(三) 

 半年程前の春の頃。
 雲もよいの悪い夜だった。折角の月夜でありながら、雲がゆっくりと遮りまた時たま輝かしく白い姿を見せるという天候。花は散りつつあった。
 ほろ酔い加減で祇園の「岩井」という茶屋を出た松原忠司は、もう一人連れの隊士がすっかり先を行って見えなくなっているのに気付いた。
 出掛けに座敷に扇子を忘れてきたと気付き、すぐさま取って返したのが拙かった。
 如何様、泣く子も恐れる新選組隊士といっても、こう天誅が横行している昨今、夜は一人歩きなどしないほうがいい、と言われている。だが、直に追い付けるだろうと思い、松原は焦りもせずゆったりと大股に西へ向かった。
 六尺近い体躯に見合った大らかな性質である。
 芝居のはけた四条橋のたもとはしんねりと静かで、風に柳がゆらゆらと揺れるばかり。
「はて」
 ふと河原で何やらちかっと光るものがある、と目を落としてみると、人影があった。
 鴨川の水面に照り返されて、男が二人刃を交えているのがわかった。
「これはいかんな」
 と、松原は慌てて土手を下り、砂利を踏んだ。
「おい。お前ら何をしとんのや」
 一人がぎょっとなって振り返る。その隙に、もう一人が斬りかかった。かわした男は叫んだ松原の方へと寄って来た。
「そこのお人、加勢を。こいつが急に斬りかかってきよったのや」
 京言葉のようである。大坂生まれの松原にはそう判断出来た。もう一人に目を向けると、浪人者のように月代を伸ばしていた。
「何を言うか。おぬしこそ虚仮にするような事を言いおって」
 此方は余り訛りが無い。
「いったいどないな事情があるか知らんが、言い分を聞き合うてから斬り合え」
 と、松原が言うか言わないかで、浪人者は噛み付くように返す。
「こ奴の言い分など聞く耳持たぬわ。外道が」
「ふん。その外道とやらに随分と世話になっておいてからに、何を抜かす」
 京者も負けてはいない。浪人者が一歩踏み込んだ。京者がかわす。切先が袂に掛かり、袖が半ば千切れた。
「避け切れん」
 咄嗟に松原は刀を抜いた。京者の引っ掛かった袖を切り落としてやろうとしたところ、ずれた。
 僅かな差で浪人の手首を擦った。それが引き金となった。
 己の血を見てかっとなった浪人者は、松原に躍りかかった。
 松原はさすがに場数を踏んでいるだけあって、こういう男をよく見ている。
「斬られたことのない奴は己が血を見たら、あっと頭に血が上る」
 のである。
 松原は刀を捨てた。捨てて、躍り来る浪人の身体を抱きとめようとした。手首をわっしと掴み、捩る。浪人が歯軋りしながら、手を開くと刀が落ちた。
「おのれ」
 浪人は呻いたが、小具足術つまり柔術師範でもある松原の膂力にかなう筈もない。
 そのまま腕を引き寄せられて、羽交い絞めにされそうになった。
 その浪人が「うっ」と目を剥くや、急に力なくだらりと前へ倒れた。松原が支え起こすと、背中に脇差が刺さっていた。刺したのは他でもない、京言葉の青侍らしき男だった。
「何をするんや」
 松原は振り返った。青侍は険しい表情のまま、松原を睨んだ。
「怪体な事言いなはんな。刀を先に抜いたんはそっちや。返り討ちにしただけで、当方に非はあらへん」
 雅な言葉で物騒な物言い。松原が追おうとすると、青侍は一度だけ振り返った。
「おおきに助太刀」
 捨て台詞で去って行く。その時、浪人者の身体が動いた。息絶えたと思っていたが、意外に生命力があったようでもある。しかし乍ら、殆ど虫の息だった。
「……済まぬがもうおれはいけない。おれを背負って、壬生高樋町の長屋まで連れて行ってくれ」
「高樋町」
 というと新選組屯所である八木家周辺から程近い。松原も、その長屋の場所は知っていた。
「安西という表札が掛かった家へ……妻がいる」
「わかった。けど、弱気を出すのやない。あんたまだ生きとる」
 松原は力強く応え、血を吐く安西の身体を己が両肩に担ぎ上げた。
 全く妙な塩梅になった。だが、松原は逃げ去った青侍のことよりも、今は安西という男を自宅まで届けてやることに専心した。
 月の出たり隠れたり仄暗い道を大兵の体躯が早足に歩いて行く。
「死ぬな、死ぬな」
 と念じつつ、一方で「あの声色からして間に合わんかもしれん」と思いながら、小半刻もかからず松原は長屋の入り口に辿り着いた。
 門扉を開けて貰い、「安西寓に怪我人や」と言って入って行くと、格子戸が開いて女が出てきた。
「まあ、あなた」
 安西の妻が小さく叫んだ。松原は事の次第を話し、背中の安西を框に下ろした。
「医者を」
 松原が言い掛けて脈を取ると、既に安西は事切れていた。
 身体に温もりはあったが、胸の音は聞こえなかった。
「ああっ」
 妻は安西の遺体に暫し取り縋ったが、すぐに腫らした目を見開いたまますっと立ち上がり、
「お清めいたします」
 そう言って気丈に井戸まで水を汲みに出て行った。さすがに武家の妻といったところだが、実のところ余りに突然の出来事に、そうするより他無かったのだろう。
 松原が血糊のべっとりと付着した袷を脱がせてやり、妻はまるで拭き掃除でもするかのように、夫の身を丁寧に拭った。
 何故か、この妻の無心の横顔に、松原は吸い寄せられるかのように視線を奪われた。

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