(七)
その晩、月は雲間に見えつ隠れつしていた。稽古のあと飯屋に寄り、一杯引っ掛けてから一は永倉、原田の両人と共に歩いていた。
「永倉さんは京に行ったことがありますか?」
一はいつになく、自分から話を振ってみた。永倉は酒で赤らんだ顔を綻ばせた。
「いや。何でまた急に京のことを聞く?」
「ただ何となく。近頃、京都守護職が置かれると聞きますし、不逞浪士が跋扈しているとやらで物騒な」
と、一は本意を隠して取り繕った。
「左之、お前は?」
「さぁ、おれ大坂にいたことはあるんだがなあ」
原田左之助は伊予の生まれで、藩付きの中間奉公で江戸に出てきた経緯がある。永倉はもともと松前藩江戸用人の跡取りだ。脱藩してから諸国を修行して歩いたというので聞いたのだが、京に行っていない。例の吉田道場の噂も知らないだろう。
「成る程、世の中の一大事はおれらの好機。京で一旗上げるってえ手もあるなあ」
あとはまた原田が埒も無い喧嘩話を始めたので、一は黙って聞き役に回った。試衛館道場の誰と特に仲良くなるでもないが、いつも声を掛けてくるのが永倉、原田だった。年頃からいえば同年のはずの藤堂平助、二つ上の沖田総司らが近いのだが、藤堂の話はいつも小難しいし、沖田はどうも子供っぽくて酒も殆ど飲めないので付き合いが薄い。どうやら、自分は少し年上の連中に可愛がられるようだ、と一は思った。
まだ飲もうじゃないかということで、ぶらぶらと飲屋を探しているうちに、御城門が見えてきた。三間ほど先の四辻を、わあと歓声を上げながら、一団が小走りに向かって行った。
「ありゃ何だ?」
永倉が真っ先に気付いた。人影は呉服門を破って辰ノ口を和田倉門のあたりに走って行った。和田倉門といえば、会津藩邸ではないか、と一は思い当たった。
蓑笠を被った集団が介していた。蓆旗
(むしろはた)を立てた数十人の男達である。勤王浪士の類か何かと一らは野次馬のように四つ角からその様子を見守った。他にも見物人だちが現れる。
門が勢い開くと同時に、裸馬が姿を現した。馬上の男は黒々とした髭をたくわえた巨漢で、槍を引っ提げた姿で賊徒の中に分け入って行った。
「我は会津藩士林権助なり。汝等無礼なるぞ。我が槍を受けてみられい」と、疾呼する。
賊徒はわっと散らばった。
「すげえなあ、おい」
槍使いの原田は目を輝かせて身を乗り出す。だが、一は何となく気がそぞろになった。
馬の間を縫って、賊徒は藩邸に侵入しようとする。捕方が出てくる。一気に騒然となった。それらの様子を固唾を呑んで見ている永倉、原田をおいて、一は踵を返した。西へ出て、一橋御門の方面へ出ると、つと行き会った人物がいる。擦れ違いざま振り向くと、うろたえたように御高祖頭巾の小柄な姿が立ち止まった。
「織江どの」
織江は丸い眼をして一を見据えたが、すぐに顔をそむけた。
「如何いたした。屋敷へお戻りなら方向が逆ではございませんか?」
一は言った。皮肉も混じっていることは否めないが、女一人歩きの物騒を嗜めるつもりもあった。
「廣明さまはお戻りでしょうか?」
「いえ、日延べになっています」
と、一が答えると、織江はそうですか、とだけ言って先を急ごうとした。
「先日、澤崎様の元をお訪ねしようとしたのですが」
一は和田倉門の方角を見遣った。遠くに見えるが、騒ぎは鎮静化しつつあるようだった。
「ご息女はおられません、と門前払いを食らわされました。どういうことなのかご説明願えますか?」
織江は、はっと息を呑んだ。
「それは……」
織江は言い澱んだ。澤崎主馬の娘であると断言出来ないことで、答えは判然としている。
「それよりも、治之助のことはどうなりましたか?」
「あんたの正体も知らないで、そんな事は教えられねえよ」
一は下卑た風に言った。織江の眉尻がきっ、と上がる。
「門番の思い違いです。滅多な事はお申しにならないように」
織江の声はやや上擦っていた。花の香のようなものが、ふと一の鼻先を横切った。織江の顔がすぐ間近にあった。
「藩邸前がにわかに騒がしくなっているようです。こんな時に出歩かれてはどうかと思うが」
一は、織江の強い視線から顔を逸らした。織江は、急用なのです、と言い捨てると、早足で歩き出した。後を追うべきかどうか迷ったが、やめた。これ以上深入りしても仕様がないという気がしていた。
まだ七つにはならない。一は家に戻るのも億劫で、自然と足は深川方面へと向かっていた。
風は涼しく、明らかに日一日と深まる秋の気配を含んでいた。だが、川面は暗い。夜空を流れる黒い雲の流れは早く、確実に夜半過ぎには一雨きそうだった。
小料理屋の立ち並ぶ通りを歩いていると、不意に曲がり角から人影が飛び出してきた。一が板塀に背を当てて避けると、男達は一瞬、闇の隙間に一の顔を認めた。
ぷんと異臭が鼻をつく。血の臭いだった。胸が騒ぐ。果たして鱒屋の裏口まで行くと、露地に蹲る二つの影が提灯に照らされた。
「徳蔵」
一は駆け寄った。徳蔵は、地面に両脚を投げ出すようにして、上半身をおたみに支えられていた。白髪頭はほつれ、点々と赤いものが汚れた袷に散っていた。徳蔵の腹をどす黒い血が染めており、吐き気を催すような饐えた血臭が満ちていた。斬られたというよりは、刺されたのである。刺し突きは、一対一では決死の剣。己の身をがら空きにし、相手の懐に飛び込む。仕留め損なえば、返す刀でやられてしまう。それを躊躇い無く行えるのは、見方の手勢が多いという証拠に他ならない。先程の連中だ。
一は立ち上がり、男達を追おうとした。
だが、死んだものと思っていた徳蔵が呻き声を搾り出した。
「……待て」
震える腕を伸ばし、一の袴を掴んだ。
「喋るんじゃない」
一は屈み込んだ。徳蔵は右手に握り締めたままの業物をゆっくりと持ち上げた。血脂がべっとりと付いていた。只、やられていた訳ではなく、何度か斬り込んだのだろう。
「わしも寄る年波には勝てんのう……。昔は、四、五人相手でもどうということはなかったが」
徳蔵の奥深いところに自嘲に似た笑いが浮かんだ。土気色の頬に笑窪が刻まれる。
「佐分利の息子か」
「おう。……賭場から出てきたところを狙ったんじゃが、逆にわしのこいつを寄越せと言いおったんでの」
やはり赤犬の仇を討とうとしたのか。おたみは徳蔵の顔を見詰めながら、必死で涙を堪えていた。
「望みどおり、あんたにこれをやる。摂州住池田鬼神丸国重じゃ」
徳蔵は刀を握り締めまま、言った。一は首を振った。だが、徳蔵は刀を託す人物を認めたと同時に急に魂が抜けるように軽くなっていくのが、おたみの腕には感じられた。
「最後に教えてくれ。あんたは徳蔵という名前なのか?」
一は、徳蔵の左手を握った。微かな力が残っており、老人の冷たい指が動いた。
「わしか……わしは治之助じゃよ。会津藩士、木原治之助友則」
おたみがわっと泣き崩れた。それで、そのあとの言葉は聞き取れなかったが、一は静かに手を離した。徳蔵の右手に握られていた国重を手に取る。
血糊を拭った懐紙が、胡蝶のように夜陰に舞った。雲間からほんの瞬間姿を現した。艶かしい白月の光がが、青い刀身を舐める。
鬼神丸国重。主の血を啜った忌まわしき業物で、徳蔵の遺恨を晴らす。これ以上相応しい刀は他にないだろう。おたみと徳蔵を一顧だにせず、一は元来た道を歩きだした。恐らくどんなしたたかな辻君でさえも、今夜の一には目配せもするまい。
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