(五)
暮六つの鐘が殷々と村々に谺
(こだま)する頃、折屋の蔵吉は、「かぎ六」という一膳飯屋に顔を出した。
高樋町からはそう遠くない。
仕母立屋みたいな飯屋の長椅子の端に、男が待っていた。
「えろうすんまへん。お待ちでっしゃろ」
「ふん。別段おれのほうから出向いたものを、飲代がかかるのに悪いな」
斎藤一が昏い目を店の入り口に向けて、言った。蔵吉は苦笑した。
「成る程、あまり目付きのよくない壬生浪が自宅に出入りしてちゃあ、長屋の連中も甚だ落ち着かんというわけだな。女房に言われたか手前でそう思ったか知らんが」
「へえ、すんまへん」
「慣れっこさ。構わん」
斎藤はそう言って、猪口をぐいと呷った。
卓子には豆腐の煎り煮や里芋の皿が載っていた。蔵吉は、派手な羽織の壬生浪の割には意外に素朴な物を食うのだ、と思った。尤も、斎藤はあの浅黄色の羽織は着ていない。粋な唐桟の着流しだった。
「今日も御仁は行っただろう」
御仁とは、松原忠司のことである。
「然様で。今日初めてご挨拶しましたんどすけど、感じのええお人どした」
蔵吉は斎藤の前に腰を下ろした。
「そうだろうなァ」
と、斎藤は嘯くように答えて目を細めた。
蔵吉は隣の格子戸の音を聞くと、頃合を見計らって戸を叩いたのだ。「女房が大根をようけ貰うて来ましてな」と言って、入って行った。
お雪は「あら」と意外な顔をしたが、素直に疑いもなく喜んだ。
その時、坊主頭の松原がお雪と向かい合って話をしていたのだが、蔵吉を振り返り、にっこりと笑って会釈した。
明らかに密会をしているという空気は無かった。
そればかりか「ほう、立派な大根や。これでも青物屋の倅ですよって、野菜のええ悪いはわかりまっせ。お雪さん、これは風呂吹きにしたら甘うて美味いですよ」
と、大根の目利きまでする。
「どうも噂に聞くような事をするようなお人には見えしまへなんだ」
蔵吉は首を捻る。斎藤は盃を弄いながら、
「しかし乍ら、人というのは見かけでは容易に判るものではないぜ。お前さんは紙折から修行を始めた苦労人だから、信用に値すると思って見込んだのだがね」
と、いやに慎重だった。
「松原はんはもっと裏のおありになるお人どっしゃろか」
「いいや。あの人は大店育ちだから、根に持ったりくどい性質ではない」
斎藤の口ぶりで、蔵吉は漸くお雪のほうをしっかり見張れと言われているのに気付いた。
「女は七化けするというからなァ」
如何に身持ちの固い後家でも、恋に狂ったり進退窮まるとどう出るかわからない。その辺りは男よりも女の方が大胆で、ともするとそんな女でしくじって泥を被るのは男のほうなのだ。土方らの心配は専らその点にあって、ゆえに彼は地女には手を出さない。過去に手痛い思いをしたとみえる。
厳しいようだが、助勤の松原にそうさせてはならないというのだろう。
「そう言うたら」
蔵吉はぽつんと言った。
「松原はんが往なはった後に訪
(たん)ね人がありました」
身形の清々しい公家髷を崩した粋な風体の男で、二刀差であるのを蔵吉は目撃した。
恐らく、何処だかの堂上に仕える青侍だと思えるが、長屋には珍客といえた。
「ほんで、壁に耳をつけて聴きよりましたんですけど、話の端々しかわかりませんでしたわ。何やら安西はんは生前、その青侍はんの主家と関わりがあって出入りしとったようです」
蔵吉が知る限りでは、青侍はお雪のところへ一応のお悔やみに来た。それが、小半刻も話をしているうちに、お雪の啜り泣きの声が聞こえ、青侍はぼそぼそと言残して出て行ったという。
「脱藩浪人が公家に出入り、というと大概は博奕か勤皇運動の片棒担ぎに決まっている。どうで安西幾太郎もまっとうに稼ぎを出来る身分でなし。賭博にいそしんでいたとみえる」
「ほな、その借金でも取り立てにきたんやろか」
蔵吉は声を高くしてしまいそうになるのを、必死で堪えた。
「妻女が泣いていたというなら、有り得るだろう。十両二十両の借りなど、あっという間に出来るが当の本人が死んでしまっちゃあ、どうにもならん」
公家も大臣家などの役職付きでない平堂上では、食うのもかつかつでそれ故に賭場を開いて小金を稼いでいる。所司代の監視など何処吹く風で、幾ら手入れが入ってもきりがない。
この辺りは江戸の旗本屋敷と事情は似ていた。公家も屈強の青侍を使い、必死に取り立てる。
「お雪さんが気の毒だ」
「まァ、まだそうと決まっちゃいない」
斎藤は余裕の表情で酒を飲み続けた。
青侍が借金の事を言いに来たなら、遠からずお雪はその事を松原に話すだろう。否、黙っていたとしても、松原が気付くかもしれない。場合によらず、親切者の松原なら金の工面をするころは間違いない。
或いは、金銭の揉め事でなくとも、松原はお雪の窮地を見逃す筈はない。
「どないしたらよろしいのですやろ」
蔵吉はおずおずと訊いた。
「お前さんはとにかく、隣を見張っていておいてくれたらいいのさ。悪いようにはしない。気が向いたら、妻女の話でも聞いてやることだ」
「へえ」
「おれは飽く迄、お前さんには目の玉の飛び出るような高直
(こうじき)な扇子を注文したってだけだからな」
斎藤はそう言って笑った。笑いながら、何やら雲行きが怪しいという事実があるだけに、余り酔い加減にもなれなかった。
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