(五) 

 某藩をほんの一時揺るがした、その事件が起きたのは弘化二年(1845)年のことである。
 時の中老、島田九太夫以下五名およびその家族が斬罪処分を受けた。反逆罪によってである。事と次第は、雄藩の名誉を重んじてか秘匿され、殆ど一般の藩士の知るところではなかった。
 小雪の散らつく初冬の夜陰に紛れ、大目付・高木小十郎らの率いる数十名の隊が島田の屋敷を取り囲んだ。
 島田九太夫という男はもともとは組頭であり、若年より才幹を発揮した為、中老へと昇進した。或いはこのまま家老職にも上がろうかと言われた男である。いずれ藩政の枢要をつとめるだろう、と誰もが信じ込んでいた。それ故に、叛逆の罪とはいったい如何なる乱心かと、事を知る者は一様に蒼褪めた。高木小十郎も、元はといえば島田の旧友である。
 島田は元来が清廉潔白の士であり、高木らが屋敷を包囲したと聞き及んで真っ先に自刃した。奥方も、子らを刺してその後を追った。
 中には抵抗した者もいたが、路上で捉えられ、のちに刑場に送られた。
「腹を召された他の組頭の中にわしの上司がおっての」
 徳蔵は言った。
 組頭と言っても、徳蔵より二十も若く、まるで親子のような年の差だった。というのも、徳蔵自身が父の代からの付き合いである。父親に急逝され、二百石の組頭を二十二、三歳で務めていたのだという。
「わしは子がおらなんでの。跡取りもなく四十を過ぎて五十石ばかりの扶持を賜っておった」
 徳蔵はつと背後に手を伸ばし、漆の剥げ掛けた大刀を手にした。一は吸い寄せられるようにその業物を見詰めた。鞘から抜かれた刀身は反りが浅く、互の目大乱れの刃文を持つ。一自身は、派手な刃文は好きではないが、拵えの無骨さが気に入った。
「組頭は藩内でも屈指の使い手じゃった。あんたと同じくらい上背があっての、とりわけ多勢稽古をよくしておった」
 徳蔵は目を細めて、往時を思い浮かべたようだった。
「わしなど遠く及ばん。それに年も年じゃからの。彼の人は若いが落ち着いた人品じゃった」
 徳蔵は含みの有る視線を一に向けた。だが、一は刀に見惚れている。むっとした顔で、徳蔵は刀を鞘に収めた。
「わしは組頭に死んで欲しくはなかった。そもそも島田様のなすったことの片鱗も知らなんだ。突如、大目付様の一隊がお屋敷を囲んだというので、取る物も取りあえず裸足で出て行ったくらいじゃ」
 組頭の屋敷へ着くと、まだ討手は到着していなかった。島田邸から逃げ出した小者などを追い回しているのに違いなかった。無礼を承知で火急の用ゆえ、門を破って一気に玄関から座敷まで駆け上がると、果たして組頭の姿があった。水裃を着け、すがすがしい顔立ちで徳蔵を迎えたのには、これには吃驚した。
 まるで苦渋の色の微塵もなかった。
「丁度よかった。介錯を願いたい」
 と、言われ、徳蔵はその場に膝をついた。這いずるようにして組頭の前に出ると、震える声で漸う訊いた。
「島田様と命運をともにされるのですか」
 左様、と組頭は答えた。ならばわしも、と徳蔵は言ったが、それは制止された。
「お前には全くかかわりのない事だ。かかわりを持ってはいかん」という、その一点張りで徳蔵は自裁を許されなかった。もとより跡継のない小禄、いつ死んでも構わないと思っていたのだが。
 組頭が自刃し、徳蔵は介錯し終えると、奥の間で白装束に着替え、乳飲子を抱いていた奥方の元へ走った。組頭が見事な最期を遂げたと告げると、二十歳を過ぎたばかりの若い奥方は、わっと泣き崩れた。そして、短刀を己が胸元に構えた。
 徳蔵は、奥方の自決を忍びなく感じて短刀を奪った。只、言葉もなくはらはらと涙を零す奥方を、徳蔵は我が娘のように抱きかかえて諭した。
「早まられてはなりませぬ。沙汰をお待ち下さいませ。貴女さまはまだお若い。それに……」
 奥方が細腕に抱えた赤子を見る。目のくりくりとした赤子は、徳蔵の顔を見ると俄に泣き出した。奥方は、はっと我に帰り、徳蔵に背を向けると胸元を肌蹴て乳を含ませはじめた。赤子は生きたい、と頻りに訴えているようであった。
「辛うじて奥方とお子は死なせなかった。しかし」と、徳蔵は焚火に手をかざしながら続けた。
 三日にわたって刑場で処刑が行われた。刑場は、普段は人が近づく事もない森一つ越えた窪地の手前、昼なお暗い河原にあった。
 罪人と刑執行の役人が何度も往復したためか、道草は踏み拉かれていた。三日目の晩に、徳蔵は刑場を挟んだ小川の対岸に潜んでいた。潅木が生い茂っていて、人が屈めば気配はわからない。
 徳蔵の願いも虚しく、組頭の奥方は赤子とともに刑場に引っ立てられた。いずれこうなることならば、自刃したほうが辱めを受けずに済んだ、と思ったかどうか、うら若い細面の美貌は能面のごとく無表情に見えた。
 自ら刃を呷る事の出来ない打首は、武士としての恥辱。また、その妻とて同じであった。
 月の出ない闇夜を選んで刑は行われる。奥方が筵の上に膝まづいた気配がした。何しろ暗いうえに目を凝らさねば見えない。いや、凝らしても夜目の弱りつつある徳蔵には酷だった。
 「やあ」という掛け声が掛かった時、徳蔵は駆け出した。
 浅瀬を飛ぶように走り、刀を抜きざま警備の者に斬り掛かる。そして、奥方の腕の中にいた赤子を奪った。既に奥方の美しい首は筵の上にあった。
 徳蔵は何人かを斬り付け、森を抜けて走りに走った。幽鬼が赤子を攫って逃げ去るかの姿であったに違いない、と後でそう思った。己自身何を思ったかわからないが、せめて子供だけは助けたいと思ったのだろう。
 徳蔵は、刑場に赴く前に既に長年連れ添った妻に離縁状を残し、少しばかりの蓄えを置いて出てきた。警備の者を数名斬り付けている以上、おめおめと藩に戻るわけにはいかない。覚悟の出奔であった。
 生温い夜気の中を、兎に角南へ歩いていると、赤子がぐずり始めた。褓襁(むつき)が濡れているか、腹が減ったか。徳蔵は困り果てた。赤子に与える乳などない。かといって、城下をうろつくのはまずい。まさか家に戻るわけにもいくまい。しかも妻に乳が出るわけでもないのだ。途方に暮れながら、追手が来はしまいかと、目をきょろきょろさせながら歩いていると、ふと若い男に呼び止められた。
「夜更けに赤ん坊を抱いて、どうかなされましたか?」
 見ると、まだ二十四、五ほどの浪人風の男だった。徳蔵は追手でないことに安堵したが、こんな若者に頼るわけにはいくまい、と思った。どうやら旅装のようであるし、と徳蔵は背を向けた。
 すると、若い男は言った。
「何ぞ訳ありのようですね。しかし、そのように血の臭いを芬々とさせていては赤子がむずかるのも無理はない」
 徳蔵はぎょっとした。見かけによらず若い男の目は鋭かった。
 取りもあえず、男の泊まろうとしていた旅籠に入り、徳蔵はしかじかの事情を掻い摘んで話した。すると、若い男はこう言った。
「しからばこの子、それがしに預からせて下され」
「左様なこと。いきなり見ず知らずの御方に押し付けられるものではござらん」
 いや、と男は徳蔵の言葉を遮った。
「あなたは何処の馬の骨と知れない私に正直に事情をお話くださった。妻が丁度二人目を産んだばかりなのです。まだ一年経っておりませんゆえに乳も出るだろう。私は、子は何人いようと構わない」
 そう言われて、徳蔵はこの親切な男に赤ん坊を託すことになった。人買いではなさそうであるし、生業はよくわからないのだが、人品卑しからぬこの男なら大丈夫であろう、と。
 焚火が燃え盛っている。徳蔵は業物を収めた黒鞘を撫でながら、
「この刀はその時、組頭から頂戴したものじゃ。もとは殿の御前試合にて頂いた拝領物だと仰られた。わしの身に余る大業物じゃ」
 一は、じっと徳蔵の顔と刀を見比べた。
「これが欲しいか?」
「おれの腕なら見合いそうだ」
 と、一は自信ありげに言った。徳蔵は、大きく息を吸い込んで「馬鹿者!」と、一喝した。
「この刀には組頭や奥方の無念が籠もっておる。そう簡単には譲れん。真剣勝負に自信があるのかどうか知らんが、大体、あんなどら息子どもをちょいちょいと軽くいなした程度では心許無いのう」
 徳蔵は嘯くように言った。この間は見事な腕だと言ったじゃないか、と一は鼻の穴を広げた。
「剣とはなあ」
 徳蔵は目を光らせた。
「技だけではない。よく言うが、心と体で組になる。それから業じゃの。あんたには技と体はあるがの、まだまだ経験もなければ業には程遠い」
「業とはどういう?」
 一は真顔になった。徳蔵は、ややあって、
「……あんた、人を斬ったことはあるか?」
「ああ」
「殺してはおらんじゃろう。傷を付けるのと剣で人を殺めるのとは違うぞ」
 徳蔵は低く押し殺したような声で、言った。
「殺さなければ、己が死ぬ。その狭間で見るものは、道場剣をひけらかしているようなものとは訳が違う」
 一は、初めて真剣を握った時分を思い返してみた。いつも稽古で木刀や竹刀を真剣に見立てて打ち込む己の姿を思い描いてみた。理屈では、常時上手く行っている筈だ。
 だが、徳蔵のいう境地とは全く別のもののように感じられた。ふと、右手の重みを思い出した。秋刀魚二尾が所在無さげにぶら下がっている。今更急いで戻ったところで、満寿のお小言が飛んでくるのは必定だった。

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