(六) 

 久方振りにお湿りが来た。雨は昼間少し降って、また薄曇のまま秋の空を保っている。
 もうじき九月というのに、いやに風がぬるい。不気味なまでにぬるく肌を撫でて行く。
 こういう天気の日は仕事が捗らない。
 蔵吉は女房が買物に出たのを見計らって、隣家の戸を叩いた。
「お雪はん、貰いもんやけどどうでっしゃろ」
 暫くして、下駄をつっかける音とともに、お雪が出て来た。
「蔵吉さん、お仕事はよろしいんですか?」
 何やらやつれた趣のある面差しで。
「湿気が多うてな。糊がうまいこといきまへんのや。まァ何年もやっとうさかいに、あかん日はあかんて諦めて不貞寝や。けど、此処にほら、金平糖がありますやろ。お雪はんも一つ」
「まあ。そんな高価なお菓子を私に?お茶入れますし、中へどうぞ」
 いつもの様に、お雪は愛想良く蔵吉を招き入れた。幸い、他の長屋連中は誰も見ていなかった。
 蔵吉は菓子皿に金平糖を広げ、
「今手掛けとう仕事の依頼主がくれまんのや。緑寿庵清水いうとこの上品な金平糖や。宮中でも使われとうらしいで」
「美味しい」
 と、お雪はゆっくりと味わってから言った。
「依頼主はお武家はんやねんけど、えろう羽振りのええ、男振りも悪ない。目つきは危ないけんどな。甘い物が好かんいうてくれはる。せやし、貰わんでもええのにな」
 蔵吉は笑った。お雪はつと、湯呑みを置いて蔵吉を見詰めた。
「あの。何かお話があるのでしょう?」
 お雪は意外に勘が鋭かったようだ。蔵吉は隠しもせず「さいです」と言った。
「うちに出入りしておいでの、松原さんのことでしょうか?」
 新選組とは名乗らなくとも、何かと目立つ姿なので他の長屋連中もそれとなく知っている。
 密かに、お雪と松原が男女の仲になっているのではないかという事も。そのことで、蔵吉が隣家のよしみで何やら忠告でもしに来たのかと、警戒しているのだった。
「いや、あの坊主頭の方やおへん」
 その一言で、お雪ははっとなった。
「こないだうち、公家髷のお侍はんが訪ねとったんちゃいますか」
 蔵吉が単刀直入に訊くと、お雪はあっさり「はい」と認めた。
「どないな用件どしたんやろ」
 それにはお雪はすぐに答えなかった。蔵吉は、勝手に喋った。
「あの。この金平糖くれはったお方から聞いたお話やと、こないだの青侍はんは御幸町ほうの平堂上の御屋敷にお勤めらしいですわ。柿小路いう御屋敷の塩沼左膳とかいわはって」
「そうです。塩沼さんと仰いました」
 お雪は頷いた。
「何の用どしたんか?お公家はんがこないな長屋に、言うたら悪いけど御浪人の幾太郎はんと何ぞ前に係りあったんどすか?せやないと、お雪はんあんたに」
 言い掛けて、蔵吉は少し口を噤んだ。
 お雪の頬が紅潮していた。悲しみとも憤りともつかぬ表情で、蔵吉を見詰め返していた。
「蔵吉さんの仰りたいのは、わかっています。うちの人が近頃流行の隠れ賭博で借金をこさえて、取立てに来られたんではないかと。お公家方に出入りしていると、そう疑われても仕方ありません」
 お雪は震える声で言った。
「それだけやおへん」
「ええ。過激勤皇派のたくさん往来している堂上家に係わっているとなると、うちの人も同類とみなされていたかもしれません。会津藩御預の新選組の方でしたら、きっとそう思って斬るかもしれませんわ」
 蔵吉は、ぎょっとなった。この一言で、お雪は夫の幾太郎を斬殺したのが松原忠司である可能性を秘めていると考えているのがわかったのだ。
「お雪はん、あんた……」
 お雪は、やにわにぽろぽろと涙を零した。今迄我慢を堪えていたものが、一気に堰を切ったかのようであった。
「松原さんは、そんな白とも黒とも見分けがつかない人間をうっかり斬っておしまいになるようなお人とは、私には思えません。夫は限りなく怪しい身分であったか知れませんが、決して浪士ではなかったのです」
 蔵吉は喉の渇きを覚え、茶を干した。お雪は葛藤している。
「あほな。脱藩までしたお人が浪士ではないやなんて」
 と思ったが、言えなかった。お雪は夫に浪士と言ってくれるな、と固く言い含められていたのだろう。
 ゆえに、脱藩にまで付き添った夫への愛惜とともに、松原という頼もしい男に惹かれている己の心でさ迷っている。
「お雪はん、その話をまさか塩沼はんいうお人がしはったんどすか?」
「ええ。四条河原を通り掛った時、松原さんと夫が斬り合っていた姿を、塩沼様が御覧になったと。夫は柿小路家で内職を手伝っておりましたので、顔を見紛う筈はないのです」
 なんと、と蔵吉は胸中茫然となった。
 やがて一頻り流した涙を拭ったお雪は、すみませんと頭を下げた。
「ああ」
 と、蔵吉は膝を浮かそうとして、「もう一つだけ訊いてよろしか?」
「はい」
「塩沼はんは、あんさんにそれだけを言いに来たんどすか?」
「……はい」
 煮え切らない返事だ、と蔵吉は感じた。口調ははっきりしていたが、何やら臭う。
 だが、今日はこれ以上問い詰めても仕方ない、と隣家を後にした。
 自分の家に戻ると、框に腰を下ろして着流しの斎藤が扇子を弄んでいた。
「おぬしもなかなかの役者だな」
 斎藤が面白そうに言うと、蔵吉はむっとなった。
「気持ちのええもんちゃいますよ、目の前で泣かれるのは」
「勝手に泣いた分には仕方あるまい」
 何の流石に壬生浪は血の冷たい奴らや、と思って蔵吉は斎藤を見た。しかし、その斎藤は眉間に皺を寄せ、苦痛に堪えているかの表情だった。
「……ほんまどすか、塩沼いう青侍の言うのは」
 蔵吉の問いに、斎藤は首を振った。
「違うと願いたいね。少なくとも塩沼左膳が柿小路家と幾太郎との係わりについて、お雪さんに嘘をついたのは確かだ」
「どういう事や」
「うちの優秀な探索の話では――此処では話せん。壁が薄くて隣りに筒抜けだ」
 斎藤がそう答えた時、戸が開いて女房が帰って来た。斎藤は「また来る」とだけ告げて、長屋を後にしたのだった。

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