(一)

 北山村を山一つ越えると岩倉村があるが、その途中山際に深泥池村があり、その名の如く深泥ヶ池(みどろがいけ)という大池がある。
 昔は湖水のように広かったというが、いったい昔というのがいつの頃をさしているのか、茫漠としている。誰に聞いても、「さァ、京が越してくる前やろか」「前の戦の頃はこの辺も避難して来る者が多うなって、埋められたとか」などと、至極曖昧なので、斎藤はそんなものかと思っていた。
 もとより、池というと不忍池のようなものと認識していたので、江戸っ子の斎藤が京に来て初めて深泥ヶ池を見た時、唖然となった。
 百間ほどぐるりの池を取り巻く蒲の林と葦の群れは、まるで草原のようでもあった。うっかり足を踏み入れると、ずぶずぶと池に嵌まってしまいそうである。
 そんな中を近在の百姓たちは、小舟を巧みに操り、朝早くから何か収獲しに来ている。
「何ぞ美味い魚でもとれるのかい?」
 と、斎藤が訊ねると、
「魚はとらん。これや」
 桶の中を見せて貰うと、ぬるぬるした藻の様なものが入っていた。じゅん菜といって、池に自生する植物である。百姓はこれを京の料亭などに納めて、賄いを得ているという。
 実際、斎藤がじゅん菜を食べたのは、壬生浪士組改め新選組に入ってからであった。金に余裕が出来て、島原や三本木に出入するようになってはじめて、膳に出たのを見た。
「深泥ヶ池のあの百姓らがとったものか」
 などと思ったものである。
「何やらお考えですか、斎藤先生」
 山野八十八の声に、ふと斎藤は我に返った。
 月の無い星の明るい夜である。山野の白く整った顔立ちが、疑問を投げ掛けていた。
「いや別に」
 吐く息が凍えた。お互いに白く短い息をほっほ、と吐きながら、斎藤と山野は田舎の一本道を早足に歩いていた。京の底冷えを斎藤は、何度か知っている。洛中はまだしも、師走になれば必ず雪の積もる洛外の北山を、夜更けに何しに行くのか。
 新選組の任務、市中巡邏に決まっていた。洛外ではあるが、幕府直轄の組織ではない新選組は何処へでも行く。この晩も、二人は副長・土方歳三に呼ばれた。
「深泥ヶ池の百姓家から、不審な浪士が度々うろついているんで見に来て欲しい、と黒谷に訴えがあったようだ。悪いが行ってくれ」
 そのような事情で、斎藤も山野も壬生から半刻程かけてやって来た。
 もうじき池が見えてくるというところで、山野が提灯を高くした。
「斎藤さん」
「何か」
「誰かいます」
 斎藤は、教えられた方角を透かして見た。そこには小さい祠があった。池の周辺には大概祠があって、水神の弁財天が祀られている。確か前に来た時も、そんな物があったかもしれない、と斎藤は考えた。
 すっかり晩秋の様相を帯びて、枯れた柳の下に祠があり、その下に何者或いは何物かがいる。
「お菰(乞食)さんでしょうか」
 山野は言った。
「しかし、この寒空に池端で寝るよりは、三条河原のほうが幾らかましだぞ」
「では、例の浪士ということも」
 一本道の両端は、俄に暗い木立になっていて、その間から祠が見えつ隠れつしていた。二人は足音を忍ばせて、段々に池の方角へ進み、止まった。
 水の反面する明かりでおぼろげに影が浮かんだ。斎藤が頷くと、山野は思い切って提灯を突き出し、影に向かって言った。
「そこで何をしている」
 返事は無い。かさこそと落ち葉を踏み分ける音がして、祠の後ろから人影が立ち上がった。そのまま峠の方へ向かって、二人を振り切ろうとするので、斎藤も駆け出した。
「黙っているとは明らかに不審。場合によっては斬る」
 そう脅しをかけて行く手の前に回ると、挟み撃ちに山野が相手の後方へ出て灯りを掲げた。
 尋問をしようとして、斎藤ははっと息を呑んだ。
 男はまだ若い。前髪を上げたばかりのような、卵を剥いた如くつるりとした白い肌に、杏仁のような涼しい二つの眼、通った鼻筋、寒椿色に似た赤い唇。十代後半の美しい若侍であった。
 斎藤も山野も、その男の名を知っている。
「馬越じゃないか。何故こんなところに」
 新選組隊士・馬越三郎である。山野も斎藤の隣に並び、一足摺り寄った。
「本日は非番だったな」
 山野が問うと、馬越はこくりと頷いた。
「はい、然様にて」
「まさか、池の弁天様へお参りか?」
 馬越は答えなかった。伏目勝ちの長い睫毛が、震えていた。
「弁財天参りなら竹生島だが、何分遠いので行けぬ。そこで深泥ヶ池というわけか?」
 斎藤の問いにも答えない。斎藤と山野は、顔を見合わせた。そして、土方から言われたことを馬越に説明した。
「斯様な事で、浪士がうろついているというが、もしやそれはおぬしが不逞の輩と間違われているのではないか?」
「それは判りません」
 漸く、馬越は口を開いた。見れば、編笠を片手に、袴を着けぬ着流しの忍び姿である。誰が見ても、新選組隊士とは思わないであろう。
 しかし、怪しい者の正体が判ったので、斎藤もこれ以上詮議の仕様が無く、三人はとぼとぼと北山から南に向かって歩き出した。山野は口篭ったままの馬越に気を遣ってか、いろいろと話し掛ける。「此処らへはよく来るのか?」「道中さ迷って祠のところへ着いたのではないのか?」など。
 山野も馬越も同じく、半年程前、文久三年六月の入隊であり、いわば道場などでいう同級のようなものである。
 だが、やはり馬越はうんとかすんとか湯屋の中の返事のようではっきりしないので、温厚な山野も業を煮やしてしまい、御所の辺りを越した頃には三人ともむっつりと押し黙っての道行となった。
 その晩は屯所へ戻ったもの、土方は所用で外出していたので、斎藤は二人を宿所へ帰したのだった。

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