(三) 鍬次郎恋桜
さて。染井吉野も真っ盛り、東山も薄桃色に染まる頃、京に春が来たごとく鍬次郎にも春が来た。
その頃、新選組は壬生村に屯所があった頃から島原遊郭の御常連であった。しかし。島原は何しろ敷居が高いし、揚料も高い。幹部以外の大抵の隊士らが通ったのは専ら、祗園、三本木、上七軒。なかんずく、鍬次郎らは祗園へよく通った。
馴染みの「梅田屋」という置屋に栄太郎という芸妓がおり、鍬次郎ははじめこの女子に執心だったが、近頃変わった。祗園柳町には通っているが、おつたという女に宗旨替えしたのである。おつたは先月から「長浜屋」という茶屋で働き始めた女中であって、芸妓ではない。
鍬次郎は只、長浜屋へ行って栄太郎を呼びはするものの、気もそぞろでおつたばかり見ているという有様。
「何や大石はん、お人が変わらはりましたなァ。うちのことどうでもええんどすか」
と、栄太郎が不貞腐れても、鍬次郎は一向に意に介さない。栄太郎の三味線よりも、いそいそと膳を運んでくるおつたが気懸りで仕方ない。
そのおつたはというと、二十四、五の色白小柄な女。格別の器量というのでもないが、艶っぽい。装いは女中らしく素っ気無く纏まったものだが、さりげなく焚き染めた香など上品で、黙って町を歩けば武家の奥方といえなくもない風情。
「いい女子だ」と、心中思うものの鍬次郎、いざとなっては勇気が無い。玄人には無骨ながら手も出るが、実のところ素人女を知らぬ。童
(わっぱ)の頃から近所の娘子にさえ懸想も出来ない朴念仁であった。
そんな男がおつたに声を掛けられる筈もない。原田なんぞはそんな純情漢を見ちゃ大笑い。
「お前むさ苦しい男は斬っても、女子のしごき一つ切れねえのか」
などとからかう。鍬次郎といえば、
「はァ、いや、そのどうも」
と、煮え切らない。
「そうだな。恋文でも書けよ」
「おれは字が下手くそですよ。とんでもねえ」
鍬次郎はぶんぶんと首を横に振っている。
「なァに、女なんてのは、押して押して押し捲りゃいちころだ。お前みてえなヤットウしか能のねえ奴が文なぞ渡してみろ。あら鍬次郎さん、意外にお筆跡
(て)がお上手ね、なんて具合に行くかもしれねえ」
原田は言う。
「だから、おれは字が下手くそで」
「おまさに初めて文を送った時なんぞよ、もう鳩が豆鉄砲食らったみてえな顔で吃驚よ。左之助さん、字もお上手なんやねえ、なんて。かーっ、堪んねえ」
聞きもしない原田の妻女の惚気話が始まった。鍬次郎、困り果てて必死で訴える。
「でも、おれはやっぱり字が下手くそで」
「ええ?下手くそ。そんなものァ気組みで何とかならァ。なんならおれが代筆してやってもいいぞ」
それは嫌だ。鍬次郎は寒気がした。原田の筆跡は兎も角、妻女になる前のおまさに宛てた恋文の内容はとんでもない物だったらしい、と他の隊士から聞いている。二言目には「やりてえ」と書いてあったという。
おまさはあまりの率直さに呆れ果て、涙が出るほど笑った挙句、「ええよ」と答えたらしい。原田も原田なら、おまさもおまさだ。だが、それも原田が性情は粗野でも土方を肩を並べるような美男子だからである。
鍬次郎はそう思う。馬面に金壺眼のおれなんざ、厳つくて京女の雅にはつり合わない。
そんな原田に代筆されたら、何を書かれるか判ったものではない。
ところが、渋面作っていた鍬次郎に助け舟が滔滔と鴨川を流れてやってきたようである。
「丁度よいところへ斎藤さん」
廊下を大股で通り掛る黒鮫小紋の斎藤が振り向いた。何だまた厄介事か、というあからさまな目付きで鍬次郎と原田を睥睨する。
「お願いがあるのです」
鍬次郎は頭を深く下げた。事ほど然様にこの男に頭など下げられた覚えは無い。斎藤は訝った。
斎藤はかくかくしかじかの事情を聞くや、
「断る」
と、素っ気無く答えた。「おれは恋文など書いた事が無い」
「何を言うんだい、一君」
原田が斎藤の肩に腕を回す。
「連日連夜の島原に届ける逢状が何の恋文でないと言うのか、ええ?」
「連日連夜とは聞き捨てなら無い言い方ですね、原田さん。そもそも逢状と恋文は別物でしょう」
「玄人と素人の違いってだけじゃねえかよ」
そうではない、と斎藤は顔を曇らせた。
「じゃあ、おれが作文したのを筆でちょいと書きゃ仕舞いさ。鍬の字はおれの筆跡じゃ嫌なんだと」
「そういうわけではありませんよ」
嫌なのは筆跡ではなくて、原田の文言だと言おうとしたが、既に斎藤は原田に連れられて隊士部屋に入っていた。文机に座り、墨を摺る斎藤の姿もまた鍬次郎には珍しい。
「いやいや一寸駄目ですよ、原田さん斎藤さん」
鍬次郎は慌てて部屋に飛び込んだ。しかし、原田は「うるせえ、すっこんでろ」と、当人を突き飛ばして文を練る。
「いとしいいとしいおつた殿……いや、こりゃ唐突だ。一筆啓上仕る……いや、田舎に送る手紙じゃねえ。やいおつた、おれは前からおめえを……喧嘩みてえだな」
「早くして下さいよ」
斎藤が苛立つ。
「では本日はお日柄も良好にて、おつた殿には」
「しかし、おつたという女性
(にょしょう)は、祗園・長浜屋のお女中のことですか?」
斎藤は筆を動かしつつ訊いた。原田は、おうよと手を打った。
「何でお前が知ってんのよ斎藤。まさかお前こそおつたと」
「は。おれは鍬次郎さんとは女子の好みが違いますよ」
斎藤が鼻で笑う。
「もっとこう、むっちりと肉
(しし)置き豊かで色白で気の強そうな女子か」
原田は手振りで女人の姿を描く。
「そうそう。いや、おれの事はいいんですよ」
噂を聞いた、と斎藤は言った。平隊士などが暇な夜更けには部屋で寄り集まって、酒を飲りつつ駄弁に興じる。丁度、鍬次郎が例の今井の祗園石段下のくだりを聞いたように、斎藤もたまたま通り掛かって耳にした。どうやら話は「あそこの水茶屋は」だの「三本木の三好屋の芸妓は」だの。まさに「雨夜の品定め」というところか。
己は兎も角、他人の色事には無関心な斎藤は、そのまま通り過ぎようとした。
だが、一際声高に聞こえてきた声があって、ふと足を止めた。
「その長浜屋のおつたという女中が実に艶っぽい」今井祐次郎の声である。
斎藤は鍬次郎の恋煩いのことは聞き知っていたので、おつたという名前が気に掛かった。
「帰り際、小雨など降ってくると『祐次郎はん、この傘持っていっとくれやす』なんて渡しながら、そっと手を握ってきて。あれはきっとおれに気があるよ」
と、斎藤が訥々とそこまで言った時、鍬次郎「何だとォ」と起き上がる。
「い、今井が今井が、おつたと手を握り合ったとな」
「こういう具合に」
原田が斎藤の手を握る。鍬次郎、かっとなって二人を突き飛ばした。
「許せん、断じて許せん」
地団駄を踏む鍬次郎。「殺す」
「や、待て待て」
原田、斎藤慌てて鍬次郎の袖を引いた。
「兄ばかりかおれの懸想する女子まで奪おうとするたあ、士道不覚悟。許しちゃおけませんぜ」
「そうは言っても今井がわざとそうしているか。おつたの気持ちも判らないではないですか」
斎藤が言った。
「やはりおつたに訊くしかねえよ」
原田が目配せして、漸く鍬次郎は振り上げた拳を下ろしたのだった。
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