(一) 人斬り鍬次郎
慶応元年二月五日の五つ刻。松原通東洞院を闊歩する一人の男がいた。
新選組の諸士調役・大石鍬次郎。人呼んで「人斬り鍬次郎」である。背丈高く色黒く日焼しており、見るからに目付きの鋭い、如何にも人斬り好きの面差し。見かけの通り、三度の飯より斬るのが好き。新選組の大事件でこの男の参入せざるはなし、といった具合であった。
その鍬次郎、所用帰りにちょいと祗園の居酒屋で一杯引っ掛け、よい気分。鼻歌なんぞ歌いつつ西本願寺の屯所へ戻る道すがら。
鍬次郎、居酒屋で借りた提灯を提げているが、暗さも暗し。少し酔うている。辻を曲がろうとした時、何者かと行き違った。したたかに肩と胸がぶつかり、あやうく提灯を落としかけた鍬次郎。
「おい貴様」
と振り返り、やにわに相手の襟首を掴んだ。
「何をするか、乱暴な。ぶつかってきたんはお前じゃろが」
「何だそいつあ。作州弁か芸州弁か。おれは新選組の大石鍬次郎だ。貴様も名乗れ」
鍬次郎は相手の顔を見た。だが、芸州の者らしい侍は答えた。
「名乗る必要はないわ」
うぬう、と鍬次郎は唸り、提灯を捨てた。一瞬あたりがぼうと明るんだ。芸州侍の向こうに女が立っているように見えた。通行人にしては近いので、この男の連れか。若い娘の怯えた目が鍬次郎を見て、震えるように後退る。
夜の辻に刃音が響いた。勝負は呆気なく終り、鍬次郎は血に湿った刀を懐紙で拭うと、今度こそ本当に暗い道を急いだ。
「口程にもねえ。ったく長州びいきの浪士などろくな連中がいやしねえ」
ぶつくさ言いながら、屯所の門前に差しかかると、偶然同僚の今井祐次郎とばったり。
「おお、大石さん。あれ、裸足じゃないですか」
「斬ってきたのよ」
と、誇らしげに鍬次郎。すると、今井も
「実は私もですよ。祗園石段下で」
「何という奴だい」
「おかしな話ですが、大石と言いましたよその男も。江戸言葉のようでした」
ほう、と鍬次郎はその時は何も思わず斬人の余韻に浸りつつ、屯所の中へ。平隊士の今井は大部屋へ入り、鍬次郎は役付部屋へ入り、それぞれさっきの手柄話などして愉しむ。
さて。ふと厠へ立った鍬次郎。用を済ませて廊下を歩くが、聞くとも無しに聞こえてきたのは今井の大声高笑い。耳を澄ませば、何やら聞き覚えのある名前が上っている。
「そいつは大石造酒
(みき)と名乗っていたよ」
今井が言うなり、鍬次郎障子を開け放って入り込んだ。
「手前ェ、それあおれの兄貴じゃあねえか」
顔を朱に染め仁王立ちの鍬次郎。今井はぽかんと呆けたように、「いや本当か?」
「てやんでえ。造酒蔵たあおれの兄、一橋家におつかえして上京してらあ。間違いねえ」
鍬次郎は抜刀した。
「殺す!」
「待て待て」
と、今井は手をつきながら立ち上がる。
「大石造酒と言っただけで、造酒蔵とは言ってませんよ」
「そんな名前はお江八百八町探したっておれの兄貴しかいねえ」
取り囲む隊士も仰天の形相で見守るばかりであった。いったい鍬次郎の血の気の多さは隊内随一。この場に止められる者はいやしない。
「確かにそうでも、私は大石さんの兄上と知らずに斬り結んだ。決して偽りではないですぞ。それにしたって、貴殿の兄上にも非がないとは言えんのでは?」
「しゃらくせえ、聞く耳持たんわ」
鍬次郎は上段に構える。頭っから湯気が上らん勢いである。
「よし。貴殿が抜くなら私も黙った斬られまい」
今井もついに抜いた。二人はどちらともなく睨み合いつつ摺り足で廊下を渡り、中庭へすたと降りた。
「兄上の仇、覚悟せいやあ」
鍬次郎は踏み込んだ。が、心が先走る。今井はわっと左に交わし、受太刀した。さしもの人斬り鍬次郎も身内のこととあっては尋常でない。短気に加えてかっかときているので踏ん張り甘く、道場でなら軽くいなせる今井に手こずるばかり。今井は今井で必死なものだから、紙一重で交わしつつ、鍬次郎に反撃する。
様子を見守る隊士らは、
「こらすげえ、どっちが勝つと思うか?」
「おれは大石だな。今井は顎が上ってるぜ。十文」
「おれは今井に十文。大石は焦ってるし」
などと不埒な賭けなど始める始末。すると、騒いでいる頭上に天誅ならぬ拳固の雨が降ってきた。
「阿呆んだら。何ィ抜かしてやがる、さっさと止めねえか。私闘はご法度じゃねえか」
十番組組長・原田左之助、胸元ぼりぼり掻きながら外股でやって来た。平隊士らは突然殴られ、あっと言ったまま気絶する者やら逃げ出す者やら。
「駄目ですよう、原田先生。おれたちに大石を止めろというのは、絵の中の虎をふんじばれってのと同じくらい無茶です」
「よく判らねえ譬えだがよ、しゃあねえな」
と、原田は着流しの裾を端折り、ひらりと縁側から飛び降りる。
「おうおうおう。お前らいい加減にしやがれ」
喚きながら間に割って入ろうとするが、大石も今井も原田のことなど見ちゃいない。煩い蝿でもぶんぶん唸っているかのごとく、ぎっと睨み付け、またも二人の立ち合いは再開した。平隊士は愕然とする。
「原田先生、得意の腹の傷でも見せ付けたらどうですか」
「きかねえよ。おい、手桶に水汲んで来い」
「何ですか?」
「犬の喧嘩にゃ水ぶっかけるに限る」
それは違うのではないかと思いつつ、平隊士は裏の井戸まで走って行こうと立ち上がった。その時、市中見廻りから戻った三番組の連中がやってきた。
「おう斎藤、いい所へ戻ってきたな」
原田は三番組組長・斎藤一の肩を叩いた。
「あいつら止めてくんねえかな」
と、中庭の鍬次郎と今井を指差す。斎藤はだんだら羽織の袖に着いた返り血を見ながら、ううむと唸った。
「いいのか原田さん。おれに止めろと言うからには……」
刀の鯉口を切る。原田はぎょっとなった。
「いけね。そいつあいけねえ。ああ、お前に仲裁なんか頼もうとしたおれが阿呆だった。お前も鍬次郎と同じ手合いだもんなァ」
「一緒にしないで下さいよ。疲れているので、おれは寝ます」
不機嫌そうに踵を返す斎藤の袖を、原田はぐいと引っ張った。
「冷たいこと言うなよ、一君。妙案はねえか?」
成る程このままだと何れが血を見るまで決着はつかぬ。しかもついたとて、双方無事に済むまい。斎藤は少し考えた。そして、言った。
「水でもぶっかけるに限る」
二人の遣り取りを見ていた平隊士が、がっくり肩を落とした。
程無くして、誰が呼んだものか土方歳三がやってきた。「忙しいのに何してやがる」と、此方もかっかとしながら廊下をのし歩き、両人に説諭する声が聞こえた。やがて、妾宅から近藤も駆け付けて、漸く二人は刀を鞘に収めた。その後、二人を収めた局長室が明け方まで閉ざされたままであったのを見ると、鍬次郎も今井もこんこんと説教されたようであった。局長室から出て来た鍬次郎の姿を見た平隊士が、「食あたりの幽霊みたいな顔だった」と言ったので、原田は大笑いした。
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