(一)
春はまだ浅い。
調練の声を遠くに聞くのは「お西さん」の境内の広大さだろう、と斎藤はぼんやり思った。
彼が裸足に草履を突っかけた足元の、砂がぱらぱらと散っていた。
雨ではない。
稗や粟を撒く斎藤の手の動きを追って、コッコッコッと鶏がまどっていた。
番
(つがい)の鶏はめいめいに餌を啄ばんでおり、決して一定以上斎藤に近付かず、かといって離れず微妙な緊張を保っていた。
「こ奴ら、おれを何者だと思っているのかな?」
と考えてみたりもしたが、鶏に深い考えがあろう筈もない。しかし、生き物を相手にするのはたとえ人語を解さぬ鳥や犬とはいえ、面白い。言う事を聞かぬのも然り、突飛な事に吃驚するのも然り。人間同士にはない趣があった。
「庭でこそこそと何をやっているのかと思えば」
鶏か、と渡り廊下から声がした。副長の土方歳三だった。
「何処から手に入れたんだ?」
土方は眩そうに陽だまりを見た。
「八木さんの所に出入りしていた百姓家の権八という男からです」
斎藤は、餌を撒く手を止めた。
新選組が西本願寺に屯所を移してから、まだ半月程である。以前は葛野郡壬生村の郷士・八木邸を中心に幾つかの邸宅に間借りして、新選組の宿所としていた。西本願寺に入ったにしろ、結局はやどかりの殻が大きくなっただけで、借り物には相違ない。
漸う出て行ってくれた八木家の人々にとっては、まず一安堵だった。
しかし、無理からの押し借りのようなとっかかりではあっても、数年も一緒に暮らしてみればそれなりに愛着は湧く。
今でも時々懐かしんで八木家を訪れる隊士は少なくなかった。
八木家のほうでも歓迎はする。
そんなこんなで、斎藤もたまさか非番の日があると、休息所でも島原でもなく、八木邸を訪
(おとな)うことがあった。
こうした次第で八木家に行った先日、権八に会い、番の鶏を安く買った。
「良順先生が仰っていましたよ。隊の中には、不衛生で風邪を引いたり胃腸を弱らせたりする者が多い、滋養のあるものを食わせろと」
「ああ、豚肉を食わせろと仰っていたな」
土方は尖った顎に手を当てて、苦笑いした。
幕医の松本良順が在京中である。近藤との誼から良順は度々、組の衛生状態や隊士の病を診てくれるのだが、確かに指摘の通りなのだ。本願寺の庭に柵を拵えて豚を飼い、薬喰いにするように言われている。
土方自身は格別好きでもないが、他の幹部の意見も聞かねばならぬ。
「おれは獣肉
(ももんじい)の臭いは、どうも胸がむかつくのでいけません。鶏卵は滋養に良いので購って来たんですよ」
斎藤は再び餌を撒き始めた。
「しかし、こ奴等一日一個朝に生むだけなので、とても大勢には行き渡りませんなァ」
「美しい鶏だな」
つやつやと金茶色の羽毛が陽射しに照り返っている。雄鶏の鶏冠は烈火の怒るが如く真っ赤で美事、尾羽は鴉の濡れ羽色より濃い黒色をしていた。
「今朝方の卵はどうした?」
「生みたてのほやほやは、原田さんにあげました。妻女がおめでただそうで」
「そういやそうだったな。あいつの事だ、手前ェでゆで卵にして食っちゃあいねえか心配だ」
「原田さんにそんな器用は出来ませんよ」
それもそうだ、と二人で笑い合っているところへ、一人の隊士が通り掛った。
坂口久太郎という二十三、四の男である。背丈はひょろっと高く、仲間内では「ひょろ久」とも呼ばれている。
「調練に行くかね」
と、土方が訊くと、坂口は首を振った。
「今し方、探索から戻ったところです」
「土方さん、こいつは監察方ですぜ」
斎藤が笑う。ああ、と土方は首を傾げた。このところ諸士調役だ伍長だを組み替えたり、各組の編成変えをやって変更したばかりで、よく覚えていなかった。
すると、矢庭に雄鶏が毛を逆立てて羽ばたいた。
かと思ううちに鶏は勢い坂口目掛けて飛び掛った。
「あッ」
闘鶏もかくやという荘々しさで坂口の袖口を駆け上がり、顔面を狙って口嘴で突付く。
目の色変えて、とはまさにこの事かと、鶏の金色の目はぎらぎらと光り、目前の男を攻撃するのに執心した。
「こ奴め」
斎藤が立ち上がって捕まえようとすると、器用に飛んで避けた。土方が懐の煙管を投げ付けたが、尾をかすめただけで、嘲笑うように鶏は執拗に坂口を責めた。
大刀で斬るにもいかず、縄も駕籠もない。漸く斎藤が思いついて羽織を脱ぎ、引っ被せたところ、雄鶏は静まった。
坂口は手の甲や手首といい、すっかり掻き傷にやられてしまって蚯蚓腫れを作っていた。生血すら溢れ出し、砂利を赤い斑点が汚す程だった。
「大丈夫か。奥で手当てをして貰え」
土方はそう言って煙管を受け取ると、心配しつつ立ち去った。誰かが来客で土方を呼んだらしかった。
斎藤は羽織ごと雄鶏を捕らえると、
「急に暴れ出すやつがあるか」
と一喝した。坂口はひどく蒼白な顔色であった。
「いえ。何か鶏の気に障るような臭いでもさせていたか、気に入らない服装だったんでしょう。お気になさらず」
探索の為に坂口は隊士服ではなく、商人風に装っている。その所為かもしれない、と言って手拭で頬や腕を拭きながら歩いて行った。
それにしても、天敵でも見たか気が違ったかのような暴れぶりだった。茶色い羽毛が其処らに飛び散らかっている。
坂口が去ってまた雄鶏を放すと、彼は何事もなかったかのように庭を歩き出した。
「面妖なこともある」と、坂口を気の毒に思ったが、斎藤は然のみ深く考えなかった。
(二)へ