(六)
稽古の無い昼間の出来事であった。小磯は下鴨の茶店から、おくみが出て来るのを見た。
急度、馬越に会いに行くのだろうと思い、そう思うと居た堪れなくなって、おくみに見付からぬよう数間離れて後をつけて行った。
糺の森を過ぎて、加茂街道へ抜け、勝手知ったる道中、おくみはずんずんと北へ向かって行く。人気の無い所で落ち合う事にしているのか、と疑いもせず小磯はついて行った。
やがて東に折れて川を渡り、北山村へ入った。小半刻も歩いておくみの足取りは衰えず、遂に峠の麓の深泥ヶ池に辿り着いた。おくみは池端の弁天祠の前に膝まづき、願を掛けた。
「殊勝な心掛けかとは思いましたけんど、恋敵は恋敵ですさかい。うちはやっぱりこの時、嫉妬の鬼に取り憑かれとったんやろか。馬越はんに、こう言うてしもうたんです」
小磯は馬越が座敷に来た時、
「近頃、深泥ヶ池の弁天はんがご利益あるいうてお参りする若い娘が多いらしいけど、お参りだけではあかんのやて」
と、言ってみた。そうして、馬越の反応を見てから、さらに言った。
「祠の裏手に何や古い鏡が埋まっとうらしいわ。それを探し当てたら願が叶ういう言い伝えがあるよって」
恐らくその事を馬越はおくみに話すであろう、と小磯は踏んだ。そこで自分の持つ古い手鏡を持って、深泥ヶ池まで行き、祠の後ろ、池端に埋めた。そのうえ、そこを滑りやすいように少し土を掘って細工をしたのである。
小磯は蒼褪めた顔色で言い、己の口許を覆った。
「せやけどほんまにあの娘が、うちの与太話を信じて鏡を掘りに行くとは思わなんだ。ほんまにあそこから、足を滑らすやなんて」
小磯の告白は、衝撃に値するものではあったが、それを聞いていた斎藤も山野も沈鬱でこそあれ、激しく芸妓を詰る気が起こらなかった。
小磯はおくみが鏡を掘り当てて有頂天になり、うっかり足を滑らせる場面を目撃した。にもかかわらず、助けを呼ぼうともせず、只恐ろしくなって逃げたという。その点において芸妓に非はあった。
だが、直接手を下したのではない。奉行所に連れて行くべきかどうか思案の末に、斎藤は一先ず屯所に帰って馬越に確かめた後に、然るべくいたそうと考えた。
果たして、壬生へ戻った。
だが、馬越は巡邏に出ていて不在だった。
またその翌日、忌むべき出来事が起こった。
深泥ヶ池に、今度は小磯の死体が浮いていたのである。置屋の女将が話すには、小磯は朝に出掛けると言って出たきり、夜になってお座敷の時刻になろうとも戻って来なかった。方々捜してみたが、結局一晩帰らず、明けて昼頃奉行所より報せがあったのだという。
女将が行ってみれば、確かにそれは小磯の亡骸で、懐に自分の手鏡を入れていた。
それが例の小磯の埋めた手鏡ではないかと、斎藤は思った。
しかし乍ら、祠の裏に埋められた手鏡は、一旦おくみの手に拠って掘り返されたのではなかったか。
斎藤は奉行所へは行かず、屯所にいる筈の馬越を捜した。すると、屯所の何処にも姿が見えぬので、傍に居た平隊士に訊ねてみると、
「壬生寺の方ではないでしょうか」
と言うので南へ下って境内に入ってみると、果たして馬越は其処にいた。近所の子らが独楽を回しているのをぼんやりと眺めている。だが、斎藤がやって来たのを知ると、俄に怯えたようになった。
「お前、昨日は何処にいたんだ?」
「市中巡邏していました」
「途中抜けたりしていないだろうな?」
念を押す斎藤の冷たい目付きを、馬越はおずおずと下から見上げた。
「小磯の事を疑っておられるのですね」
馬越は、はっきりと強い声で言った。斎藤が事情に通じていることも、知っているようだった。
「昨日同道した隊士に訊いて下さって構いません。私はやましい事など、何もしていません」
「小磯は勝手に池へ行き、誤って滑り落ちたというのが相応しいだろうな」
斎藤は、言った。
「だが、身請けするという空約束をして、他の娘に現を抜かし、揚句に袖にされてしまった女なら自ら池に身を投げるかも知れん」
「まさか」
馬越は、斎藤に向き直った。整った顔立ちに、やがて沈む夕陽の欠片が疎らに落ちていた。
「小磯はそんな殊勝な女子ではありませんよ。何かというと、事あるごとに身請けはまだかのと口説を言い、もう水商売は飽きたの、早く女房にしてくれという。此方がそう直ぐにもどうにもならぬ事を、しつこく言い迫るのです」
馬越は嫌なものでも見たかのように、愁眉を寄せた。
「そうは言うが、元はお前がうっかり所帯を持ちたいだのと言い出すからではないのか」
「斎藤さんは、何故その事を?」
「小磯本人に聞いたのさ」
すると、馬越は「あのお喋り女め」と、小声でぼやいた。美しい顔に、険が走った。
「おくみと深い仲になったのは、武田を追い払う為ではなく、小磯と手を切りたかったからなのか」
「然様です。しかし、おくみを好い娘だと思ったのに偽りはありません」
馬越は伏目がちに答えた。
「二人ながらに所帯を持とうと言ったことは、怪しからんな」
返事はなかった。たった少しの間に、夕陽はすっかり傾き、彼等を彩る光も次第に暗味を帯びていった。
「弁天様の祟りでしょう」
頓狂な事を言われ、斎藤は一瞬唖然となった。
「小磯はああなっても仕方ないのですよ。おくみを殺したのは、あの女なのですから」
馬越の形良い赤い唇に、皮肉らしいような自嘲めいたような微笑が浮かんでいた。
「地蔵前で待ち合わせをしたあの日、私は途中でおくみの姿を見掛けたのです」
そして、どうせならと走って行って声を掛けようとした時、数間あけておくみを追う女の姿を見た。
小磯であった。咄嗟に立ち止まったのは、小磯に対するやましさもあってか、馬越は二人の女をさらに後から追って行った。
深泥ヶ池に着くと、おくみは何やらいつも参詣しているという弁天祠の裏を掘り始めた。
やがて手鏡のような物を見つけて喜色を表すおくみの前に、小磯が姿を見せた。
こうなるともう恋敵同士の争いになるより他は無く、馬越は固唾を呑んで見守っていた。辺りに人は無し。最初は言葉のみ言い争っていた二人も、次第に昂じてきて手鏡の奪い合いになり、とうとう小磯のほうがおくみを池の中へ突き落としてしまったのである。
「それをお前は見ているだけだったのか」
斎藤は、念を押すように言った。
「そうです」
馬越は悪びれた風もなく、只淡々と答えた。感情を押し殺しているようにも見えた。
「のこのこと二人の前に出て行けば、争いが激しくなるだけのように思いました。しかし、まさか小磯がそこまで思い詰めているとは」
「せめて小磯が立ち去った後、おくみを池から救い出そうとも思わなんだのか」
斎藤は詰るでもなく、半ば諦めたかのように言った。
「そうしようとしました。ですが、池の藻に絡まったか、おくみを引き揚げる事は出来ず終いでした。水を呑んだのか返答も無く、誰か行商の者でも通ったひには私が突き落としたかの如く見えるので」
馬越がそう言い終るか終わらないかで、斎藤の拳は弾けるように飛んだ。境内の真中に、三間ばかり吹っ飛ばされた馬越の身体が伸びていた。
「士道不覚悟ッ」
斎藤は叫んだ。だが、馬越は手足を伸ばしたまま起きなかった。どうやら気絶したらしかった。
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