(一)
逢坂越えを過ぎた頃から、ひたひたとついてくる足音の気配を感じていた。だが、斎藤は敢えて振り返らず、己が気付いていることを追っ手に気取られぬよう、粟田口を東に向いて出た時と同じ調子で歩いた。
照り付ける西日が背なを炙った。既に閏四月になっていた。根を詰めて歩けば、じっとりと額や腋に汗が滲んだ。駕籠を使うことは訳あって出来ない。
途中、茶店に腰を下ろし休憩を取った。
「関所に限らず幕軍の残党狩りが鬱陶しいな」
と、東の方を見遣る。恐らく、これから通り過ぎる膳所、水口あたりには官軍が駐留している。海路で大阪から江戸へ向かうべきだったかもしれないと思ったが、さりとて同じ様な気がした。天保山にはやはり薩海軍が蟠ったままである。わざわざ敵陣に「やあやあ我こそは新選組の斎藤一だ」と教えてやるのも莫迦らしい。
こうしている間も、官軍は会津に進駐しつつある。陸路が厳しいようでは、いずれ東海道から外れて安濃津から船を使って東向するより仕方ない。
「さて」
斎藤は西の方を向いた。今朝方からずっと尾行してくる奴輩はどんな男だろう。数間おいて遅れてみたり、追い付いてみたり、尾行としてはあまり巧者ではない。だが、茶店の席からは姿が見えなかった。
何事も無く膳所を過ぎ、瀬田の唐橋の手前までやって来た。
とんがり帽子の薩兵の姿が近付いて来る。斎藤は立ち止まった。お辞儀をしようとして、一人の薩兵が銃を突き付けてきた。斎藤が、手に提げていた風呂敷包を下ろす。
「その中身は何ぞ」
威丈高に黒い帽子の下から睨め付ける。
「へえ。家伝の佃煮でやして」
斎藤は江戸弁で答えた。男達は、顔を見合わせる。斎藤は藤色の風呂敷包を解こうとした。
「貴様
(きさん)は商人
(あきんど)か?」
斎藤の旅装を見て言う。埃除けのほっかむりの上に菅笠を目深に被り、背に籐つづらを負っているのは、紛れも無く商いの姿だ。着流しを尻端折り、股引を穿いて何処から見ても行商人である。
「江戸は百人町で井筒屋って佃煮屋の跡取りでさあ。大坂のお得意様を回った帰
(けえ)りでして」
「佃煮か」
薩兵達は、つづらを検分した。中身は浅蜊や山椒、利尻昆布などの佃煮ばかりであった。
「そん風呂敷も開けさしてもらう」
言うが早いか、引き千切られるかのようにして、風呂敷を奪った。桐箱を乱暴に開け、油紙を剥がす。
薩兵はむっと顔を顰めた。桐箱に収まった常滑壺からは、異臭が漂っていた。錆びた鉄のような刺激臭と赤茶けた腐肉のようなものがびっしりと詰まっている。
「何じゃこれは」
男が斎藤に詰め寄った。斎藤は、壺の中を覗き込んだ。
「へえ。鹿肉
(ししにく)にございますよ。赤味噌と唐辛子に漬け込んだものでして。こいつをさらに甘辛く煮詰めるんでやす」
「鹿肉は今御禁猟じゃなかとか」
薩兵は訝って、三人ともに壺の中身に見入った。
「去年の暮れに丹波の猟師に言って、下拵えさせておいたやつです。うちは毎年鹿肉の佃煮をやってましてね」
斎藤は涼しい顔で言った。
「江戸ではこげなもん食うとかァ。鹿鍋ならわかりもっそ」
「何しろ、こちらの佃煮は島津様の上屋敷にお納めしております」
斎藤の片頬に薄っすらと笑みが浮かんだ。三人は顔を見合わせた。斎藤は再び丁寧に桐箱を仕舞い、風呂敷を提げて唐橋へ向かって歩き出した。
ところが、
「ちょいと待ったもんせ」
薩兵は振り返った。斎藤は立ち止まる。
「お前
(まん)さァの左手に持っちょる長物は何ごつかのう?そん長さは丁度、差料くらいではなかと?」
「へえ」と、斎藤は左手の長袋の紐を解いた。黒鞘の無骨な拵え、摂州住池田鬼神丸国重が現れる。
「その通りで」
鞘走ったが早いか、国重の乱れ刃文が流れる。抜刀する薩兵の利き腕を打ち、もう一人が銃を構えて退くのを突きで仕留め、三人目を蹴倒してから背を袈裟に斬る。最初の男に止めを刺して、斎藤は懐紙で刀を拭った。そうして何事もなかったかのように街道を東へ進み、瀬田の唐橋を渡った。
既に北方に広がる淡海
(おうみ)には、鴇色の薄雲が掛かり、夕映えを呈していた。蜆取りの漁船が湖岸を目指しているのどかな風景を背に、斎藤は黙々と近江路を急いだ。
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