(四) 

「具合はどないですか?」
 松原が顔を出したので、お雪は縫物の手を止めて、土間まで降りて来た。
「まあ、雨が降っているのですか。どうりで少し冷えると思ったら」
 松原は番傘を外に置き、座敷に上がった。
「五条橋西詰の餅屋で買うたのですが」
 竹皮に包んだふかふかの餡餅を、お雪に手渡す。
「いつもすみません。一人所帯ですのに」
「いえいえ。私もお相伴したいからですよ。何しろ、この体で酒より甘いもんが好きやと吹聴されたら恥ずかしいんで、屯所では滅多に食べられしまへんから」
 松原はそう言って呵呵と笑った。
 お雪は「そうですか」と答えて茶を入れる。
「お蔭様で、松原さんが時々美味しい物を持って来て下さるので、少し体に力もついてきたような」
 夫の幾太郎が不慮の事故を遂げてから、お雪はさすがにひと月近く茫然と寝込んでしまった。
 気から来るもので、もともと京の人間でもなく、脱藩者の夫についてきただけの女一人の身では寄る辺もなければ支えとなる親も子もない。長屋暮らしなので、何かと両隣などは付き合いがあるが、所帯のある家々は各々食うのが精一杯だった。
 京の人間は互いにかまい合うのが常だが、お雪の場合は一つ不幸があった。
 お雪がまだ若く、少し垢抜けた美人であることだった。
 折屋の蔵吉はというと、まだ四十半ばの男盛りで、年上の女房がいる。ゆえにお雪にあまりかまうと悋気を起こすし、女房自身も己が不細工なのでやっかみ半分、然程親切にしてやる気持ちもない。
 南隣は老夫婦で、もはや骨屋を引退した爺さんはお雪のような若後家に興味もなかろうが、そこの婆さんが蔵吉の女房以上の焼餅焼きときている。
 一寸井戸端で爺さんがお雪と挨拶をかわしただけで、婆さんは金杓子を振り上げて老夫を追い回すという有様だ。
「お雪さん、かわいそうや」
 親切心を起こした松原は、隊務の暇を見付けては、高樋町へ通うようになった。
 直接、金子を渡したりするのは嫌らしい。さりとて、笄や黄八丈、博多帯などの品を贈るのも何やら下心があるようで出来ない。
 縫物以上に実入りのいい仕事をすすめてもやりたいが、茶店勤めなどは可哀想だ。
 そこで考えたのが、
「なあお雪さん。私の実家は大坂天満の青物屋や。三男坊やし、もう店は長兄が継ぐことになっとるけど、よかったらうちで女中になって働いてもろたらどやろと思うて」
「けど……」
 お雪は渋った。天満の青物屋というと、割りに大きな店で、裕福な家である。そのお蔭で三男坊の忠司でも町道場に通い、剣道や柔術を学ぶことが出来た。しかし、実家に人手は足りている。無理に赤の他人のお雪を働き手として押し込むのは、如何なものか。
 「第一、そこまでして貰っては困る」という思いもお雪にはあった。
 たまたま賊に斬られた夫を担いできてくれたというだけの松原に頼める筋ではない。親切心は有り難い。松原の人柄にも好意を持っている。だが、そこまでは。
「うれしいと思うけど、あの人を裏切っているような気持ちになる」
 のである。
 そう考える事自体、既にお雪は松原に惹かれているのだろうが、お雪は必死で己を鈍感にしようとしていた。
「私一人なら、今も何とかやっていけますし」
 そう答えて、お雪は俯くのだった。お雪のそんな姿を見詰めていると、松原は「いっそ」と喉まで出掛かった己の言葉に噎せ返ってしまう。
「新選組副長助勤には、休息所を持ってもよいということになっとります。勿論、一人で居てもかまへんし、好きな女子を囲うてもよろしいとか。いや、お雪さんをどうやという不躾なことは言わへん。長屋で後家やの何やの好奇の目で見られるより、休息所に入ってのんびりして貰ろたら」
 と考える言葉の端ももどかしく、出て来なかった。
「下心やあらへんのや。お雪さんが気の毒やさかい」
 松原は己の心に言い訳するように、繰り返しその語をぶつけた。しかし、返ってくるのはやはり己がお雪にどんどん惚れていくという事実だった。
 ならば、はっきりと口にしてしまえばよいのだが、出来ない後ろめたさもあった。
「お雪さんに、本当の事を言わなあかん」
 というのが心に蟠っている。
 実は、松原はあの春の夜、四条河原であった出来事を全て話していない。
 夫の安西幾太郎は、誰とも知れない浪人者に斬られたのを己が出くわしたのだと告げただけである。
 相手が京言葉を使う青侍らしき男で、それ故に松原はおっとり刀のまま逃がしてしまった。
 脱藩浪士ならともかく、堂上に使える青侍と揉め事になると、あとあと難儀である。よもやと思うが、摂家や大臣家の家臣を斬るようなことがあると、京都守護職預の新選組が大打撃を被ることにもなりかねない。
 事は一介の侍同士の喧嘩ではなく、朝幕関係にも響いてくるのだ。
 さすがに副長助勤の松原は、そう考えたのだった。
「紀州浪人の安西幾太郎が不逞浪士に斬られた」
 で済むなら、始末も早い。
 無論、松原は屯所でもこの話はしていなかった。
「やっぱりお雪さんには言いづらい」
 それは己自身が対面を慮って青侍を逃がしたという引け目と、それゆえにお雪に嫌われるのではないかという恐れからであった。
「ああ、お雪さんの入れてくれる茶はうまいなァ」
 顔ではにこにこと笑いながら、松原の心中深きところではまんじりともしなかった。

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