を傾けつつ、鼻を鳴らした。こんな生活の何処に酒を買う余裕があるのか、と一は訝った。残飯と同じ経緯なのかもしれない。
「おれのうちは抱入の株を買った俄侍だ。母親は武家の奥気取りで口煩くて食い物にがめついが、川越の百姓の娘だしな。今の世の中侍だの何だの、本当かどうかなんてわかりゃしない」
一は赤犬の頭に手を置いた。人の手が触れようとすると、怯えている。余程今までに酷い目に遭ってきたようだ。
「さっきの若僧たちじゃよ」
徳蔵は忌々しそうに言った。
「市ヶ谷あたりの旗本屋敷の小倅どもでな。この先の古元町の賭場に入り浸っとる。今日はさんざか銭をはたいたらしくての。憂さ晴らしにアカを斬ろうとしたんじゃ」
徳蔵は光る目で茜空を睨み、ふと赤犬に視線を移した。
「爺さんも博奕を打つのか?」
「いや、わしは……」
徳蔵は言い澱んだ。賭場の親分と昵懇なので、時々酒を貰いに行く、と小声でいい訳じみたことを言った。
「わしのことはどうでもいい。あ奴らのことじゃよ。何日前だったかのう……」
徳蔵は赤ら顔で一を見た。酒が入って饒舌になってきたらしい。
数日前、夜更けに中川の土手を上り、徳蔵はいつものように飯屋の裏を残飯貰いに歩いた。近頃は、只の乞食にしては言葉遣いも丁寧な徳蔵に同情してか、わざわざ宴会の残り物を用意しておいてくれる店もあった。
「徳蔵さんももう少し腰がよけりゃあ働き口があるのにねえ」
と、鱒屋の下女おたみという女はいつも言う。その鱒屋の勝手口を出て四辻を曲がった時のことだった。
砂地をじゃりじゃりと踏み荒らすような音がしたので覗いてみると、人影があった。三つの影が一つの影を取り囲み、何か青く光ったかと思うと、その影が屑折れた。三つの影が遠のいて行っても、暫く徳蔵は動けなかった。見てはいけないものを見てしまった気がしたからである。漸く我に返り、駆け寄ってみると町人風の男は一人倒れていた。
徳蔵は慌てて男の脈を探ったが、既に息は無かった。首筋から袈裟斬りの一刀で絶命していた。
「その男、ちょくちょく賭場に来とった。懐をさぐったら財布が抜かれていたな」
「辻斬りが旗本の倅どもの仕業だってのか」
「顔は見えなんだが、恐らくそうじゃろう」
徳蔵はそう言ったあと、また、むっつりとなった。赤犬は満腹になると河原の上に伏して眠り始めた。
「だが、二三日は奴等刀を握れまい。治ったとしても以前のように使えるかどうかな」
一は得意気に言った。
「悪いのはあ奴らじゃが、あんたを逆恨みせんかのう」
徳蔵は最後の一滴を飲み尽くしたらしい。一が振り向いた時は既に掘立小屋の入口で鼾をかいていた。酒好きの癖に存外弱いと見える。去り際、初めは小屋の片隅に立てかけられている物に気付いた。飾りや漆はぼろぼろになり、鍔の金具も取れかけていたが、老人には不釣合いなくらいの大業物に見えた。
果たしてあの業物は、と思いながら河原までやって来た時、織江が振り返った。
「いったい、その徳蔵とやらは何処におるのですか?」
些か不機嫌な調子で言い、それから織江は大きく息を吐いた。
「疲れました」
「あの掘立小屋に住んでいるのですが、いませんな」
一は辺りを見回した。小屋に近付いてみたが、徳蔵が寝ているでもなく赤犬もいない。刀も無かった。
「いるとわからず来るなんて、暢気な御方ですこと」
織江は上気した自分の頬を掌で軽く叩き、項の汗をそっと拭った。
「探して来ましょう。きっと鱒屋という料理屋ですよ」
「お好きになさって下さい。私帰ります。駕籠を拾いますわ」
織江はぷい、とそっぽを向き、土手を元来た道へ歩き出した。一は後を追ったが、織江の足は意外に早かった。
「見付からないんで出まかせを言ったと思われたか」
一は舌打ちしたが、遅かった。何とも間抜けな己に嫌気がさす。こんな時は仕方ない、飲みにでも行くかと、一は深川方面へ足を向けた。
十日ぶりで道場に顔を出すと、原田左之助が一の肩を叩いてきた。稽古をつけてくれ、という。
「他の人はいませんか」
と、素気無い返事を返すと、原田はへらへらと笑って一に頬を摺り寄せんばかりにした。
「新八は用があっていねえしよう。近藤さんは出稽古だもんで総司が師範代やってるだろ。平助は何だか前の師匠んとこのお祝い事があってさあ。土方さんは真昼間から言えねえような処にいると思うんだけどよ、山南さんに手合わせして貰うってのもなあ。おれ、槍使いだから」
長口上は兎も角、要するに手近な相手がいないだけである、と一は覚った。襷掛けをし、防具をつけようとした時、門人の一人が道場に入ってきた。山南敬助にそっと耳打ちをする。
「さっきから妙な年寄りが道場を覗いております」
山南は色白の面を傾けた。
「様子を見て下さい」と、山南が言うか言わないかのうちに、一は木刀を提げたまま裏庭に躍り出た。裸足に草履をつっかけたまま袴の股立ちを高くとった姿で裏辻へ出る。
「徳蔵か?」
だが、既に老人の姿は無かった。今し方まで何者かのいた気配は濃厚に残っていた。一は戻ろうとした。その時、三つ四つの足音が近付いてきた。咄嗟に戸口に隠れて様子を窺った一の目に、はっきりと男達の姿が映った。中川の河原で赤犬を斬ろうとした三人だった。とすると、やはり追われているのは徳蔵か。
一は露地に出ると、小走りに走り出した。
それにしても徳蔵が試衛館を覗いていたのは、一がここに通っていると言ったからなのかどうか。訝りながら、三人に気付かれぬように坂を上り、武家屋敷の辺りへ入る。三人はどうやら散り散りになったようだ。初めは紺袴の最もいけ好かない顔付きだった男を追った。もう、徳蔵を追っているような様子はなかった。
木槿
(むくげ)の生垣が続く坂道を上り、白壁伝いにぐるりと東へ廻る。その二軒先の潜戸へと、男の姿は消えて行った。
一は茫然と武家屋敷を見回した。男の入って行った屋敷は相当な広さだ。そして成る程、此処いらは直参の屋敷ばかりである。もう少し南に下ると御徒歩組の敷地になる筈だが。四半刻もそうして様子を窺っていると、やがて物売りらしい駕籠を背負った中年女が通り掛って、一を訝しんだ。
「此処のお屋敷に何か用が?」
一は黙って首を横に振った。
「佐分利という直参様のお屋敷ですよ。そんな物騒な格好なさってたって何も出ませんて。千石屋敷だってのに、ひどい吝嗇
(けち)で」
中年女は、吐き捨てるように言って坂を下って行った。恐らく何度か勝手口を叩いたのだろうが歯牙にも掛けられなかったのだろう。一は諦めて試衛館に戻ることにした。
道場に戻ると、だだ広い板間に原田が一人寝転がっていた。行儀悪く袴を脱いで、たくあんをぼりぼりと齧っている。
「よう、何処行ってたんだよ。急に出てっちまってよお」
「済みませんでした。手合わせは」
と、言い掛けた一に、原田は手を振った。
「もういいよ。山南さんも出掛けちまったし」
このいい加減さが試衛館の連中である。一は市ヶ谷を出ると、芝三田へ向かった。各藩の江戸下屋敷が並ぶ町である。何となく往来する人々もそれらしいのであるが、一は臆することなく平生と同じ様に大股で闊歩した。空は黒ずみはじめていた。
目指す三之橋の一角まで来たものの、一ははたと困った。誰の紹介も無く、しかもどう渡りをつけて聞けばよいか考えていなかった。只単に織江に知らせねばならない事があると思ったのだが、我乍ら浅薄である。ええいままよ、と門番に近寄ったところ、
「何用だ?」
と先に見咎められてしまった。
「此方に居られる澤崎主馬様のご息女に用向きで」
一は単刀直入に言った。門番の一人が通用口から引っ込んだ。暫くして出て来たのは、初老の侍だった。どう見ても小者に毛が生えた程度の身分にしか思えなかった。大使だったら、大変な失礼を考えていることになるが、まずそんな事は有り得ない。初老の男は奥目がちの目で一を凝視するや、こう言った。
「書付もなしに藩邸に何用か?強請たかりのつもりで此処で腹を斬るだのは、御免蒙る。最近はとんとそういう不逞浪士が多いのでな」
一は、とんだ思い違いをされたものだ、と呆気に取られたが、不思議と腹は立たなかった。食い詰めた浪人がそうやって縁もゆかりもない藩の門前で騒ぎ、面目を気にする藩は已む無く多少の金を与えて追い払うというような事が頻りに起こっていたのである。
「それがし、幕臣山口祐助の倅で山口一と申す。澤崎主馬様のご息女織江様に面会つかまつりたく参りました。織江様の許婚は、我が兄山口廣明にてござる」
成る程、と初老の男は頷いた。
「確かに澤崎様は当藩におられる。しかし、ご息女はおられん」
「ご不在であったか」
男は頭を振って嘆息した。憐れな者でも見るように、一を見遣る。
「澤崎主馬様には男子しかおられんのでな」
一は膝の力が抜けるような気がした。
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