(六) 

 赤犬が死んだ日から、一は徳蔵の言う「業」というものを思い詰めるようになった。
 やたらめったら剣を振り回しただけで会得出来るものではない。ぼんやりしていても仕方が無いので、縁側でぼっくいを削りながら考え事をする。小刀を持つのは久しぶりで、うっかりすると手元が狂って刃先が左手指に何度か刺さった。
 あのあと、徳蔵が一に語った事がある。むしろ、そのことが徳蔵自身にとってはより深刻な問題であったといえよう。
 徳蔵は赤子を預けたあと、暫く城下に潜んでいた。闇討の中に乱入して藩士を斬ったという科(とが)を考えると、一刻も早く他国へ出るのが安全だ。しかし、徳蔵は事の真相を全く知らない。知らないまま、組頭を死なせたことが重くしこりのように胸に蟠っていた。是が非でも真実を突き止めねばならぬ、という一念で徳蔵は潜伏していた。
 無論、あの晩から着の身着のまま無一文、乞食のように残飯を漁って過すしかなかった。人足仕事で糊口をしのごうにも、面が割れてしまう。凍れるような底冷えのする冬の夜空の下、何度我が家を恋しく思ったか知れない。
 氷も溶け出した或る日、徳蔵はふと川べりで誰かに呼び止められた。
「木原ではないか?」
 声は、かつての同僚である滝口兵衛のものであった。木原は徳蔵の姓である。徳蔵は、躊躇ったのちに頷いた。滝口は信用するに足る人間であるし、他言はしないだろうと判断した。
「おぬし、まだご城下におったのか。見付かったら只では済まされんぞ」
 滝口は、徳蔵を百姓家の裏へと引き入れながら、小声で言った。
「本当の事を突き止めるまでは、離れるわけにはいかんと思うたのだ」
 と、徳蔵は打ち明けた。すると、滝口はそれまでに無かったような、強張った表情を見せた。
「わしも詳しい事はわからん。だがどうやら、近頃上の方のお考えがまとまらなくなっていることに、かかわりがありそうなのだ」
「島田様はそれに異を唱えて、腹を召されたというのか」
「いや。殿の御前に建白書を奉ろうとしたのだ。我が藩は家訓の示すとおり、藩祖様以来、神君第一、幕府を尊び助けることを培ってきた思想がある。内容のことまでは知らんが、恐らくは藩政の今後に関わる、或いは幕府のご意向に叛くようなことを進言なさろうとされたのではあるまいか」
 滝口は、早口に言った。徳蔵は、血の気が引いた。
 だが、問題はその先にあった。
「建白書の署名には島田様以下五名の組頭の名前があった。しかし断罪されたのは、六名とその家族ではなく、五名だったというのだ」
「断首されなかった者がいるのか」
「菅生(すごう)新之丞」
 と、滝口は声を一層潜めて言った。それから、飽くまで人伝てに聞いたことなので、定かとは言い難い、と付け加えた。
 徳蔵の脳裡に菅生の顔が浮かび始めた。頬がやや下膨れた、一見気の弱そうな男であったような気がする。年の頃は徳蔵よりは十七、八は若かっただろう。三十にはなっていなかった。組頭の一人である。普段、非番の時は登城しない平藩士では、上役の顔は滅多に覚えない。まして組が違う上士の顔など知る由もないのだが、菅生とは不思議と二、三の面識があった。
 徳蔵の中で目まぐるしく思考が働いた。
 つまり、島田九太夫と他五名は、藩に建白書を提出しようと密約を交わしていた。それは藩政を揺るがすようなものであり、各々がそれなりの厳重な処罰を受けかねない覚悟を要する内容である。かつて組頭であった島田と五名らの結束は固かったと思われたが、建白書がしたためられた直後、内部に裏切りがあった。
 それが菅生新之丞に違いない。
 菅生の裏切りによって、島田以下五名とその家族等は死んだ。徳蔵の掌に、まざまざと介錯の感触が甦る。
「して、菅生は今何処に?」
 待て、と滝口が徳蔵の肩を抑えた。
「早まるな。まだ菅生が仕業とは決まっておらん。それに、菅生はもう藩にはおらんぞ」
 滝口の言葉が、徳蔵を凍り付かせた。
「どういう事だ?」
「菅生は細君を亡くして一人身だったのでな。この春縁故のある旗本のところへ婿養子に迎えられたそうだ」
 この時から、徳蔵の長い旅が始まった。江戸の旗本という旗本を探り、菅生新之丞を突きとめ、真実を語らせるまでは。
「出入旗本、佐分利次郎右衛門こそ菅生新之丞である」
 このことを知るまで、十数年掛かった、と徳蔵は遠い目をして言った。紆余曲折あってのことだろうが、長過ぎる年月だ、と一は思った。
「問い質したとき―もし思い違いだったならどうする?」
 一は訊いた。仇討は禁じられているし、出入旗本といえば、千石取りではないか。大名との付き合いもあるし、何にせよ厄介だ。それにしても、菅生という男は同僚を売って、大層出世したものだ。
「いずれにしても斬る」
 徳蔵は静かに答えた。眸の奥に暗い業火が点っているかのように、一には見えた。ややあって、徳蔵は弾かれたように笑い出した。
「わしの力が衰えておらねばの話じゃがのう」
 本気とも冗談とも取れない。一は黙っていた。老人の執念、いや武士の執念というものが、今ひとつ一自身には判らない。大小を手挟み、おれは武士だとそう思って歩いてきた。次男坊とはいえ、一応幕臣の倅である。しかし幕府が何をしてくれたでもない、また己も漠然と幕府のため、という言葉を思い描いたところで何一つした記憶が無い。徳蔵のような藩士だった者の方が、むしろ己を武士だと強く認識しているのではないか。そんな気がする。
「人を斬る……か。どうせ喧嘩で刀を抜くことはあっても、恐らく御公儀のためにおれが人を斬るなど、有り得んだろうな」と、一は胸中で呟いた。
 ふと、頭の上に影が差した。鬼婆の影か、と小声で振り向くと、満寿の静かな目線と合った。
「これ。いつまでそんな下らないものを削っているのです。父上のお戻りですよ」
 声音はいつになく優しかった。一家の主が戻ると、さすがの母上もおとなしくなるものだ、と一は苦笑を押し上げた。一昨日の朝はあれほどおかんむりだったというのに。
「父上が。では、本日は金目でも買って来いというわけですか」
 いいえ、と満寿はあっさり答えた。
「うちにはそんな余裕はありません。どのみちもう、あなたには頼みませんよ。父上があなたのお顔を見たいと仰っておられるのです」
 一は首を捻るしかなかった。
 父と顔をつき合わせるというのは、半年振りではなかろうか。一は祐助の、白髪が目立ち始めた髪を見詰めて思った。
「父上には息災で何よりです」
 と、一は畏まって言った。祐助は、そう堅苦しくならんでいい、と笑んだ。
「また母上からお小言を頂戴したらしいが、気にするな。あれはあれでお前の身の上を心配しているのだ」
「おれの出来が悪いからでしょう。障子貼りひとつもろくに出来ず、秋刀魚を買って来いと言われりゃ朝帰り。ヤットウくらいしか取り得はありませんが、これも今じゃ仕官の役に立つかどうか」
 一の自虐的なそれでいて楽しむような物言いに、祐助はむむ、と唸った。何か言いたいのを堪えているかのように見えた。
「その仕官のことだがな」
 祐助はおもむろに言った。
「仕官というわけではないのだが。旧い知り合いが京にいる。吉田といって、太子流の道場を開いているのだが、跡目がない。門人にもそれというのがおらんらしい。年頃の娘もいることだし、ここは一つ婿養子を取りたいと言っておるのだ」
 一は話の仔細を聞くまでもなく、あからさまに顔を顰めた。その表情が気に食わなかったらしく、さすがに祐助も顔付きを厳しくした。
「しかし父上。おれは無外流や、今は天然理心流などやっておりますよ」
「三、四年の修養を積み、無論免許を得てからの話だが」
 話はわからないでもないが、と一は自分の首筋を掻いた。江戸を出て京へ赴き、見知らぬ土地で修行して行く先がその道場の婿というのも、あまりにもあてがわれ過ぎた道筋ではないか。食うには困らないにしても、出世もなけりゃ夢もない。そこまで御仕着せの人生でいいとは、思わなかったのだ。
「考えさせてください」
 一は頭を下げた。そうして今度は、
「実はおれのほうでも父上にお耳に入れたいことがあります」
 織江のことである。一は祐助に、事の成り行きは適当に端折り、会津藩上屋敷に行ったこと、澤崎主馬に娘が一人もいないことを告げた。
 話が進むうちに、祐助の表情から笑みが引いていった。
「もしやとは思いますが、謀られているということはないでしょうか、この縁談」
 一は臆せず言った。すると、祐助はそれまで半ば蒼褪めていた頬に苦笑を浮かべた。
「まさか。澤崎様にはご養女がおられる。ご息女がおられぬ、というのはそのことであろう。第一、我が家を謀ったところで何の益があろうか」
 それもそうだ、と一は思い直した。九段下のこんな小さな屋敷に、莫大な値打ちがあるとは思えない。禄も僅少なら蔵の一つもないのだから。

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