(七)
壬生寺のだだ広い境内にも、夕闇が落ちてきた。
無縁塚の周りを松原が巡っていると、遠くにお囃子の音が聞こえてきた。
「祭の稽古をしとるんやな」
そう考えて、ほくそ笑んだ。ふと、お雪の後姿が思い浮かぶ。
「近頃、隊務の方が忙しくて訪ねとらんが、今度の休息日には行ってみよう。祭になったら誘うてもええかな」
そんな事を考えながら墓地を出ようとして、石の上に段々に落ちた長い影に目を止めた。
「斎藤君」
だんだら羽織を着込んだ斎藤一の黒いのっぽの影が、無縁塚まで伸びていた。
「呼び出したのは君か」
「すみません。巡察に出る前なので、手短かに話します」
斎藤はぺこりと頭を下げた。
「お雪さんに本当の事をお話してあげて下さいよ」
いきなりその名を出されて、松原は面食らった。切り口といい、踏み込みといい、絶妙さがまさに斎藤の剣そのままであるので可笑しくもあった。
「かなわんな。斎藤君にそう言われると、成る程全てお見通しやな」
斎藤が土方の指示で動き回っているのだということも、松原には納得がいった。
「松原さん」
隊歴は長いが、自分より年長の松原を敬って、斎藤は呼び掛けた。
「お雪さんはあなたがご亭主を斬ったのじゃあないかと、半信半疑ですよ。いや、殆ど黒に近い灰色のように思っておるのかもしれません」
ほう、と松原は温和な性質らしく答えた。
「よくそこまで調べ上げたもんやな。山崎とおっつかっつのええ腕やな、おぬし」
それは蔵吉のお蔭でもあり、一方公家周りを調べて貰ったのは、山崎烝ら監察方であることを斎藤は敢えて黙っていることにした。
「嘘でもかまをかけているのでもないんですよ。あなたの為だ」
「隊の為でもある、ということか」
松原は腕組みをした。
「斎藤君。おれはその隊の為を思って、お雪さんには本当の事は言わんことにした」
「堂上と揉めると大事になりかねないからですか」
斎藤は無表情に言った。
「柿小路家ごとき御蔵米公家の青侍に怖気づくのですか。奴等は勤皇激派を賭場に誘い込んで、やりたい放題ですよ。このままのさばらせておくほうが、新選組にとって恥です」
「大胆な事をいうんやな。おれはもしやあの男が、大臣家や摂家の家臣やったら手出しはまずいと思うて見逃しただけでな」
松原は苦笑した。
「ならいいでしょう。早いうちにあの塩沼左膳という男を斬ったほうがいい」
斎藤はむしろ嬉々として、促した。だが、松原は暗い表情になった。
「しかし、今その男を斬ってしまうと、却ってお雪さんにはおれが証拠を隠滅したように映ってしまわないか?」
言われてみれば、そうとも考えられる。だが、放っておいても誤解がとけるかどうかはわからない。
「では松原さん、お雪さんに全て事実を話すんですね?」
「ああ。急度信じてくれるやろう」
「それを確かめたら、すみやかに奴を斬って下さいよ」
斎藤は念を押した。松原は勿論、と胸を叩いて答えた。お囃子の音が一段と高鳴ったように聞こえた。
その三日後、九月十日のことである。
じんわりと冷え込みの忍び寄るその日の朝、高樋町の長屋で一組の心中死体が見付かった。
折屋蔵吉は、糊を作る水を井戸に汲みに行こうと、外へ出た。
隣家はまだ起き出していない。とふと格子戸を見遣ると、何やら黒々とした染みが戸にこびり付いているのを発見した。
「血ィや」
と覚って戸を叩いたが、返答がない。
「お雪はん、どないしたんやお雪はん」
何やら只事ではない。女房や長屋の連中が起き出すのも構わず、蔵吉は叫んだ。
だが、幾ら待ってもやはり返事はなく、蔵吉はやむを得ず、格子戸を滑らせた。上がり框に膝を置いて、蔵吉はあっと息を呑んだ。
畳の上まで点々とどす黒い血が続いていて、敷かれた一組の下布団の上に男女がくの字に軽く折曲がって向き合い横たわっていた。
その不自然過ぎる程に整然と対を為す様相に、蔵吉は此の世の物ならぬ衝撃を覚えたのだった。
「お、お雪はん、松原はんッ」
男女は只管瞑想しているかの如く、柔らかな死顔をしていた。
松原の巨きな脾腹にはぱっくりと裂けた傷口が開き、腸が流れ出ぬ様、晒布が詰められていた。それも、瀕死の状態で行ったのだろう。手指も布も真っ赤に染まっていた。恐らく、戸を閉めたか確かめたのも同じ手だろう。
言うに及ばず、布団は黒い血に濡れていた。
切腹の作法も知らなければ、その苦悶も想像出来ない蔵吉は茫然と見下ろしていた。
ただ、死に臨んで多大な辛苦を味わうただろう松原の顔が、余りにも静寂で安らかでさえあるのが気掛かりだった。
お雪はといえば、此方も薄っすらと笑みさえ浮かべているような死相で、一体どうやって死んだのかも判らない。絞首の跡もなければ血を吐いても刺されてもいない。
蔵吉が気が動転しながらも、冷静にそれは見てとった。
「どないしたんや、蔵吉はん」
大声に起き出した長屋の連中が、のそのそとやって来た。
そして、中を覗くや悲鳴を上げた。
「はっ、早う町奉行の者呼んで来や。もう医者は手遅れや」
だが、蔵吉は慌てて駆け出そうとする一人の男の手首をはっしと掴んだ。
「あかん、それはあかんのや」
死人の一人が新選組隊士である以上、役人に届けるとややこしい、と蔵吉は咄嗟に判断したのである。
「あてが一っ走り」
と、まだ薄暗い空の下、蔵吉は長屋の門を出て行った。
(六)へ
(八)へ