(三)
斎藤が巡邏の途中、組を離れて二条城下の奉行所へ赴いた時、既におくみの死体は粗莚の上にあった。茶店の両親はどちらも身体が弱っているので、やがて人足が娘の遺骸を下鴨まで運んでいくという手筈になっていた。
おくみの死骸は美しかった。苦悶の跡も見えず、只眠っているかのように瞼を閉じていた。生身と異なるのは蝋のように血の気の無い顔色と、頬の擦り傷であった。
恐らくその傷は、池に落ちる時にでも木の枝か蒲の葉で切り裂いたのものであろう。生前の器量を損なうようなものではなかった。
やがて斎藤がじっと死体を見詰めていると、奉行所の下役人が出て来た。
「馬越どののお迎えか?」
そう訊かれて斎藤は馬越三郎が尋問を受けていることを初めて知った。誰かがおくみと馬越の仲の事を言ったものか、或いは馬越が此処へ来てそういうことになったのか。いずれにしても身内以外で最も親しかった者が取り調べられることに不思議は無い。
「ああ」
と、斎藤は曖昧に答えた。
「事故か殺しか?」
「今それを調べているのでさ」
下役人は言った。どうも言葉からして、生粋の上方の人間ではなさそうだった。
池から娘の体を引き揚げた時、相当に水を呑んでいたらしく、池の水を多量に口から吐いたという。
この時死んでいたのかどうかは判らない。ただ、農家の男達が藁火などを焚いて温めても、いっかな息を吹き返さなかったというので、死んでしまったのは確かだった。
ということは、殺してから或いは死んでから池に放り込まれたわけではなく、あやまって落ちたか落とされたかという可能性が高いのであった。
下役人と話しているうち、奉行所の中から馬越が出て来た。
「馬越」
まるで幽鬼の如き足どりと、蒼褪めた顔色であった。いつもなら平隊士のそのような姿を見ると、たるんでいる、と一喝を入れたくなる斎藤だったが、流石に今日ばかりは黙っていた。
今にも泣き出しそうな馬越の背中を押し遣って、斎藤は屯所へと向かった。堀川沿いに五条辺りまで下った頃、つと馬越が言った。
「昨日は非番でしたので、上賀茂にお参りに行こうと、おくみと約束していたのです」
そうして、八つ刻に北山村の加茂川沿の地蔵の前で待ち合わせをした。ところが、暮六つを過ぎてもおくみはやって来なかった。冬のことであるので、七つになると既に辺りは暗くなる。
娘の一人歩きは危ないし、ましておくみは近目である。もしや、すっかり約束を失念しているのではないかと、馬越は下鴨へ寄ってみた。だが、
「いいえ。おくみは馬越様と上賀茂はんへお参りする筈やなかったんどすか?午過ぎには出て行ったんどすけど」
老母が怪訝な顔付きで、答えた。
慌ててまた地蔵のところへ戻ったり、もしか既に神社へ行っているのではないかと上賀茂へ行ったが、おくみの姿は何処にも無かった。やがて門限が近付いてきたので、馬越は仕方なく諦めて屯所へ帰ったのだという。
「いろいろ考えてみました。待ち合わせの時刻を言い間違えてしまったのではないか、或いは日を間違えたか。もしや、おくみに他に男が出来たので其方へ行ったのではあるまいか、などと」
「奉行所にはありのままを言うたのか?」
はい、と馬越は答えた。声が震えていた。
「一つ、言い忘れていることがあるだろう」
「えっ」
馬越は吃驚したが、すぐに斎藤の言わんとする意味を覚ったようだった。伏目勝ちの眼を黒い睫毛が縁取って、せわしなく動き、馬越は斎藤から視線を逸らせた。
「武田先生の事ですか。確かに武田先生は私にしつこく言い寄っていました。おくみとの仲が判ってからも、執拗に。非番になるとつけてくるのです」
「昨日もそうだったのではないのか」
すると、馬越ははっとなって斎藤の昏い眼を見た。
「屯所を出て暫くはそうでした。ですが、加茂街道を上って行くうち、何時の間にかいなくなっていたのです」
「それは何刻だ」
「屯所を出たのが午過ぎでしたので、それから半刻も経っていません。――まさか」
馬越の顔色が、見る見る白ちゃけていった。武田は誰ともなく馬越とおくみの待ち合わせの場所を知り、先回りをしておくみに会った。そうして、言葉巧みにおくみを脅して深泥ヶ池まで連れ出し、突き落としたとも考えられる。
それにしても、深泥ヶ池までゆうに二里はある。わざわざ其処までせずとも、加茂川に落としてしまえば幾ら底が浅いとはいえ、冬の冷たい川に娘の身では驚いて死に至るやも知れぬし、手っ取り早いのではなかろうかとも言えるが。
武田は理論家ではあっても、実践には余り得手ではない。女子といえども斬るよりは事故に見せかけて殺してしまえ、と思っても不思議は無い。ただ、果たしてたかが色恋に其処までするものか、と斎藤は思うのだが。
「しかしお前、武田をそうまで執着させるってのは、もしやもう体の関係を持ってしまったのか?」
「ありません」
馬越は大きく首を横に振った。下唇を震わせている。
「ならば武田の一方的な横恋慕か」
「いずれにしても、私の迂闊でおくみを死なせてしまったことには変わりありません」
馬越は言った。それきり屯所へ着くまで、斎藤も馬越も黙りこくってしまっていた。
土方は事の仔細を聞くと、頻りと頷いていたが、かといって馬越に労いの言葉を掛けるでもなく、隊務から暫く外してやるなどという事も無かった。仕事は仕事として、私情を挟むなということなのらしい。
翌日、斎藤は一人深泥ヶ池まで出向いてみた。
池の周りはすっかり平生の静けさに彩られており、誰もいなかった。
おくみが見付かったという端まで歩いて行くと、確かにそこ等には草を踏み拉いた跡があって、その方向は池の中に向かっていた。
丁度、弁天祠から三間弱離れた柳木の脇にあたる。
待ち合わせには不向きな場所であり、しかも仮にそうするなら祠の前がよいに決まっている。すると、やはりおくみは何者かに呼び寄せられ、諍いとなって突き落とされたといえようか。
斎藤は、弁天祠の前に立った。
何の変哲も無い祠を凝視しているうち「おや」と思うことがあった。
祠の裏側が不自然に掘り起こされ、土手が捲れ上っているのである。
それも一度ならず土が盛られている。何故かは判らない。祠の下に、何か貴重な物でも埋められていて、誰かが掘り当てようとしたものか。或いは、土竜や鼬が掘った穴か。穴の中に被さった土を弄っていると、不意に固い物が指先に触れた。
とんぼ玉であった。簪に使うように穴が開いている。その薄紅色の丸い玉を見て、斎藤は「おくみの物ではないのか」と感じた。それを指の腹で拭い、懐に入れようとした時、かさこそと枯葉の舞う音がして、斎藤は振り返った。
「武田か」
問うてみたが、返事は無い。確かに人の気配であったと覚ったのだが、思い違いだろうか。
池の畔に立っているのは、己一人であった。
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