(九)

 実は、と織江は畳み掛けるように一に言った。その双眸はこれまでにない柔らかな光を湛えていた。
「閏八月に幕府の召命で会津公が京都守護職を賜ったのは御存知ですね?」
「ああ噂では」
 松平容保に京都守護職という聞きなれない話が持ち込まれたのは、七月中旬であった。この新しい職を考案したのは、幕府総裁職の、前の越前藩主、松平春嶽である。田安家の血を継ぐ春嶽は、筋金入りの佐幕思想を持つ実力者である。この人物に言い寄られては、容保も逃げ場を失った。
 折りしも容保は体調悪しく臥せっており、気もそぞろに辞退を願い出た。しかし、頻りと会津の兵力に関心を寄せ、褒めちぎり、「土津公あらせられば」と繰り返した春嶽には歯向かえなかった。容保自身、家訓を固く重んじ、東照宮の徳恩を胸に抱いていたにせよ、海軍警備あるいはここのところ立て続けに起こる飢饉によって圧迫を受ける財政も案じられた。とはいえ、「一国の利を守らんがために幕府のご意向を唾棄しようとする」誹りを受けては、容保は耐え難かった。
 非常に複雑な心境のまま、守護職を受け入れたのである。
 京を死場所とする。その覚悟であった。
 だが、いずれにしても徒手空拳で口さがない公家や不逞浪士の蔓延る京に乗り入れるというわけには行かない。そこで、京の情勢を予め知るための先乗りの役目を募った。
「死聞(しにぎき)と言います。命を賭けて主君の耳代わりとなる御役目です」
 織江は言った。藩内でも、殆ど名を知られていない人物、あるいは小禄で腕の立つ者を十数名選って京へ潜行させる。宿老、田中土佐の命で人選が行われた。
「その死聞の情報から、ふと貴方さまのことが持ち上がったのです」
「おれは処罰された人間の息子ではないのか?それに、おれの存在が……」
 一は言い掛けて、気付いた。徳蔵の口から、滝口という同僚に伝わっているではないか。
「貴方さまが忠臣、斎藤五郎太様のお子である証拠を示すよう、木原治之助を探しておりました」
 織江は伏目がちに言った。
 おれが斎藤一と知ったところで何があるのか、と一は思った。果たして、治之助はおれをあの時の赤子だと気付いていたのだろうか、そんな筈はない。
「ですが、結局はそれは上の御方が貴方さまを利用しようとしているだけに過ぎないと、わかりました」
 家老、西郷頼母の命令であった。頼母は、容保の京都守護職就任に最後まで反対した人物で旧家老である。
 守護職就任に心が動いている主君に対し、十八年前の島田九太夫の自刃の件を持ち出して、「今日会津公が在るのは、この忠臣らのお蔭である」と訴える算段だったのである。
 無論、養子になる際、そのことを容保本人が知らされているとは思えない。緘口令が無言裏のうちに家臣らに敷かれているだろう。知ったならば、容保は会津に来なかったかもしれないのだ。
「けれど、もういいのです。守護職就任は決定し、準備も進んでおります」
「何故だ?もっと早くに治之助を探していれば」
 一はやにわに身を乗り出した。堪えていた感情が、一気に噴出したかのようだった。
「おれがもっと早く斎藤一だと判っていたら。治之助を死なせずに済んだかも知れない」
 語気が強まった。織江は、ああ、と顔を手で覆った。
「お恨みくださっても構いません」
 と、織江は甲高い声で言った。
「半年も前に貴方さまにお会いしておきながら、今の今まで考えあぐねていた私をお恨みくださるのなら、それでも。ただ、貴方さまの身分が知れたところで、待ち受けているのは恐らく……」
 織江の声が小さくなった。謀反人の子として処罰を受けるのだろうな、と一は漠然と思った。織江は顔を手で覆ったまま、細い肩を震わせていた。
 廣明の許婚になってまで山口家に入り込んだのは、すべて方便に過ぎない。その為に澤崎主馬の娘と偽ってまで、女だてらに間諜のような真似をした。この女こそ苛酷な場所に身を置き続けてきたのではなかろうか、と一は心を打たれた。
 一は、つと織江の手に触れ、その貌を上げさせた。乱暴をして引っ叩かれるのではないかという危惧も無きにしも非ずだったが、織江は抵抗しなかった。年相応に恥じらいを含んだ表情を、一に向けた。
「もう、嘘はよしにしよう。貴女の本当の名前を教えてくれ」
 一は、柔らかく細い指を握り締めた。微かに握り返す力が感じられた。
「時尾。会津藩大目付、高木小十郎の娘、時尾と申します」
 織江はそう言うと、気恥ずかしそうに一の手をそっと解いた。

 深夜、茶の間を抜けて離れに戻ろうとした一の足がふと止まった。祐助の姿が其処にあった。
 振り向いた一の目には、最初咎めているのかという色が映ったが、それは思い過ごしであることにすぐに気付いた。
 沈黙が流れたあと、やがて祐助が寝所に戻ろうとすると、一の方が声を掛けた。
「おれを引き取ったのは何故ですか?」
 祐助は答えなかった。答える代わりに何処か謎めいた、途方も無く優しい笑みを浮かべた。まるで、一が己の身上を知悉したのを喜んでいるかのように見えた。
 ややあって、祐助は頬を引き締め、こう言った。
「人とはそういうものだ。いずれお前にもわかる。理屈だけではない」
 障子が閉まった。一は暫く、その薄暗い一隅を見詰めていた。
 父は物心付いた時から留守がちであった。満寿にそのことを訊ねても、しかとした返答がなく、そういうものだと思い、過してきた。しかし、高木時尾の話を聞いた今では、その理由が判然とした。十八年前、会津城下に山口祐助がいたのは偶然ではない、と。
 あの頃、会津藩家臣の間を駆け巡った噂は、端から出まかせではなかったのだ。
 だが、もともとおれに理屈もへったくれもない、思い付いた事をやるまでだ、と一は寝付くまでぼんやりと考えた。
 目覚めはいつになく爽快だった。
 いつもより一刻も早く身支度を整え、道場へ行って参ります、と言うと、満寿が血相変えて玄関まで走ってきた。
 竹皮に包んだ握り飯を一に差し出し、何やら言葉に詰まっている。
「どうかなさったのですか、母上。まんじゅうなど朝っぱらから急いでおあがりになるからですよ」
「いいえ」
 満寿は首を振った。
「どうか、体には気をつけて。お前は風邪を引くと直ぐに胃を病むから」
「何を大袈裟な。そこまで行ってくるだけですよ、いつもの」
 一は木刀を振る格好をしてみせた。そして、そのまま振り返らずに出た。どんよりと暗い空が一の肩に圧し掛かる。鈍色の雲から小雨が降り始めたようだった。朝であるのに、少しも明るくはない。握り飯の重みが懐に感じられ、一は坂を上りつつ家の方角を見た。長年暮らした狭い屋敷は、ひっそりと沈み込んだような静寂の中にあるようだった。

 男が足早に近付いて来る。煙るような霧雨の中、傘も差さずに歩いてきた一の頭上に、鈍い朱塗りの番傘が掲げられた。永倉新八の浅黒い顔が覗いた。
「朝帰りか?」
 いえ、と一は口元を引き結んだ。
「そんな色っぽい話の一つでも欲しいですがね」
 では、一丁やるか、という言葉が永倉の口から出てくるものと思っていた。甲良屋敷の真西を歩いてきた。試衛館は目と鼻の先だった。永倉のほうこそ、女郎屋帰りだとすぐにわかるほど白粉の匂いを芬々と撒き散らしている。
「すみません、野暮用で」
 と、一は軽く頭を下げ、永倉と擦れ違った。歩き出すと、再び永倉が言った。
「お前、必ず戻ってこいよ」
 一は振り返らずに頷いた。永倉の言葉を反芻しながら、先を急ぐ。連なる坂を上り、やがて提灯の明かりが近付くのを見止めると、一は袴の股立ちを高く取って襷をかけた。微かに身震いが走る。これから為す事への懼れと緊張があった。
 この坂を下って職務に向かうのは、佐分利次郎右衛門のみだと、時尾はそう言った。当然、先日来うろついてわかったことだが一般の旗本とは違って門番が常時詰めている。家中に乗り込む事は不可能であるゆえ、出退時を狙うしかなかった。
 佐分利の屋敷まで探りを入れに行った時尾本人の言なのだから、間違いはない。だが、時尾は危うく息子たちに捕らえられるところだった。その際、左腕に傷を負って下屋敷まで戻ってきたのである。
「やはり、仇討はお控えなされませ」
 時尾は、一の身を案じて言った。
「ですが。もし本懐を遂げなさりましたならば、後の事はお任せ下さりませ」
 とも、付け加えた。
 朝靄のような薄い雨の中、提灯の揺れが止まった。明かりを囲む人影は三人だった、一の存在に気付いたらしい。
 一人が誰何する。
「何者だ?」
 聞き覚えの無い声だった。
「知ったところで無駄だ」
 一は呟くように低く言い、歩み寄った。俄に緊張が襲って来た。霧雨の中で漸く、佐分利次郎右衛門の顔が見てとれた。徳蔵が言っていた人相と全く同じだったが、その血色のよい顔にさっ、と狼狽が走った。
「どういう意味だ」
 と、従者が言い掛けた時、一は鬼神丸国重の鯉口を切った。
「貧乏ざむらいが無心に参った。お命頂戴つかまつる」
 人影が一瞬怯んだ時、一は一歩踏み出した。
「賊輩め!」
 男は叫んだが、一の抜き打ちの方が早い。胴払いで薙ぎ倒すと、男はどうと地面に倒れ込んだ。
 往来での斬り合いは御法度だが、一の放った一撃が佐分利らの理性まで切り崩したようだった。名乗りもせず、真っ向からやってきた若僧は、面付きこそふてぶてしいが、命懸けであった。
 いま一人の男が顔を出す。河原で見た三人のうちの一人、佐分利の息子だった。
「父上、ここは私にお任せください」
 冷静な声で歩み出る。一は敢えて青眼の構えを取った。長身の一が大上段に構えると、崩しを掛けにくく、相手の油断を誘わないからだった。しかし、腕は小刻みに震えている。既に、一の中では人を斬殺したという得体の知れない歓喜と罪悪感が綯い交ぜになっていた。心臓は早鐘を打っている。
 佐分利の息子は思いがけず堅固な構えであった。だが、所詮は道場剣、誘い受けに弱いと見た。一はゆっくりと肘を傾ける。八双に構えを変えようと誘った時、思惑通りに仕掛けてきた。
 猛然と斬り込まれ、一は紙一重で身を交わすと、崩れた体勢に反撃を打ちかけた。
 刃先に確かな感覚があった。佐分利の息子は、左腕から血を流しつつ、「父上お下がり下さい」と、叫んだ。包帯がほどけて、以前に受けた傷が剥き出しになった。
 一は、それが敵の虚を突く陽動と知る。敵自身の身内を想起させる言葉で、ある種の狂気を孕んだ斬り合いに、隙を作るのだ。
「だが、徳蔵は誰一人助けも呼べずに嬲り殺しにされた」
 一は下段から斬り込んだ。相手の声は聞こえない。怯えた顔もただの木偶人形に過ぎない。
 佐分利の息子の剣が振り下ろされた時、一は掬い上げるようにして、脇腹を薙いだ。重々しい音を立てて倒れるのを背後に聞いたが、一は振り向かず、佐分利を見据えた。
 既に国重の刀身は赤く濡れそぼっており、一の両手首にも細かな刀傷が浮かんで血を滲ませていた。幽鬼が抜身を携えて立っているかの風情だった。
 佐分利は、むむ、と唸って刀を抜いた。そうするしかない。
「いったい誰の差金なのか?」
 誰に問うでもなく、佐分利は言った。一は答えなかった。此方から答えをくれてやらねばならぬほど忘却の彼方にあるのか、それとも敵が多いのか、一にとってはどちらでもよいことだった。
 佐分利の頬が卑屈に歪んだ。記憶が甦ったのだろうか。それは、小雨の中で歩み寄る一の顔が、佐分利の目にはっきりと映し出された時だった。
 一は微かな笑みを作った。
 そして、佐分利の胸の下を刺した。
 刀身をねかせ、肋骨の隙から心臓を抉るように一突き。佐分利の構えた刀は、僅かに一の背には届かなかった。
 佐分利は、体を震わせつつ刀を落とした。
「菅生新之丞」
 まだ虫の息ほどがある佐分利の喉元に、国重の切先を突き付け、一は言った。
「おれは斎藤だよ」
 佐分利は、かっと目を開いた。凄惨な表情だった。一は喉を突いた。地面を抉るようにして、全体重を乗せ掛け、漸く荒い息を吐いた。ねっとりとした汗が額を滴り、掌に滲んでいた。徳蔵の言った言葉がひどく重く圧し掛かってきたように感じられた。
 国重の血を拭い、袴と襷を直し、一は走り出した。
 霧雨の中、血の臭いは次第に薄れて行くだろう。しかし、汚れた手は洗い流せるものではない。また、引き返す事も出来ない。
「斎藤様がいつか会津に戻られる日を、お祈りいたします。いつか、きっと」
 時尾の声が耳元に甦った。青く澄んだ湖の彼方に秀峰、磐梯山を頂く、まだ見ぬ故郷を一は念じた。そんな事、天地驚動でもなければ赦されるわけがない、と強まった驟雨が嘲笑う。一は、中山道の宿場、板橋へ急ぐ。兎に角、西国へ行く。懐の握り飯の感触を確かめつつ、一は走った。
 
 斎藤一。この約半年後、再び永倉新八らと京で合見えようことは、思いも寄らなかった。

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