(四) 

 白桔梗の花の上に玉のような滴が散る。朝露が落ちていた。それは真剣の唸りに重なり合う葉と、打ち震わせる南天から零れていた。
「朝っぱらからどうかしたのですか?」
 満寿は呆気に取られて言った。
「見ての通りです、母上」
 一は、母のほうを向かずに刀身を抜き振るった。
 反りが浅い刀身の物打ちどころに、寝刃(ねたば)合わせがされていた。白磨きの刃では人体を斬ることが出来ない。そこで、砥石で細かな傷を予め入れておくのだが、一の刀は心持ち諸派の寝刃よりも浅目だった。薩摩の示現流などは、初太刀の打ち込みが深い分、鍔元に近いところに寝刃が合わせてある。
 たかが道場通いの無名剣士だが、端から人を斬るのに支障がないように、寝刃をつけてある。そこが一のふてぶてしさでもあるのだ。
 道場剣の達者が、真剣を振るった時に必ずしも猛者になれないことを、一は知っていた。研ぎ澄ました寝刃を使っても、打ち込む刃筋が真っ直ぐに相手に通らなければ、着物の袖すら斬れない。一は道場稽古の派手な進退は好まなかった。それゆえに、何処の道場へ行っても、上背を使っただけの至極面白味の無い打ち方をする、と評価されてきたものだ。
 本当は違う。一はいつも真剣でどう打ち込めば有効か、そのことだけを試みてきた。ある程度の腕にはなるが、それでは間合いの微妙な駆け引きや裏をかく返し技に色がない。目録にもならねば免許も貰えないので、嫌気がさしてその流派をやめた事もあった。
「竹刀は丸い。だが、真剣は薄い板みたいなもんだ。自然と有効な打ち込みが決まりきってくる。おれの太刀筋が派手じゃないのはそういうことだ。だのに、竹刀稽古で上等だから真剣でも上手いだろう、と喜ぶ阿呆どもなど相手に出来るか」
 と、いうのが一の持論だ。竹刀よりも実践的な木刀を使う天然理心流に惹かれたのは、そういう理由もあった。
 入門の立ちあいのとき、一はこう言った。
「刃引きの真剣でお願い出来ますか?」
 覚えず、道場主の近藤勇は沖田総司と顔を見合わせた。
「他派で学びましたが、私がお相手つかまつろう。多少は慣れていますゆえ」
 と、その時歩み出たのが永倉新八であった。刃を潰した真剣で立ちあい稽古という破天荒な事を言って、本気なのか単なる冷やかしなのか真意がわからない、と誰もが思った。普通の道場なら即断られるが、一の提案を近藤も面白い、と考えた。
 いざ、構えてみると、木刀を握った時よりも、一の構えは堂に入っていた。重心が低く入り、広い肩幅が窄まる。諸国を修行してきた永倉の方がむしろ斬人を重ねている経験があろう。だが、派手な立ち回りはないのに、引きはそう深くないのに、何時の間にか永倉を切先で追い詰める身のしなやかさがあった。
 永倉は、それが一の四肢の長さという天稟に拠るものと気付いた。本人はそれを知っていて、さも面白味のない太刀筋に見せ掛けているが、避けたと思えばあっさり懐に入られる。
「ありゃあ、私とは違う意味で天性の人斬り剣かもねぇ」
 立ちあいが終わった時、沖田が呟いたのを一は覚えている。
 しかし、永倉は一が人一倍努力家であることを、見抜いていた。天才ではない。沖田の華麗で烈しい剣とは違う。ぶっきらぼうで、贅を嫌う剣。面白くなさそうに剣を振るいながら、実は内に至極負けず嫌いの虫を飼っているように見えた。真っ直ぐな性格の永倉には、そういう一が面白い男に見えたのだろう。
 朝餉は、と満寿が問い掛けても一は要らないと言ったきりである。父・祐助は不在で、廣明もつい一昨日から下総の私塾に手伝いに行っている。母一人子一人というので、満寿も内心心細いのか、一に話し掛けることが多い。
「お淋しければ織江どのをお呼びすればいいではありませんか」
 一は涼しい顔で言った。
「でもねえ」
 満寿は廣明の留守にそれは気が引けるのか、珍しく気弱に答えた。
 一は内心面白い。織江が来られるものだろうか。いや此方から呼びになど行けまい。行ったところで澤崎家に織江という娘など存在しないのであるから。
 「とんだ食わせ者かもしれんぜ」と、内心毒づきながら、一は真剣を振るった。しかしどうして織江といい徳蔵といい、素性を偽るのかさっぱりわからない。それよりも一つの懸念は、指を斬ったあの旗本たちがいつ押し掛けて来んとも言い切れないことだった。そうなれば、当然山口家にはも係累が及ぶ。試衛館にも迷惑が掛かろう。いざとなれば、己が身は己で始末をつけねばならない、その一念のみの鍛錬であった。
「兄上はいつ戻られますか?」
 一は満寿に背を向けたまま、言った。
「さて如何したものでしょう。今じゃ講武所も私塾もお構いなしに攘夷だ、攘夷だと喧しくて大変らしいですよ。私にはさっぱりわからないけどねぇ」
 満寿は、黄色い紙を広げながら独り言のように呟いた。
「おれにもよくわかりませんな」
「そりゃそうでしょうよ」
 満寿が見ているのは、かわら版であった。如何にも煽情的な赤色を多く使った摺り絵が生々しい。火事の模様、近頃流行りの「やっちょる節」だのという戯れ歌、異国からきた見世物の話、兎に角猥雑なものだった。
「おれには不恰好だの何だのと叱るくせに、自分はこういう下世話な物を読むとはなぁ」と、一は些か可笑しくなった。
「黒船だ夷狄だとやんやと騒いでも、仕様がないではありませんか。私には日々安穏で美味しい御膳が頂けることのほうが大事です。ああ、そうでした」
 満寿は急に何か思い出した事があったのか、かわら版を放り出した。
「秋刀魚を買ってきて頂戴な。昨日からいつもの魚売りが来てくれないんですよ」
 一は堀留町へと向かいながら、釈然としなかった。魚河岸あたりで秋刀魚を二尾買い求め、そのまま九段下には帰らず、深川方面へと歩いた。まだ秋の日は充分にある。徳蔵に会えるかもしれない、と思った。
 土手を下ると、掘立小屋の前に徳蔵らしき老人が屈み込んでいるのが見えた。陽射しが否応無く川面に降り注ぐ。九月初旬にしてはいやに暑いほどで、早足でやってきた一の背中を少し汗ばませていた。
 果たして老人は徳蔵だったが、一はほんの一瞬声を掛けるのを躊躇った。
 徳蔵は年甲斐も無く大声で泣き喚いていたのだ。見ると、赤犬の死骸を抱えている。赤犬は背から首から切り刻まれ、朱に染まり、生臭い腸をはみ出させていた。
「奴等の仕業か?」
 一は駆け寄った。徳蔵は暫くおいおいと泣いていたが、重い腰を引き摺るようにして上げた。
「わしが出掛けとる間に来おったんじゃ……アカを膾のように切り刻みよって!」
 まるで我が子か孫の死を悲憤するかのごとく徳蔵の悲しみは、一の胸を打った。畜生の血で武士の魂である刀を汚すというのも愚行に違いないが、無抵抗の生き物しか相手に出来ない臆病者は嘲笑に値する。それにしても、執拗な奴等だ、と一は犬の死骸を土手に埋める手伝いをしながら思った。
 徳蔵は黙りこくったまま、赤犬を埋め、合掌した。一はその姿を見た時、この老人がやはりああいった大名物のような業物を所有する所以を知ったような気がした。徳蔵こそ、名のある武士だったのではなかろうか。
 最早、徳蔵が治之助であろうとなかろうと、そんな事は忘れ掛けていた。
「おかしな事は考えていまいな?」
 一は徳蔵の薄くなった頭を見詰めつつ、問い掛けた。
「犬の仇討ちをしようなんて考えないほうがいい」
 徳蔵はゆるりと立ち上がった。赤らんだ目で一を見据える。
「爺さんあんた、こないだ市ヶ谷の道場を覗きに来たな。その時奴等に追われていただろう?」
 一がそう言うと、徳蔵は否定しなかった。だが、沈黙したままだった。
「あれは本当に直参のどら息子らしいな。佐分利とか言ったな。下手にかかわりあうと碌なことがないぞ」
 左様、と徳蔵は頷いた。掘立小屋に戻るらしく、腰を擦りながら歩き出した。どうやら持病の腰痛が出ているらしい。
「じゃがな……」
 徳蔵は、暫し絶句した。そのあと、自分に言い聞かせるかのように喋り始めた。声が嗄れているのは先程泣いた所為だろうか。
「かかわり合いにならんわけにはいかんのじゃ。尤も、あの男ではのうて本当はその親父になるんじゃがのう」
 徳蔵は中川の緩やかな流れを見詰めた。秋の日がするすると下町の低い屋根瓦伝いに沈み、微風がすすき野を駆け巡っていた。一はつくづくおれも暇な男だな、と自嘲しながら腰を下ろした。徳蔵が火をおこす。其処に乾いた板切れや枯草を差し込みながら、炎が燃え盛る様子を眺めた。

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