(四)
明里天神は二十歳を幾許か過ぎたばかりの目元の涼しげな芸妓で、唐船屋では古株の妓だった。
芸事はそこそこ出来て、一寸お人よしのところがあって、太夫上がりをしないままであった。
それが、新選組監察方の坂口久太郎に知り合ったのは、半年程前か。
商家の若番頭の振りをして間諜に入った揚屋で、坂口は明里を見た。酔った振りで立ち聞きしようと耳を欹てていたところ、廊下を通り掛かった尊攘派の藩士に見付かった。
危うく難詰されるところ、明里がお座敷に上がるのと行き違った。
「あら旦はん。こないな所で何してはるんどす。いやどすえ、うちが遅うなったんで待ち切れんかったんどすか」
目配せをされて、坂口は明里が自分に助け舟を出してくれたのに気付いた。
坂口は適当に口裏を合わせた。明里は自分の座敷の前まで坂口を連れて行き、
「わかっとります。新選組のお方どすな。いつもうっとこは御世話になっとりますさかい、お助けしますんのや。そやし、今晩はもうお帰りにならはったらええ思います」
従容と笑んで、襖の奥へ入って行った。
それ以来である。
「私は明里のことが忘れられなくなりました。世の中にあんなやさしい、頭の回転の良い美しい女子がいたとは」
坂口は俯き加減のまま、口迅
(くちど)に喋った。
どうやらこの男は余り女の事も知らず、糞真面目に生きてきたのらしい。器量やおつむでいえば、明里くらいの女は素人にも幾らもいる。只、お人よしのやさしさは滅多とないだろう。明里には女特有の計算高さが見えなかった。
「ところが、明里はもう――」
既に別の馴染みが出来ていた。
それも新選組の大幹部、山南敬助である。
坂口がそれを知ったのも、明里に会ってすぐの事だった。
「明里が山南総長の女だと判ってもなお、私は諦め切れませんでした」
機会あらば、そっと揚屋で明里を覗き見たり、何度逢状を書こうとしたことか。だが、太夫より一段下の天神といっても、坂口の給金でそうそう揚代を払えるでもなし。第一、明里が返答に困った。
「坂口はんがええお人やいうのんは、重々わかっとります。けど、うちはもう山南はんに操立ててしまいましたのんや。苦界の女が今更何をと思わはるかわからしまへんけど、うちは惚れた男はんについて行きとうおす」
明里はそのことを主人を通して、坂口に伝えてきた。そして、もう身請けの話も本決まりになっているという。
坂口は愕然となった。
が、如何ともし難かった。他人の女に横恋慕してしまった己がいけないのだと思い、忘れようとした。辛いが、時間が経つのを待つばかりだ。
その矢先だった。
二月二十一日、青天の霹靂ともいうべき出来事が起こった。
山南敬助が脱出した。理由はその時誰も知らなかった。
大津宿で追手の沖田総司に連行され、屯所に引き戻された。翌日、山南は隊規に拠って切腹を申し付けられた。
坂口は、山南の事情を知らない。斎藤はわからないでもないが、誰も山南本人に問糾することも、幹部同士で話し合うことも憚られた。
少なくとも、旗揚げ当初の人間と山南、そして新参の者らの間にも見えない暗渠が横たわっていたのは確かだった。
山南切腹の前に、一度明里に会わせてやれば、と言い出したのは永倉新八と原田左之助だった。
普段、妻子が居ては臆すると厳しい口調の土方も、この動きには見て見ぬ振りだった。
その土方自身が、山南の探索を命じ、隊規の執行を頑なに迫った当人だったが。
さっそく島原に使いが走った。
だが、唐船屋の主人は、
「明里なら先刻、山科の親戚のとこへ出かけましたわ。何や急病の見舞いやて」
とにかく報せは報せとして主人は受け取り、使いの者は帰った。
ところが当の明里は山科へ行ってみて、吃驚した。家には病人など一人としていない。
また、その家でも島原へ使いを遣った者もないというので、面妖である。聞き違いか誰かの悪戯かという事になったが、本当に聞き違いで別の芸妓へ伝えるべくがそうなったのだとしたら、申し訳ない、と明里はとんぼ返りで京へ戻ってきたのだった。
粟田口付近まで来た時、不意に駕籠が止まった。
「何ですのん」
明里が顔を出してみると、前に坂口久太郎が立っていた。
「戻らんほうがいい」
「どないしはりましてん坂口はん。うちが戻らんほうがええかて、どないな事ですのん?」
明里は単純に訝った。坂口は暫し黙していたが、歩み寄ると、明里の肩に手を掛けた。
「お前さんが戻るところはない。どうか黙って、おれについてきておくれよ」
その一言で、明里の顔色が青褪めた。
「山南はん――山南はんに何かあったんやね」
坂口は答えなかった。答えのないのが答えである。
明里は眦を吊り上げ、胸の前で拳を硬く握り締めた。「やっぱり」と小さく無念そうに紅い唇が呟くと、明里は再び駕籠に乗った。
「こうなったら、どないしても最後に一目山南はんにお会いしとうおす」
坂口は取り残されたまま、街道の先を見詰めるしかなかった。
女の一念というべきか、辛うじて明里は切腹の寸前、謹慎部屋の格子越しに邂逅を果たす事が出来た。その時、前川邸の格子窓にすがってむせび泣いた明里の悲痛な声を、斎藤も遠くで聞いた。
「申し訳ありませんでした」
坂口は、畳に額を擦り付けるようにして何度も繰り返した。
「置屋に嘘の伝言を流したのは、この私です。明里がなるべく悲しまぬようにというのは口実で、本当はこの時に乗じて彼の女を自分のものにしたかったのです」
最後に山南に会わせると、未練が残ると思った。坂口は其処まで思い詰めていたのだった。
斎藤はこの男の一途さを哀れに感じた。哀れに感じつつも、少し腹が立ってきた。
「済んだ事だよ、泣くんじゃねえよ。泣いたって返って来ないものは返って来るものか。まして、お前さんは莫迦な事をしたとはいえ、明里は間に合ったんじゃないか。恨んでなぞいないだろうよ」
坂口は、それでもまだ嗚咽を止められないでいた。「むしろ恨まれて仕様が無いのは、おれ等のほうさ」と斎藤は思ったが、口にする事が出来なかった。
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