(八)
見ているのは月只一人のみ。聴こえてくるのは祭囃子。
芝居の退けた南座からどっと人が溢れ出る中、橋のたもとからすっと黒い影が斜めに伸びた。
「何ぞ用か?」
振り返った男が顔を確かめもせぬ尻から、斎藤は黙々と抜き身をその背中に突き立てた。
端から刺すつもしのおっとり刀でいた。男は、むうと唸ったがさすがに悲鳴は上げなかった。
「用件は、冥途でお二人さんに訊くこった。尤も、あんたは三途の川の手前で足止めを食うかもしれんがな」
斎藤は男の背を抱きかかえるようにして、鴨川の土手まで下り、河原に骸を打っ棄(ちゃ)った。
任務は終わった。
「――で。その塩沼てぇ青侍の死骸が見付かったってえのは、今朝方所司代同心から聞いたが」
土方が煙管をぽんと吐月峰に叩き付けた。
「背後から心の臓を一発で仕留めるような手錬はそうそういめえ、と検死にゃ言われたらしく、屯所までわざわざご忠告に来て下さった」
「所司代様の同心が?」
斎藤は目をぱちくりさせた。
「おう。思わず笑っちまったがよ、所司代様勤向の奏者番どのが仰るには、柿小路家が文句を言ってきたらしいや」
柿小路家の雑掌が、公武の橋渡しをする所司代まで直に申し立てたのは、「塩沼左膳を兇刃に屠ったのは、明らかに近頃京と徘徊する関東侍。公家をみだりに脅かすとは許せん。所司代が断乎処罰すべし」と。
しかし、下手人もわからず根拠の無い申し立てである。
家老の服部半蔵は、
「然らば柿小路家に使いを遣ろう。貴家が禁裏つまり主上の第一の臣である徳川家の陪臣に脅かされたと申されるなら、証左を以って犯人を付き止め、処罰いたす。但し、徳川家に無縁の牢人であれば、この限りではない」
と答えたという。
困ったのは、柿小路家のほうだった。
所司代に踏み込まれ、「やれ曲者は何処におる?」とやられては、当家に匿っている西国浪人や過激派は勿論、賭博のことも露見する。
「そう言われて雑掌はすごすご引き返したとよ。ったく語るに落ちるたあ、このことさ」
土方は小気味よく笑った。
「だがよ、斎藤。気を付けな。服部様は"見廻組にもうちの同心にも、そこまでの手錬はおらん"と仰ったらしいから、おめぇだと嗅ぎ付けられねえとも限らないのさ」
「然様で」
もとより覚悟の上である。
「逆恨みは慣れっこってのもつまらねえがな。何しろ、こちとら大事な働き手を失くしちまったんだ。これ以上は御免被る」
土方は軽噪に言うが、実のところ気は晴れやしないのだろうと斎藤は思った。
塩沼左膳と安西幾太郎の結び付きは、斎藤の予想にほぼ近かった。
ただ一つ、安西が殺される前に交わした約定を除いて。
それは、
「借金二十五両が返せない時は、妻のお雪を柿小路家の側妾として差し出す」
という事だった。安西は無理強いにそう約束させられたのだろう。
塩沼は長屋を訪ねて、お雪にその事を告げたのに違いない。斎藤がお雪を糾問した時の煮え切らぬ返事とは、それを隠していたのだ。
塩沼の死体の懐をさぐって掴み出した。
「雪預りに付金二十五両を帳消しとす」
という墨書と柿小路当主の印、安西の血判が全てを物語っていた。お雪に死なれてしまっては意味をなさぬ証書を、何処へ棄てるつもりだったかは判らない。
成る程、と斎藤は胸を衝かれた気がした。
お雪は隠し事の全てを松原に語ったのだ。そうして、松原も斎藤の勧めたように、真実を一切合切お雪に語ったのだ。
正直に語り合った結果が心中だとは。
「おれあ、人妻を寝取らんが為に夫を殺したとかいう物騒な噂が立ち消えになりゃあ、それでちゃらにするつもりだった。手前の命を投げ出すって手段を択んだのは、松原本人だよ」
土方は、斎藤に向かって言った。
外からはお囃子に混じってリリリリと虫の音が響いてきた。
「腹を切るしかないと判断したのは、飽く迄己なのさ」
「……おれにはそうとも言えませんよ」
斎藤は低く応えた。
案外、松原が言ったのはこうではなかったか。彼は真実を語り終えたあと、
「さあお雪はん。もし、このおれが通りかからなんだら、幾太郎さんは逃げおおせていたかも知れん。そうやと悪いのは、このおれということにもなる。突くなり刺すなり煮るなりしてくれて構わん。刀は此処にある」
そう言って、抜き身をお雪に渡したか。お雪はお雪で柿小路家の妾になるつもりはない。いっそここで松原に斬られるのもよいだろうと考え、まず脇差を自分の胸へ向けたのではないか。
松原はそれを引き留め、返す刀で己の腹に突き立てた。
頚骨を折られていたというお雪は、松原の剛力でひと思いにあの世へ行ったのだろう。
「しかし、本当は二人で逃げ出すという手もあったんですよ。そうしなかったのは、お雪さんの方が死にたがっていたからじゃあないんですかね」
斎藤は障子の隙間から外を見た。秋の夜風が忍び込んで来ていた。
「ほう。松原に惚れていたなら、手に手を取って逃げるか」
土方は紫煙を吐き出した。
「そういう時、女ってのはしぶとく生きたいもんだろうねえ。うむ、お前さんの言う通りかもしれねえな、斎藤。お雪は亭主の元へ行きたかったんだろうな」
「はあ。ですが、そうなると松原さんが可哀想なというか気の毒に過ぎますが」
「それもそうだ。奴は死ぬ程惚れていたんだからな」
「泣けてきますよ」
斎藤は言った。そのくせ涙は出ないらしかった。
「本当だ。秋の虫まで奴の為に泣いてらあ」
リンリンと中庭からこおろぎの声が聞こえてきた。土方は煙管をおいた。
斎藤には、それが土方からこれから一句念じようという合図とわかった。静かに副長室を出た。
廊下を渡ってゆく時、庭の下草に夜露がキラリ。その草間に黒い虫の姿が覗いたのだった。
「ほっ」
と溜息を一つ吐いた斎藤は、自分で可笑しくなった。懐から出した扇子は、今朝方蔵吉のところから二両と引き換えに貰ってきたのだった。
桔梗の絵の扇子が欲しいと言ったのは、馴染みの相生太夫その人だった。
「高くついたもんだよ。しかし女に乞われると、理屈に反して聞いてしまうのが男ってものだよ。なァ、松原さん」
斎藤は、こおろぎに向かって独りごちた。さて、これから島原へひと足伸ばすか。
リンリンリンと、その背中を虫の音が追った。
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