| 桑名藩のひとびと | ||
| 名前 | 略歴等 | 同い年のひとびと |
| 松平定敬 (1846-1908) 桑名藩第18代藩主 |
私見・松平定敬についてを参照ください。 | 徳川家茂・和宮 |
| 酒井孫八郎 (1845-1879) 桑名藩家老 |
諱は朝雄。服部半蔵正綏の次男。正義の異母弟。酒井家養子となる。鳥羽・伏見の戦以来、混乱する国許をまとめる為に奔走。定敬が蝦夷に渡ったときは自ら箱館に赴き、榎本・土方らと交渉の末説得、東京まで連れ帰る。(途中上海に逃げられたけど) のちに桑名県大参事となり、東京にて病没。 |
服部半蔵正義・立見鑑三郎・山川大蔵(会津藩士)・岩村精一郎(土佐藩) |
| 高木剛次郎 (1848-1933) 桑名藩士 |
諱は貞作。鳥羽・伏見以後、定敬に随行して柏崎に入る。恭順派家老の吉村権左衛門を山脇隼太郎とともに斬り、衝鋒隊に所属、のち庄内で降伏。定敬を追って箱館に派遣されるが行き違い、新選組に入る。維新後は渡米して学び、商業簿記の講義などを行い、十五国立銀行支配人となる。 | |
| 立見鑑三郎 (1845-1907) 桑名藩士・雷神隊隊長 |
諱は尚文。町田伝太夫の三男で、立見家に婿養子に入る。所司代時代より定敬に従い、定敬東帰後は宇都宮戦を経て柏崎、会津と転戦する。北越戦で朝日山戦の大勝利は有名。庄内で恭順。維新後、桑名県権少参事、司法省を経て西南戦争に参加。日清、日露と功績を重ねのち男爵、大将。 | 服部半蔵正義・酒井孫八郎・山川大蔵(会津藩士)・岩村精一郎(土佐藩) |
| 服部半蔵 (1845-1886) 桑名藩家老 |
諱は正義。正綏の長男。酒井孫八郎の異母兄。慶応元年に家督相続し、家老となり京都時代の定敬を支える。以後、定敬に従い柏崎では軍事総裁。会津戦で定敬と離れ、庄内で降伏した。翌年、箱館からの密使で定敬の無事を知り、高木らを派遣。維新後は桑名県大参事をつとめる。西南戦争にも従軍する。三重県御用掛となるも病にて辞す。 | 酒井孫八郎・立見鑑三郎・山川大蔵(会津藩士)・岩村精一郎(土佐藩) |
| 町田老之丞 (1833-1869) 桑名藩士・神風隊隊長 |
諱は親賢。のち武須計。立見鑑三郎の兄。大番、学校目付などを歴任。弟鑑三郎とともに関東転戦ののち会津入り柏崎に合流。新政府軍の会津侵攻で定敬と離れ、庄内で降伏。明治三年に桑名藩大参事。のち桑名町初代町長になるが、中風で急逝。 | 桂小五郎(長州藩)・大鳥圭介(幕臣)・佐々木只三郎(幕臣)・山南敬助(新選組) |
| 松浦秀八 (1829-1906) 桑名藩士・到人隊隊長 |
大目付などを歴任。京都以来、定敬をたすけ公用に奔走。定敬東帰後は旧幕府軍に投じ、宇都宮を経て会津、北越に至る。鯨波戦で負傷し、庄内にて恭順、謹慎した。明治三年桑名藩権少参事、定敬の家令をつとめ、桑名米商社取締役になった。 | 武市半平太(土佐藩) |
| 松平萬之助 (1857-1899) 桑名藩第19代藩主 |
第17代藩主・定猷の長男。定敬の義弟。のち定教。定敬東帰のため藩主不在となり、そのため擁立。四日市にて謝罪開城する。謹慎生活ののち社稷再興をゆるされて相続。明治二年に藩知事。米国留学後、外務卿付書記。子爵。 | 松平初子(異母姉) |
| 森弥一左衛門 (1826-1869) 桑名藩公用人 |
諱は陳明。定敬の京都所司代時代、諸藩、幕府、朝廷との折衝に従事。のち彰義隊に参加、塩釜から福島へ行き、定敬と再会した。その後変名して新選組に入隊し、箱館に入る。降伏後、抗戦の責任を被り切腹。 | 手代木直右衛門(会津藩) |
| 山脇十左衛門 (1820-1878) 桑名藩家老 |
諱は正軌。定敬以前の藩主四代に仕える。在京時代は公用方、外交掛周旋方。戊辰戦争中は軍事奉行。降伏後は自らの抗戦責任と藩士処分の軽減に尽力。明治三年桑名藩権大参事。翌年致仕。明治十一年病没。 | 吉村権左衛門・宮部鼎蔵(肥後藩) |
| 吉村権左衛門 (1820-1868) 桑名藩家老 |
諱は宣範。江戸詰家老からのち政治総裁。定敬在京中より従い江戸より柏崎に。開城した国許よりの密使を得て定敬に恭順をすすめるが、抗戦派の高木らに斬殺される。 | 山脇十左衛門・宮部鼎蔵(肥後藩) |